OutLands編_第1話_灰の上の生活



 朝は、まず風の匂いから始まる。


 布の仕切りのすき間から吹き込んでくる灰混じりの風が、顔の皮膚をざらつかせる。

 寝返りを打つと、マットの下のコンテナの角が背中に当たった。


「……いてて。」


 ぼそっと文句を言ってから、私は上半身を起こした。


 頭上では、薄いテント布がパタパタと鳴っている。

 外のざわめきは、まだ「朝の列」が本格的に動き始める前の、低いざわざわだけだ。


 テントの入り口がめくれ、顔を突っ込んでくる影が一つ。


「起きてるか、イリヤ。」


 カイだ。

 私より二つ上。ゴーグルを額に乗せて、いつも油まみれの手袋をぶら下げている。


「起きてる。……もう水の列、伸びてる?」


「端っこなら、まだマシだ。」


 そう言って、カイはテントの柱を軽く指で叩いた。


「端っこが一番まっすぐだから。」


「真ん中が一番、噂が集まるけどな?」


「噂いらないし。」


 口ではそう言いながら、私は無意識に空の方を見た。


 テントの裂け目から覗く空は、いつもどおり薄い灰色だ。

 その高いところを、光を反射する小さな金属の点が飛んでいないか──つい探してしまう。


「今日は来てないって。監視ドローン。」


 カイの後ろから、別の声がした。

 水タンクを抱えたまま、サムが顔を覗かせる。


「昨日、東の見張り台から確認した。ウォッチャーは第七のラインの上を、いつもより多く回ってたらしい。」


 ウォッチャー。

 都市の監視ドローンのことを、ここの連中は皆そう呼ぶ。


「……それってやっぱり、ディスパーサが何かやったってこと?」


「リサイクル帯で爆発音がした、って話は聞いた。」


 サムがタンクを床に下ろし、肩をぐるぐる回す。


「補給車か、破砕機か、どっちか吹っ飛ばしたんだろ。いつものやつだ。」


 ディスパーサ。

 少人数で動く過激派の連中だ。


 都市の補給線やリサイクル帯を襲ったり、防衛壁に爆薬を仕掛けたり。

 そういうのが、あいつらの“仕事”らしい。


 同じアウトランズ側で生きていると言っても、私たち《ハウリング・ポイント》のような集落とは、目指しているものが違う。


「今日と明日は、第七のライン近くには出るな。レイモンドがそう回してた。」


 カイが言う。


「分かった。」


「ついでに、リオも叩き起こして水場に連れてけ。あいつ、昨日サボったろ。」


「リオは五回叩いても起きない。」


「十回叩け。」


「虐待だろ、それ。」


 カイは笑って、テントから出ていく。

 その笑い声が遠ざかると、また風の音だけが戻ってきた。


 私は短く息を吐いてから、固くなった芋を口に放り込み、マットから飛び降りた。


 外に出ると、朝の光が一気に目に刺さる。


 折れた高架道路の橋脚。

 窓ガラスの抜けた工場跡。

 錆だらけのコンテナ。


 その隙間に、布と板とスクラップで作った小屋が、ぎゅうぎゅうに押し込まれている。


 ここが、第八区画外縁の集落ハウリング・ポイントだ。


 遠くの空には、まだ都市の光壁ははっきりとは見えない。

 地平線の先、空と地面の境目にごく薄く走る細い光の筋が、それだ。


 そこからこっちに向かってくるものはだいたい決まっている。

 監視ドローンと、義体兵と、タクティカルフレームと呼ばれるロボット兵。


 とはいえ、それらがわざわざこの集落まで降りてきて、私たちを踏み潰すことはない。

 都市の仕事は、都市を守ることであって、端っこの集落を一々数えることじゃないからだ。


「……よし。」


 自分に言い聞かせるように呟いてから、私はリオを蹴り起こしに戻った。


 ◇ ◇ ◇


 水場の列は、いつもどおり長かった。


 タンクやポリ容器を抱えた人が、錆びた配管の延長線上に、もう一本の灰色の列を作っている。

 列の端っこで並びながら、私は肩のタンクの位置を少し直した。


「今日は静かだな。」


 前に並んでいるサムが、ぼそっと言う。


「第七の方角、あんまり煙も上がってない。」


「静かな時にそういうこと言わないで。フラグ立てないで。」


「フラグって何だよ。」


「昔の映像で聞いた。」


 くだらない会話をしながらも、私は列の途中から背伸びして、人垣の隙間を覗いた。


 水場の近くには、簡易フィルターを通してタンクに水を落とす小さな装置。

 その横に、見慣れない布の色が混じっている。

くすんだローブ。

 胸のあたりで光る、歯車と炎を組み合わせた金属の飾り。


 丘の教会。

 皆、そう呼ぶ。


 正式な名前は「アーク・サンクチュアリ」だとかいうらしいが、

 ここらでそんなふうに呼ぶやつはほとんどいない。


 集落のはずれの、小高い廃墟の上に、あいつらの拠点があるのだ。


「あ、丘の連中だ。」


 私の視線の先を追って、サムが口を歪める。


「今日も“説教つきの配給”かよ。」


 ローブの人たちは、三、四人のグループで動いていた。

 水場の列から少し離れた場所に折りたたみ式の机を出し、その上に乾いたパンや薄いスープの入ったポットを並べている。


 周りには、物珍しそうに眺める子どもや、遠巻きに見ている大人たち。


 丘の教会。

 皆、そう呼ぶ。


 集落のはずれの、小高い廃墟の上に、あいつらの拠点があるのだ。


「食い物につられて行くなよ。」


 サムが言う。


「行かない。」


 私は即答した。


 丘の連中のところに行けば、確かに少しだけマシな暮らしができる、という噂は聞いたことがある。


 屋根はもう少しマトモで、

 水はちょっとだけきれいで、

 都市から回ってくる薬も、ここよりは多い。


 その代わり──連中の「神話」を信じる必要がある。


 都市の管理AIを、「偽りの神」だと言って憎み、

 光の壁の向こうを、「悪魔の心臓が眠る場所」と呼び、

 いつかその心臓を引きずり出して、灰の上に打ち据える──。


 そんな話を、私は何度か耳にしていた。


「……あいつら、本気で、都市の管理AIをぶっ壊せると思ってるのかな。」


 気づけば、口に出していた。


「さあな。」


 サムは、あくびを噛み殺しながら答える。


「少なくとも、“思ってない”やつは、あそこには残ってないだろ。信じきれないやつは、こっちに戻ってくるか、どっかでくたばるかだ。」


「でもさ。」


 私は、ローブの胸元で光る金属飾りをじっと見た。


「都市の中には義体兵とタクティカルフレームがいて、その上に管理AIがいて、空には監視ドローンまで飛んでるんだよ?」


 たまにディスパーサが軍用でもないただの輸送車を襲っても、装甲板の厚さや警備にずいぶん苦労している。


 それを見たことがあるなら、普通は分かるはずだ。


「軍事力の桁、違いすぎるでしょ。」


「だから、“普通”じゃないんだよ。」


 サムは肩をすくめる。


「レイモンドが言ってた。“信仰ってやつは、計算ができなくなったところからが本番だ”って。」


「計算できない相手が、戦場に出てくるの、嫌なんだけど。」


「俺も嫌だ。」


 二人で同時にため息をついた。


「でもまあ、あいつらも今のところは、数を増やすので手一杯だろ。」


 サムが口元だけで笑う。


「“数で都市を覆い尽くす”とか、“神の敵を灰で溺れさせる”とか、そんなこと言ってるって噂だ。」


「やめて。朝から胃もたれする。」


 そう言いながらも、私は目を離せなかった。


 机の前で、ローブの一人が手振りを交えながら何かを話している。

 それを真剣な顔で聞いている、私と同じくらいの年の女の子。


 その横で、幼い弟がパンを握りしめている姿が、妙に胸に引っかかった。


 ──私たちがここで列を作っている間にも、

 丘の教会は、確実に人を増やしている。


 都市の管理AIを悪魔扱いして、

 本気で光壁の向こうを壊せると思っている連中が。


 そう考えると、背中のタンクが、さっきより重くなった気がした。


 ◇ ◇ ◇


 水を受け取って集落に戻る頃には、太陽は高架の影を短くし始めていた。


 広場の端では、レイモンドが小さな発電機のカバーを開けて、内部を覗き込んでいる。

 ゴーグルを目の前にずらし、油まみれの手で配線をいじる姿は、相変わらず「第八の何でも屋」らしかった。


「おかえり。」


 顔を上げたレイモンドが、水タンクに視線を落とす。


「溢してないか。」


「リオが三回こぼした。」


「じゃあ今日の晩飯は、リオの分だけ薄めだな。」


「ひど。」


 そう言い合いながら、私はさっき見たものを思い出す。


「ねぇ、レイモンド。」


「ん。」


「丘の教会、また人増えてた。」


 レイモンドは、短く息を吐いた。


「増えるさ。都市に向かって銃を向けるより、“祈れば報われる”って言ってくれる場所の方が、楽だからな。」


「でも、あいつら、都市の管理AIを本気で壊そうとしてるんでしょ。」


「そうだな。」


「無理じゃない? ウォッチャー一機だって、こっちじゃまともに落とせないのに。」


「無理だ。」


 レイモンドはあっさりと言った。


「だから、“奇跡を待つ”って話が出てくるんだろ。誰かが都市の中でやらかして、管理AIがちょっとでも弱ったときに、一斉に飛びかかる──とかなんとか。」


「……そんな都合のいいタイミング、来ると思ってるの?」


「来ると思ってるから、丘にいる。」


 レイモンドは工具を置き、私を真正面から見た。


「俺は、そっちよりこっち側が性に合ってる。だから、第八にいる。お前もだ。」


「うん。」


「どっちにしても、もし本当に都市がつまずくような日が来たら──」


 レイモンドは、光壁のある方角を顎でしゃくった。


「一番最初に踏み潰されるのは、第八みたいな“端っこ”だ。」


「慰めになってない。」


「慰めるつもりはない。」


 そう言って、また発電機の中に視線を戻す。


 私は、水タンクを下ろしながら、遠くの空を見た。


 高いところには、やっぱりウォッチャーの姿は見えない。

 光の帯も、ここからだとまだ心細い線にしか見えない。


 都市の中で何が動いていて、

 どんな計算が、どんな速度で回っているのか。

 こっちからは、何一つ分からない。


 分かるのは、足元の砂の感触と、

 タンクの重さと、

 リオの寝起きの悪さと。


 それから──丘の上の教会で、


「今日も神が都市の罪を数えている」


 なんて言葉を真に受けてる連中がいる、ということだけだ。


 私は小さく舌打ちして、タンクを肩に担ぎ直した。


「……リオの分、ちょっとだけ薄めにしよ。」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、私はテントの並ぶ方へ歩き出した。



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