第3話 贈与と従属
【寓話】
船が難破した。
オカネスキーは板切れにしがみつき、波に揉まれながら、どうにか浜辺に打ち上げられた。
目を開けると、見知らぬ島だった。
起き上がろうとすると、数人の島民がこちらを見ていた。彼らは何か相談し合い、それから一人の男がオカネスキーに近づいてきた。
男は自分の上着を脱ぎ、オカネスキーの肩にかけた。
「ようこそ、旅の方。これは贈り物です」
オカネスキーは礼を言おうとした。だが、男は続けた。
「お返しは、いつでも構いません。ただ、いつかは返していただかないと……あなたも、落ち着かないでしょう?」
オカネスキーは面食らった。財布は海に沈んだ。着ている服は塩水でぼろぼろだ。
「あの……今は何も持っていないんですが」
男は困った顔をした。
「それは……困りましたね」
周囲の島民たちがざわめいた。
*
島には市場がなかった。
店もなかった。売り買いという概念自体がないらしい。
すべてが「贈り物」として動いていた。
魚を獲った漁師は、隣人に魚を贈る。隣人は翌日、野菜を贈り返す。野菜をもらった漁師は、また別の誰かに何かを贈る。
島全体が、贈り物の網目で繋がっていた。
オカネスキーを助けた男——名前をトアンといった——が説明してくれた。
「この島では、売買はしません。すべては贈り物です。贈り物には魂が宿る。受け取ったら、返さなければならない。返さなければ、魂があなたのもとに残り続ける」
「残り続ける?」
「贈り物の魂は、元の持ち主のところに帰りたがるのです。返礼によって、魂は送り主のもとへ戻る。返礼がなければ、あなたは他人の魂を抱えたまま生きることになる」
オカネスキーは黙って聞いていた。
「だから、もらったら返す。返せば、対等になる。それがこの島の掟です」
*
トアンはオカネスキーを自分の家に泊めてくれた。
食事を出してくれた。寝床を用意してくれた。服も貸してくれた。
そのすべてが「贈り物」だった。そのすべてに「返礼の義務」が伴っていた。
オカネスキーの負債は、日に日に膨らんでいった。
「トアンさん、俺はどうやって返せばいいんだ?」
「働けばいいのです。漁を手伝うとか、畑を耕すとか。それを贈り物として私に返せばいい」
オカネスキーは懸命に働いた。魚を獲った。野菜を収穫した。トアンに贈った。
だが、トアンはそのたびに、また別のものを贈り返してきた。
「これは、あなたの働きへの感謝の贈り物です」
オカネスキーは叫びそうになった。
「待ってくれ! それじゃ永遠に終わらないじゃないか!」
トアンは穏やかに微笑んだ。
「ええ。終わりません。それがこの島の暮らしです」
*
島を歩いていると、奇妙な光景を目にした。
みすぼらしい小屋に、男が一人で座っている。目は虚ろで、頬はこけている。誰も彼に話しかけない。誰も彼の方を見ようとしない。
オカネスキーが足を止めると、トアンが袖を引いた。
「あまり見ない方がいい」
「あの人は?」
「『沈んだ人』です」
「沈んだ?」
「贈り物をもらいすぎて、返しきれなくなった人です」
トアンは声を落とした。
「あの人は、かつて病気をしました。島中の人が見舞いの品を贈った。食べ物、薬、衣服……。みんな善意でした。でも、あの人は返せなかった。病気が長引いて、働けなかった」
「それで?」
「返せないまま、贈り物だけが積み上がっていった。あの人は今、島中の人に借りがある。誰に対しても下の立場です。誰と話しても、『まだ返していない』という負い目がある。だから誰とも顔を合わせられない」
オカネスキーは男を見た。男は誰とも目を合わせず、うつむいたまま座っている。
「……誰も助けないのか?」
「助けたら、また贈り物になります。あの人の借りがまた増える。あの人をさらに下へ沈めることになる」
トアンは首を振った。
「私たちにできることは、何もしないことだけです。何もしなければ、少なくとも、あの人をこれ以上沈めずに済む」
*
島の中央に、小さな神殿があった。
中には一人の老婆が座っていた。白い衣をまとい、目を閉じている。
島民たちが次々と供物を捧げに来る。果物、魚、布、装飾品。
老婆は何も返さない。受け取るだけだ。
「あの人は『聖母』です」とトアンが言った。
「聖母?」
「若い頃、島中の人に贈り物をし続けた人です。誰よりも多く与えた。返礼を求めなかった。だから、みんながあの人に借りを負っている。島中の人間が、あの人より下なのです」
「返礼を求めなかった?」
「ええ。与え続けて、何も受け取らなかった。だから誰も、あの人と対等になれない。みんながあの人を見上げるしかない」
オカネスキーは老婆を見つめた。
「あの人は『沈んだ人』の逆なのですね」
「そうです。『沈んだ人』は誰よりも下にいる。『聖母』は誰よりも上にいる。どちらも、贈り物の輪から外れてしまった人です」
オカネスキーは首をかしげた。
「外れた?」
「対等な人がいないのです。『沈んだ人』は誰に対しても負い目がある。『聖母』は誰に対しても貸しがある。どちらも、普通の関係が持てない」
トアンは神殿を見上げた。
「『聖母』は尊敬されています。でも、友達はいない。誰もあの人と対等に話せないから。あの人は、みんなの上にいて、みんなから遠い」
オカネスキーは老婆の目を見た。
どこも見ていない目だった。誰も見ていない目だった。
*
ある夜、トアンが昔話を聞かせてくれた。
「二十年ほど前、この島に漂流者が来ました。あなたのように」
「へえ」
「その人は、不思議なものを持っていました。『火を起こす道具』です」
「火打ち石か?」
「いいえ。小さな筒でした。親指で押すと、火が出る。何度でも使える。何百回でも火が起こせる」
ライターだ、とオカネスキーは思った。
「その人は、島のみんなにその道具を配りました。『これは贈り物だ』と言って」
「ああ……」
オカネスキーは、嫌な予感がした。
「島民は喜びました。こんなに便利なものはない。でも、すぐに問題が起きた」
「返礼か」
「そうです。火を起こす道具——何百回でも火が起こせる魔法の道具——に釣り合う返礼とは何か? 誰にもわからなかった」
トアンの声が暗くなった。
「ある者は、自分の家畜をすべて贈りました。それでも足りないと感じた。ある者は、畑を丸ごと贈りました。それでも、あの漂流者より下のままだった。自分の娘を嫁がせようとした者もいました。でも漂流者は断った。何も受け取ろうとしなかった」
「何も?」
「ええ。『お返しはいらない』と言い続けた。善意だったのでしょう。でも、それが最悪だった」
オカネスキーは息を呑んだ。
「返礼を受け取らないということは、私たちを永遠に下に置くということです。あの漂流者は、島中の人間を自分より下にした。一人で、島の頂点に立ってしまった」
*
「その漂流者は、どうなったんだ?」
「追い出されました」
オカネスキーは首をかしげた。
「殺されたわけではなく?」
「殺せません。殺したら、永遠に返礼ができなくなる。私たちは永遠にあの人の下のままになる。それだけは避けなければならなかった」
トアンは静かに言った。
「だから、追い出したのです。『この島を出ていってくれ。そして二度と戻ってこないでくれ』と頼みました。あの人がいなくなれば、少なくとも、毎日あの人の顔を見なくて済む。借りを思い出さなくて済む」
「……それで、出ていったのか」
「ええ。あの人も苦しんでいたのだと思います。誰も対等に話してくれない。みんなが怯えた目で見る。友達ができない。あの人は『聖母』になりかけていた。でも、なりたくはなかったのでしょう」
オカネスキーは黙り込んだ。
「あの人は、たぶん本当に善意だったのでしょう。島の人々を助けたかった。でも、この島では、大きすぎる贈り物は呪いと同じなのです。受け取った者を永遠に下に置く呪い」
*
数日後、オカネスキーは島を去ることにした。
漁師が本土へ向かう船を出すという。便乗させてもらえることになった。
トアンが見送りに来た。
「あなたには、まだ借りがあります」
「……わかってる」
「でも、気にしないでください」
オカネスキーは目を瞬いた。
「気にしなくていいのか?」
「小さな借りです。友人同士なら、よくあることです。小さな借りを残しておくのは、悪いことではない」
トアンは微笑んだ。
「借りがあるから、あなたはまた来るかもしれない。借りがあるから、私はあなたを覚えている。完全に清算してしまったら、それは……関係が終わるということですから」
オカネスキーは、第二の村で会ったサーシャのことを思い出した。
「借りは、絆なんだな」
「そうです。小さな借りは絆です。でも、大きすぎる借りは鎖になる。その違いを見極めるのが、大人というものです」
*
船の上で、オカネスキーは考えた。
あの島では、贈り物は物ではなかった。
上下関係を決めるものだった。
与えることは、相手より上に立つことだった。
受け取ることは、相手より下になることだった。
返礼することで、ようやく対等になれる。
だから、人々は必死で返礼した。対等でいたいから。誰の下にもなりたくないから。
たくさん与えて何も受け取らなかった者は、頂点に立った。『聖母』になった。
たくさん受け取って何も返せなかった者は、底に沈んだ。『沈んだ人』になった。
どちらも、孤独だった。対等な相手がいないから。
オカネスキーは、自分の故郷のことを思った。
故郷では、お金で売り買いしていた。パンが欲しければ、銀貨を払う。銀貨を受け取った店主は、それで終わり。上も下もない。対等なまま、別れる。
冷たい関係だと思っていた。贈り物の温かさがないなんて。
でも、あの島を見た後では——お金の冷たさが、少し違って見えた。
お金は、人を対等にする。
お金は、上下関係を作らない。
お金は、与えられた者を下にしない。
贈り物は人を繋ぐ。でも、繋ぎ方によっては、鎖にもなる。
お金は人を分ける。でも、分けることで、対等を保つ。
どちらが良いのか、オカネスキーにはわからなかった。
ただ、与えることは単純に良いことではないのだと、それだけはわかった。
船は進む。
次の港へ。次の経済へ。
彼の旅は続く。
【解説:この村の経済学】
■元ネタ:マルセル・モースの『贈与論』
この寓話の中心にあるのは、フランスの社会学者マルセル・モース(1872-1950)の『贈与論』(1925年)である。
モースは世界各地の民族誌を分析し、贈与に「三つの義務」があることを発見した。
1. 与える義務——贈り物をしなければならない。与えないことは、社会的な存在として認められないことを意味する
2. 受け取る義務——贈り物を拒否してはならない。拒否は相手への侮辱であり、関係の拒絶である
3. 返礼する義務——もらったら返さなければならない。返さなければ、社会的な破滅を招く
つまり、贈り物は「自由な善意」ではない。社会的な義務と権力関係に縛られた行為なのである。
■マオリ族の「ハウ」——贈り物に宿る霊
モースが特に注目したのは、ニュージーランドのマオリ族の概念「ハウ(hau)」である。
マオリ族の賢者タマティ・ラナイピリは、こう説明した。
「あなたが私に何かを贈る。私はそれを第三者に贈る。しばらくして、第三者が私に返礼をする。その返礼の品には、最初の贈り物のハウ——霊——が宿っている。私はそれをあなたに渡さなければならない。あなたから来たもののハウを、私が留めておくのは危険だからだ」
贈り物は単なる物ではない。贈り主の霊——ハウ——が宿っている。だから返礼は、霊を元の持ち主に返す行為でもある。
■ポトラッチ——贈与が作る上下関係
モースがもう一つ分析したのが、北米太平洋岸の先住民(クワキウトル族、ハイダ族など)の「ポトラッチ」である。
ポトラッチは、首長たちが名誉をかけて贈り物を競い合う儀式だ。毛布を何千枚も配る。銅器を惜しみなく与える。時には財産を燃やして破壊することさえあった。
モースはこう書いている。「与えることは、優位を示すことである。より多く、より高く、magister(主人)であることを示す。返礼なしに受け取ること、あるいはより多く返せないことは、従属すること、minister(従者)になること、より低くなること、下に落ちることである」
返礼できなかった者は「面目を失い(lose face)」、永遠に名誉を失った。極端な場合には「負債奴隷(slavery for debt)」になることすらあった。
ポトラッチで重要なのは、経済的な利得ではなく、社会的な地位の獲得である。贈与は、上下関係を作り出す装置なのだ。
■この寓話における発展——与えることの権力性
この寓話では、モースの洞察を一つの社会として具体化した。
【1. 贈与は上下関係を作る】
与える者は上に立ち、受け取る者は下になる。返礼によって初めて対等に戻れる。だから人々は必死で返礼する——誰かの下にいることに耐えられないから。
【2. 「沈んだ人」——返礼不能の悲劇】
返礼できない者は、社会的に下へ下へと沈んでいく。誰に対しても負い目があり、誰とも対等に話せなくなる。人々が彼を避けるのは、嫌悪からではない。助けることがさらなる贈り物となり、彼をさらに下へ沈めてしまうからだ。
【3. 「聖母」——与えすぎた者の孤独】
与え続けて返礼を受け取らなかった者は、全員の上に立つ存在となる。尊敬されるが、対等な相手がいない。友人ができない。神殿の中の老婆は、島で最も高い地位にいて、最も孤独な人間である。
【4. 返礼不能な贈り物の破壊性】
漂流者がもたらしたライターは、便利すぎた。その価値に見合う返礼が不可能だった。しかも漂流者は返礼を受け取ろうとしなかった。それは島民を永遠に下位に置くことを意味した。彼は殺されはしなかったが、追放された。殺せば返礼の機会が永遠に失われ、島民は永遠に彼の下に留まることになるからだ。
■核心的洞察——与えることの両義性
私たちは通常、「与えること」を無条件に良いことだと考える。慈善、援助、親切——すべて美徳である。
しかしモースの分析は、与えることの中に潜む権力関係を暴いた。
与える者は、受け取る者の上位に立つ。返礼できない者は、永遠に負い目を抱える。「してあげた」という言葉には、支配の響きがある。
これは現代の「援助」の問題にも通じる。先進国から途上国への援助、富裕層から貧困層への慈善——それらは時に、受け取る側を永遠の「負債者」にしてしまう。メアリー・ダグラスは『贈与論』の序文で、慈善を受ける者がしばしば施す者を憎むようになることを指摘している。返礼できない贈り物は、屈辱を与えるからだ。
だからといって、与えることをやめるべきだという話ではない。ただ、与えることの複雑さを知っておくことは、より良い関係を築くために必要なことだろう。
小さな借りは絆になる。大きすぎる借りは鎖になる。その違いを見極めることが、贈与の知恵なのかもしれない。
■参考文献
・マルセル・モース『贈与論』吉田禎吾・江川純一訳、ちくま学芸文庫、2009年(原著:Essai sur le don, 1925)
・マルセル・モース『贈与論 他二篇』森山工訳、岩波文庫、2014年
・デヴィッド・グレーバー『負債論』第5章「贈与についての短い論考」
・Bronisław Malinowski, *Argonauts of the Western Pacific* (1922)
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