雨と蝶

ヌーバ

この文章が書かれる条件は

 最初に違和感を覚えたのは、バスに乗り込んだ時であった。地方小都市T市の外れのアパートを借りて一人暮らしをしていた当時の私は、毎朝8時のバスに乗って、駅前の大学に通っていた。毎朝の駅前行きのバスは私の乗るバス停の2個ほど先まではガラ空きで、3個先の集合住宅前のバス停から一気に混み始めるといった具合であった。だから、私は普段自分が乗るときにすでにバスの中にいるのは誰か、はっきりと覚えていた。大学附属の小学校に通う、この辺りでは珍しく制服を着た小学生、乗客の中で地蔵尊前で降りる唯一の人物である30代前半くらいの茶髪の女性、高そうなコートを着た品の良い老婦人、毎日バスの座席を2人分占有していびきをかいている中年男性、それから、最近この辺りに引っ越してきたらしい地元一の進学校に通う女子高校生、この5人が、いつも私よりも先んじてバスに乗っているのであった。さて、私はいつも通り、右後ろの1人席に向かって狭い通路を歩いていたが、例の女子高校生が今日はどこにも乗っていないことに気付いた。いつもは後からバスに乗る友人のために、左側の2人席に陣取っているのだが。とはいえ、高校生だって学校を休むこともあるだろうし、そんなふうに5人のうちの誰かが欠けていることは、珍しくはあったがそこまでおかしなことでもなかったから、微かな違和感はすぐに今日返却されるであろう小テストにかき消された。

 次に違和感を感じたのは、大学の学食である。私がよく選ぶイワシの煮付けが、今日はサバの塩焼きに変わっていた。地元でとれるイワシを使った煮付けは、学食としてはなかなかの美味しさで、私は週に2度ほどはこれを食べることにしていた。メニューの変更はわりとよくあることではあるが、そのタイミングは大体週明けであるため、水曜日のメニュー変更に、私は若干戸惑った。しかも、イワシの煮付けは、十年ほど前に何かの代打として急遽メニューに加えられて以来、意外な人気を博し、我が大学の学食の看板メニューの一つであったから、そう簡単に別のものに取って代わられるとは思えない。とはいえ、これも明らかにおかしいというわけではなかったから、10分後には忘れて、ソシャゲのガチャの引きの悪さに辟易していた。

 しかし、この後の出来事は、自分に全てを疑わせるに足る、衝撃的なものであった。それは神様からみたら何も変わっていないかのような、ほんの些細な事に過ぎなかっただろうが。

 大学から帰るときには、体力維持のためにも30分ほど歩くことにしている。期末試験も見えてきて一層厳しくなった勉強のリフレッシュにはちょうどよいし、同じ町の違う大学に通う昔からの友人にも、運が良ければ会うことができる。そしてこの日は、この点に限れば運のいい日であった。途中でシャンプーを切らしていたことを思い出して、ドラッグストアに寄り、目当てのものを買って外に出ると、少しずつ強くなってきた風と雪の中に、彼の姿が認められた。背の高い彼の姿は、雪によって曇った視界でもよく目立つ。彼はドラッグストアに向かって歩いていたので、いつものように、このまま合流して比較的大学に近い彼の家のあたりまで一緒に散歩をするだろうと思っていた。相手が自分に気付いたのが分かった。いつもの通り、私は彼に歩み寄り、以前話していた彼女との喧嘩の行く末を聞いた。

 ところが、彼は一瞬怪訝な表情を見せ、やや遅れて、誰から聞いたのかと私に尋ねてきた。私は彼に自分から話したじゃないかと告げたが、(深夜テンションでの会話は、自分から、とは言えないのかもしれないが)どうにも納得していないようである。そればかりか、私がこの町にいることさえ、今初めて知ったと言い出した。そんなはずはない。彼は何か下手なドッキリでも仕掛けるつもりなのか。もしドッキリならば別に気にする必要もないかと思い、敢えて違和感を無視して話題を変え、話を続けた。会話はそれなりに弾んだが、どうにも距離の遠さを感じる。同じ時間を生きた感じが、全くしなかった。怪訝な表情を隠せないところなどは、まさしく彼本人であるにも関わらず。まるで突然彼が元居た世界を脱して別の世界に行ってしまったかのようだ。どうにも違和感がぬぐえず、その日は自分から早々と会話を打ち切ってしまった。

 一度強烈な違和感を抱くと、何もかもが怪しく思えてくる。あの家はクリスマスのイルミネーションをつけていたはずだとか、あのアパートは築9年ではなく10年だったはずだとか、何より大きな違和感は、アパートのテレビで見たスポーツ選手の失言問題である。レジェンドとして知られる名選手が、災害の被災者への配慮を欠いた言動で批判を受けているというニュースだったが、彼は10年前、まだ若手だったころに、ある大会で優勝した後のインタビューで、同じような発言をして、そのまま引退したはずだった。もしも再び現役復帰していたとしても、メディアがそのことを取り上げぬはずがない。インターネットで調べても、10年前の失言は全く出てこなかった。そればかりか、10年前の大会は、雨で中止になったことになっている。そんなはずはない。あの大会とその周辺で起きた事件は、ふるさとの人々にとって、そして私にとっても、非常に印象深いものであるからだ。

 あの日は大雨が降っていた、これは後で聞いた話だが、私が住んでいた町の隣町でのスポーツの大会のために、最新技術で積乱雲を散らしたところ、私の住む町の雨雲が異常に発達し、大雨警報が出るほどの騒ぎになったらしい。実質的な日本代表決定戦ということで、運営はかなり気合いをいれて最新技術を導入し、晴天を実現させたらしいが、これが近隣に予想もつかぬ悪影響を及ぼした。優勝したスポーツ選手本人は実際何の関与もしていないが、近隣での被害について、自分には関係ないことで、どうでもいいと発言してしまったことで、バッシングを浴び、そのまま引退に追い込まれた。優勝の喜びから、つい気が緩んで独善的なところが表に出てしまったのだろう。実は私は、この雨に少しだけ感謝していたから、今思えば、彼を非難する資格はない。

 小学生だった私たちは、大雨警報によって、雨が止むまで学校に閉じ込められた。学校は地域の避難所になっていたので、子供たちを家に帰すより安全だと判断されたのだろう。当時はゲーム以外の遊びでは体育館でのドッジボールが流行っていたが、避難者の受け入れを想定して、体育館の利用は禁止された。私は普段から教室で本を読んでいることが多かったから、さして問題はなかったが、多くの同級生は不平そうな表情をしていた。それでも、自習時間に開発された消しゴム版ベイブレード大会が教室で始まるまで、さして時間はかからなかった。この時、私を誘ってくれたのが彼であった。一応クラスの中ではそこそこに勉強ができる方だったから、小学生なりにそこを買ってくれたのだろう。ドッジボールでは役に立たなくても、頭脳戦では強いかもしれない。実際には消しゴムバトルの技量は人並みかそれ以下といったところだったが。それでも、運動音痴と怒りっぽい性格のせいで、クラスになじめず腫れ物扱いされていた私にとっては、彼に誘われたことは何よりも嬉しかった。雨が止むと、私は彼と一緒に帰宅した。この日以来、彼とは親友になり、さらにそれをきっかけとして、クラスにも徐々になじんでいった。だから私は、あの雨が天然のものでないと聞いた時に、一応は怒った素振りを見せたが、密かに雨をもたらしてくれたどこかの誰かの失敗に感謝した。

 そういえばあの後、積乱雲はまだ暴れたりなかったのか、隣県のT市、つまり私が今住んでいる町でも、大雨を降らせたらしい。峠道が崩れて市外との交通が一時麻痺したとか、アパートで雨漏りが発生したとか、クリスマスイベントが中止になったとか、いろいろな被害があったと聞いた。

 もしかしたら、ここはあの日雨が降らなかった世界なのではないか、そんな仮説が浮かんだ。そうだとすれば、どうすればよいのか。世の中はこちらでも普通に回っているし、ほとんど違いはない。ただ一つだけ、彼との関係だけが問題であった。今日の会話からすると、どうやらあまり仲良くならずにここまで来たようである。もちろん、これから仲良くなる希望がないわけでもない。だが、共に歩んだあの道を、あの日のやり取りを、互いに共有したあの秘密を、なかったことにするのはどうしても避けたかった。そのためならば、静かに狂ったあの日々に、もう一度戻るのも悪くはない。例えこちらの世界が正解で、元の世界が間違いだとしても。そう考えた時、当然世界がゆがみ始め、崩壊していった。

 次に目を覚ますと、そこはいつもの寝台であった。汚い空気に、頭が痛くなる。急いで窓を開けて、周囲を見渡す。どうやら石油ストーブをつけたまま寝てしまっていたようだ。気密性の低い家で命拾いした。先ほどまでいた世界は、ただの夢だったのだろうか。それとも、酸欠による、何か超自然的な体験をしたのだろうか。答えは分からない。どうせならもっと面白い世界に行きたかったと、思わないでもない。まあストーブを消し忘れるくらい疲れた心と体では、たいしたところには行けそうもないが。

 あの事件から数ヶ月が経った。相変わらず流れ来る日々と格闘する毎日だが、今でも時々、ほんの少しだけ違った世界に来たのではないかと、錯覚する時もある。もしもあなたが、電車の中で、大学の講義室で、いつもの教室で、ふと違和感を感じたとしたら、そこは実は、こことはほんの少しだけ違う、別世界なのかもしれない。あなたにとってその世界は、何も変わらない場所だろうか、それとも、全てが違う場所だろうか。残念ながら私には、それを知ることはできない。 

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