その翡翠き彷徨い【第81話 天界の使者】
七海ポルカ
第1話
ザリ、と砂利を踏む音が近づいて来る。
雷鳴の一撃を放った二又の槍は、まだ雷精の気配に包まれ、黄金色の光を帯びている。
「……?」
倒れている【ウリエル】の許にやってくると【天界セフィラ】の大天使は、しゃがみ込んで首を傾げた。
「なんだウリエル。お前ならなら私の一撃くらい片手一つで避けられるはずなのに。
本当に軟弱になったな。創始の魔術師の一人が今やこの程度か」
バラキエルがウリエルの金色の髪を握り締めた。
「……ちょっと、待ちなさいよ……」
アミアカルバは呻きながら手を伸ばす。
「あんたら大天使同士の事情なんてどうでもいい……でも、ここは【天界セフィラ】じゃない。地上のエデンよ。あんたたちの力はエデンには強すぎる。こんなことしてまたエデンに【次元の狭間】でも開いたらどうするつもり……?」
「起きろ、ウリエル。【天界セフィラ】に戻るぞ。これ以上私の手を煩わせるな」
アミアカルバは素早く周囲を見た。
セフィラからウリエルを連れ戻すための刺客が地上に送り込まれたと聞いて、ウリエルを探しに来た者達。
みんな倒れている。
特にとにかく襲い掛かって来たバラキエルからウリエルを守る為に、彼女の前に構えていた者達は重傷を負っていた。
この地上においてアミアカルバたちの実体化はウリエルの魔力に依存している。
元々彼らが所有する魔力、魂の力、方向性によって、ウリエルの魔力が弱まっている場合、地上で実体化出来ないことが起こり始めていた。
【ウリエル】は近々消滅すると言われている。
魂の劣化、というのだという。
【四大天使】と呼ばれる天界セフィラを発見した創始の魔術師が、魂の劣化で消滅するのは初めてなのだとか。
それで今ならば何か手を打てるかもしれないのでセフィラに戻れと命令されているのだが、ウリエルは拒んでいる。
彼女が消滅すると、現在天界セフィラの魔力に適応していない、ウリエルの魔力に実体化を依存しているアミアカルバたちは、【天界セフィラ】にいれば何とかなるとも言われているが、消滅する恐れもあるのだ。
折角蘇ったというのに冗談ではない。
アミアカルバも大した思い入れが【ウリエル】にあるわけではないのだが、
自分が消滅したくないので戦うしかないのだ。
バラキエルはウリエルを【天界セフィラ】に連れ戻す使命を負って地上に降りて来た。
アミアカルバに魔力はほとんどないが、知識としては彼女は生前の魔術の知恵を備えている。
バラキエルは非常に強い雷の魔力を纏っているようだ。
その一撃を受けて、この一帯が今、一時的に雷の魔力に満ちている。
「ウリエル! 起きて!」
女魔術師は地に伏せたまま、意識を失っているのか、反応がなかった。
このままだとバラキエルに殺されかねない。
忌々しい傲慢な性格をした大天使だが、こいつは強い。
元より地上と【天界セフィラ】に生きる者では保有する魔力の桁が違う。
(魔力……)
自然と、自分より右手の奥に倒れている黒衣の術衣を探していた。
リュティスならばと思っていたが、彼も他の者達同様、バラキエルの攻撃の直撃を受けて倒れている。
(そりゃそうか……【
大弓を杖のように使って、アミアカルバは何とか立ち上がった。
「ウリエル。お前は何か勘違いしてる。
我らが【
お前が変になったのは、【ガブリエル】を見てからだ。
ガブリエルは【熾天使】のお気に入りだから、何回失敗しても許してもらった。
やり直すチャンスを与えてもらえる。
それに比べてお前はガブリエルが眠った時に呼び覚まされるが、彼女が起きればすぐに用無しだ。
そういう不満が、お前の魂を長い時を掛けて劣化させて来た。
お前は一度、しっかり【熾天使】に誉めてもらいたいだけだろ?
頭を撫でてもらい、ミカエルやガブリエルやラファエルと同じくらい大切に想ってもらってるんだと確信が持てれば、魂も安らぐはずだ。
二度とあの美しい【天界セフィラ】を離れたいなんて思わないだろう。さぁ帰るぞ!」
ぐい、とバラキエルが乱暴にウリエルの髪を掴み上げた。
「その手を離せって言ってんのよ!」
アミアカルバは怒声を上げた。
弓を構える。
「さっきから聞いてればなーにが一回撫でて貰えば気が晴れる、よ!
ウリエルが【天界セフィラ】から離反したのはもっと大きな理由のためよ!
そんな年頃の小娘の家出みたいなのと一緒にすんじゃないっての!」
「大きな理由だと? なんだそれは」
ひたすらアミアカルバたちを無視していたバラキエルの双眸が、不意にアミアカルバを見た。
ぎくりとする。
その凝視は、アミアカルバのよく見知った人間のものと似ていた。
――リュティスの目だ。
魔力を宿す、あの直視と似た圧を感じた。
この傲慢そのものにしか見えない短絡的な性格をした魔術師も、もしかしたらエデンの人間如き、瞬き一つで消し去る力を持っているかもしれない。
過去、リュティスの魔力の一撃をその身で受けたことのあるアミアカルバだからこそ、一気に肝が冷えたが、そこは【エデン】において武勇で名を馳せた女傑である。
背中から吹き出した嫌な汗を前にシラを切るくらい朝飯前だ。
「そ、それは~ あんま私たちにも分かんないけど!
でも【ウリエル】はいと尊き四大天使なわけでしょ? きっと何か深い事情があって離反したのよ。つまり、私の言いたい要点わかる⁉」
「全く分からんな。愚鈍な地上の人間め」
「要するに、話を聞きなさいって言ってんのよ! 藪から棒に現われて、飼われた犬みたいに首輪つけて俺が神界に連れて行くから黙ってついて来いなんて、ウリエルの矜持を侮辱してるわよ!
【
それを、なに気持ち良く出会い頭に魔力の一撃で薙ぎ払ってんのよ!
話が出来ない空気作ったのはウリエルじゃない。あんたよあんた!」
掴み上げていたウリエルの髪から手を離したので、ごとんっ、と彼女の頭が地に落ちる。
「あら案外あっさり分かってくれた?」
「全く愚鈍な人間ども。お前らのようなものを地上から持って来るだけでも、今のウリエルが力を失ってることがよく分かる」
アミアカルバは額に青筋が立った。
「あんた! ちょくちょく態度悪いこと言うわね。【天界セフィラ】の魔術師たちってみんな偉そうだけど会ってない奴も全員あんたみたいな感じなの?」
怒鳴り散らしながらも、彼女は時間を稼いでいた。
ウリエルが何とか目覚めてくれれば、こいつとも対等に戦える術はある。
「私は【
善意でウリエルの前に現れてやった。
【熾天使】がウリエルを怒ってないのは本当だ。
ウリエルの行動など、あの方は天の遥か高みからとっくに見通している。
汚い地上を虫みたいに這いつくばりながら移動してるウリエルを見て、憐れんでも、怒ったりはしない。
我らが【熾天使】が本当にウリエルを連れ戻したかったら、それこそ側仕えの美しき大天使を一人地上に降臨させれば事足りる。
――わからないか?
お前は全てを見通されてるんだよウリエル」
「……どういうこと?」
アミアカルバは目を細めた。
「……【熾天使】はわざとウリエルを地上で泳がせているとでもいうの?」
「ウリエルじゃない。
お前を取り巻く……
……全ての悪しき因縁だよ」
「…………い」
「! ウリエル!」
「これ以上は奪わせない、絶対に……」
ウリエルは必死に立ち上がろうとした。
「……この身体にあるのは辛い記憶だけじゃない。それだけじゃないから……だから壊させない」
ウリエルが片膝をつき、バラキエルを見上げた。
それを冷たく見下ろしたバラキエルは数秒後、まるで汚い犬を追い払うかのようにウリエルの身体を蹴りはらった。
「ウリエル!」
どさ、と後方に倒れたウリエルが痛みに呻く。
「何度も言ってるだろ。僕は愚鈍が嫌いなんだよ。お前と話す気なんてない。
お前はただ【熾天使】の命令を聞いていればいいんだ!」
【天界セフィラ】が地上を侵攻しようとしている、とウリエルは言っていた。
異界として接触が出来なくなる前に、全ての地上に残った古の魔具や聖石を回収するのだと。
異界の者が地上を攻撃する。
地上の物には防ぎようのない、異質な力で。
そんなことが許されるのだろうか?
ザイウォンに立ち寄った時、目を奪われる大神殿に背を向け、山の向こうをじっと一人見つめていたリュティスの姿を思い出した。
アミアカルバにとってはすでに、サンゴールは過去のものだ。
やれることは全て第一の生でやったという想いがある。
例え無くても、もう国はないのだ。
何もしてやれない。
……そう、切り替えて次の生を謳歌しようと思える自分と、
リュティスは違うのだ。
リュティスもよく、「もうサンゴールはない」と口にする。
言い聞かせているのかもしれない。
それでも心は、母国が近づけば、走り出して行くことをやめない。
……それが本当に、王族の血というものなのだ。
バラキエルがウリエルに近づいて行くのを見て、 アミアカルバは再び弓に矢をつがえ、放った。
矢はウリエルの胸倉を掴むバラキエルの手の甲を的確に打ち抜くはずだったが、バラキエルが腕を振るうと、雷の一撃が飛来する矢ごとアミアカルバの身体を薙ぎ払った。
ぶち当たった柱が崩壊し、やって来た方角の天井が崩落する。
「うう……」
衝撃でに放り出されたアミアカルバはまだ動こうとした。
ウリエルへの忠義も、愛情も全くないが、このままバラキエルにウリエルを殺されることは阻止しなければという、本能的なものがあった。
「お前などにさして時間を掛ける気は無い。
ウリエル。抵抗すれば死ぬぞ。
まあ……そんなに死にたいのであれば、そうするのもいいがな」
バラキエルがウリエルに向かい二又の槍を構える。
「! やめろ!」
動こうとして、四肢の痛みで膝をついたアミアカルバは叫んだ。
――彼女が魔術師だったならば。
想いを込めたその怒声が魔力の矢となり、その距離からも敵に襲い掛かっただろう。
だがアミアカルバは生前からひたすら、魔力には見放された武勇の人であった。
ドォン!
稲光る矢を今まさにウリエルに向かって放とうとしていたバラキエルは、横からの爆炎に体ごと薙ぎ払われていた。
狭い地下路に走った一瞬の赤い閃光に、アミアカルバは思わず、唇の端を歪めて笑っていた。
「……まったく、いつもいつも行動が遅いのよあんたは……!」
倒れて意識を失う直前にアミアカルバの視界が捉えたものは、積み重なる瓦礫の向こうに、ゆらり、と獰猛な真紅の光を影のように纏って立ち上がるその姿だった。
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