経済寓話集

くるくるパスタ

第1話 蒸発するお金

【寓話】


 若者オカネスキーが霧の谷を抜けると、小さな村が見えた。

 彼は故郷を出て旅をしていた。お金持ちになるために。立派な家に住み、美味しいものを食べ、誰からも尊敬される——そんな暮らしを夢見ていた。

 村の入り口に「両替屋」の看板があった。旅人は現地の通貨に替えるものだ。オカネスキーは財布から金貨を取り出した。

 両替屋の老人は、その金貨を見て目を丸くした。

「おや、おや。これは珍しい」

 老人は金貨を光にかざした。

「減らない金貨だ。外の世界では、まだこんなものを使っているのかね」

「減る? 金貨が?」

 老人は棚から銀色の硬貨を取り出した。よく見ると、表面からかすかな湯気が立ち上っている。

「この村のお金は蒸発するんだよ。ゆっくりとね。一月で少し軽くなる。一年も経てば、半分くらいになってしまう」

 オカネスキーは目を疑った。老人が硬貨を秤に載せる。針が動く。老人が別の仕事をしている間も、針はゆっくり、ゆっくりと下がり続けている。

「さあ、あんたの金貨は蒸発しない。だから良いレートで替えてあげよう」

 オカネスキーは大量の銀貨を受け取った。手のひらに載せると、ほんのりと温かい。よく見れば、陽炎のように空気が揺らめいている。

 財布に入れた瞬間から、それは目減りし始めていた。


          *


 宿屋を見つけた。

 オカネスキーは旅慣れている。宿代はいつも先に払う。そうすれば気が楽だし、出発の朝にもたつかない。

「三泊したい。先に払わせてくれ」

 宿の主人は困った顔をした。

「いや、お客さん、出発の朝でいいよ」

「いや、先に払いたいんだ」

「うーん……」主人は頭をかいた。「明日は市場が休みでね。あさっても休みなんだ。今もらっても、使えるのは三日後になる。その間に蒸発する分は、うちの損になっちまう」

 オカネスキーは首をかしげた。

「でも、俺が持っていても蒸発するだろう?」

「そうだけど、あんたが持っていればあんたの損だ。うちが持てばうちの損だ。だから、あんたが出発する朝、その時の重さで払ってくれればいい。それが公平ってもんだろう?」

 奇妙な論理だ、とオカネスキーは思った。だが筋は通っている。


          *


 市場を歩いた。

 商人たちはみんな秤を持っている。客が硬貨を秤に載せ、商人が分銅で量り、商品と引き換える。お釣りも重さで計算される。

 オカネスキーは露店を見て回った。野菜や果物、肉や魚——それらは驚くほど安かった。

 ところが、ある店の前で足が止まった。

「今夜の音楽会、お一人様、銀貨三枚」

 銀貨三枚。野菜なら山ほど買える値段だ。

「高いな」とオカネスキーは言った。

 店主は笑った。「そうかね? 野菜は食べたら終わりだ。でも音楽は、ここに残る」店主は自分の胸を叩いた。「思い出は蒸発しないからね」

 隣の店には「一緒にお昼ごはんを食べませんか」という看板があった。

 メニューを見ると、「一人で食べるスープ」は銀貨半分。「二人で食べるスープ」は銀貨二枚——つまり一人あたり銀貨一枚だ。

「一人で食べた方が安いじゃないか」

「そりゃそうだ」と店主は言った。「でも、二人で食べれば、話をする。笑い合う。思い出ができる。お金は蒸発するが、一緒に食べた記憶は残る。だから高い。だから売れる」

 オカネスキーは黙って店を離れた。


          *


 市場の外れに、派手な看板の店があった。

「ご融資いたします! 今すぐ現金!」

 故郷にも似たような店があった。金を借りると、高い利息を取られる。借りた額より多く返さなければならない。困っている人間が最後に頼る場所だ。

 興味本位で覗いてみた。

 店員が満面の笑みで迎えた。

「いらっしゃいませ! 今なら銀貨十枚のお借り入れで、小銀貨二枚をプレゼント!」

「……は?」

「さらに、ご成約のお客様には、こちらの素敵な手拭いを差し上げます!」

 オカネスキーは混乱した。

「待ってくれ。借りると、もらえるのか?」

「もちろんです! お客様がお金を借りてくださるおかげで、私どもは銀貨を手放すことができます。私どもが持っていれば蒸発してしまいますからね。お客様に持っていただければ、蒸発するのはお客様の分。返済日にお返しいただく分は、私どものものになります。お互いに得をする、すばらしい仕組みでしょう?」

 オカネスキーは頭が痛くなってきた。

 つまり、この村では——金を貸す側が、借りる側に手数料を払う。借金をすると、得をする。貸す側は損をしてでも、蒸発から逃れたい。

 でも、借りる側だって、持っている間は蒸発する。

「……借りた人はどうするんだ?」

「さあ? すぐに使うんじゃないですか。何かを買うとか、誰かに貸すとか。お金を手元に置いておく人なんて、いませんよ」


          *


 夕暮れ時、オカネスキーは宿の主人に尋ねた。

「この村で一番のお金持ちは誰だ?」

 主人は首をかしげた。

「お金持ち? 変な言葉だね。お金をたくさん持っている人ってことか? そんな人はいないよ。持っていれば蒸発するんだから」

「じゃあ……一番尊敬されている人、一番裕福な暮らしをしている人は?」

「ああ、それなら丘の上のヨハンさんだ」

 オカネスキーは丘を登った。

 ヨハンの家は立派ではなかった。小さな木の家だ。庭に花が咲いている。それだけだ。

 老人が縁側に座っていた。

「こんばんは。話を聞いてもいいですか」

「ああ、いいとも」

 オカネスキーは隣に座った。

「あなたはこの村で一番裕福だと聞きました」

「そうかね? 銀貨はほとんど持っていないよ。持っていても蒸発するだけだからね」

「でも、みんながあなたを尊敬している」

「そうかね」老人は笑った。「私が持っているのは、思い出だけだ。いろんな人を助けてきた。困っている人に手を貸した。一緒に食事をして、一緒に笑った。私が持っているのは、みんなの記憶の中にある。それだけだよ」

「土地は? この村では土地が値上がりするはずです。減らない価値だから」

「土地には税金がかかるんだ。お金が蒸発するのと同じくらいの速さでね。そうしないと、みんなが土地ばかり買い占めて、お金が回らなくなる。だから土地を持っていても、蒸発から逃れることはできない」

 オカネスキーは黙った。

「若いの、何を探しているんだね」

「……お金持ちになりたいんです。蒸発しない何かを、たくさん手に入れたい」

 老人は夕陽を見つめた。

「この村で蒸発しないものは何か、わかるかね」

「……わかりません」

「記憶だよ。誰かと一緒に過ごした時間。誰かに与えたもの。誰かから受け取ったもの。それは蒸発しない。お金は消えても、それは残る」


          *


 三日後の朝、オカネスキーは村を発った。

 財布の中の銀貨は、来た時よりいくぶん軽くなっていた。

 宿代を払い、市場で食事をし、音楽を聴いた。誰かと一緒にスープを食べもした。残った銀貨は、蒸発して、たった三日なのに、いくらか減っていた。

 でも、彼は何かを持っていた。

 宿の主人と話したこと。市場で聞いた音楽。一緒にスープを食べた相手の顔。ヨハン老人の言葉。

 それは財布の中にはない。でも、確かにある。

 村を出る時、オカネスキーはふと足を止めた。

 ——待てよ。

 彼は自分の故郷のことを思い出していた。

 故郷では、金貨は蒸発しなかった。百年経っても同じ重さだ。

 でも、物の値段は毎年少しずつ上がっていた。「インフレ」と呼ばれていた。つまり、金貨の実質的な価値は少しずつ下がっていたんだ。目には見えないだけで。

 そして故郷では、金を貸せば利息がついた。借りた人は、借りた額より多く返さなければならなかった。

 でもよく考えれば——インフレで金貨の価値が下がる分と、利息で増える分を差し引きすれば、どうなる?

 ほとんど同じじゃないか。

 この村と、故郷の村は、計算上はほとんど同じ構造をしている。

 違うのは——目に見えるか、見えないかだけだ。


 オカネスキーは立ち尽くした。

 同じ構造なのに、この村の人々は貯め込まなかった。すぐに使った。分かち合った。体験に金を使い、思い出を大切にした。誰かと一緒に食事をすることに価値を感じていた。

 故郷の人々は、将来のために今を犠牲にしていた。通帳の数字を眺め、増えることに安心していた。貯金が趣味の人もいた。死ぬ時が一番お金持ち、という人もいた。

 同じ損得なのに、なぜこんなに違う?

 ——答えは簡単だった。

 目の前でお金が減っていくのが、見えるかどうか。

 数式は同じでも、心が違う。

 経済は数字ではない。人の心が動かしている。

 オカネスキーは歩き始めた。

 次の村へ。次の経済へ。

 彼の旅は続く。



【解説:この村の経済学】


■元ネタ:シルビオ・ゲゼルの「自由貨幣論」


 この寓話の元になったのは、ドイツ出身の実業家・経済思想家シルビオ・ゲゼル(1862-1930)の理論である。

 ゲゼルは素朴な疑問から出発した。「なぜリンゴは腐るのに、お金は腐らないのか?」

 リンゴを持っている農夫と、お金を持っている商人がいるとする。農夫は早く売らないとリンゴが腐る。商人は待てる——お金は腐らないから。この非対称性が、貨幣保有者に不当な交渉力を与えている、とゲゼルは考えた。

 彼の解決策が「減価する貨幣(Freigeld、自由貨幣)」だった。一定期間ごとにスタンプを貼らないと価値が下がる紙幣を設計した。これにより、人々は貨幣を保持するインセンティブを失い、積極的に使うようになる——というのが彼の理論である。

 ケインズは『一般理論』の中でゲゼルを「不当に無視された預言者」と評し、その着想に一定の評価を与えている。


■歴史的実験:ヴェルグルの奇跡(1932-1933)


 ゲゼルの理論は、実際に試されたことがある。

 1932年、世界恐慌の真っ只中、オーストリアのチロル地方にある小さな町ヴェルグル(人口約4,500人)で、町長ミヒャエル・ウンターグッゲンベルガーが「労働証明書」と呼ばれる地域通貨を発行した。

 この通貨は月1%減価した。毎月、額面を維持するためにスタンプを購入して貼り付ける必要があった。スタンプ代は町の救済基金に入る仕組みだった。

 結果は劇的だった。流通速度が通常の9〜10倍に加速し、失業率が16%減少した(同時期のオーストリア全体では19%増加)。税金の前払いが増え、道路舗装、水道整備、橋の建設、スキージャンプ台まで建設された。

 フランスの首相エドゥアール・ダラディエが視察に訪れ、アメリカの経済学者アーヴィング・フィッシャーは「この方式を正しく適用すれば、アメリカの大恐慌を3週間で解決できる」と述べた。170以上のオーストリアの町が同様の制度の導入を検討した。

 しかし1933年9月、オーストリア中央銀行は「通貨発行権の独占」を理由にこの実験を禁止した。町は最高裁まで争ったが、敗訴した。


■この寓話における発展:もし何世代も続いたら?


 ヴェルグルの実験はわずか13ヶ月で終わった。この寓話では、「もしこの制度が何世代も続いたら、社会はどうなるか?」という思考実験を行っている。


【1. 借り手と貸し手の逆転】

 通常の経済では、借り手が利息を払う。「お金を使う権利」の対価として。しかし減価する貨幣の世界では、誰もお金を持ちたがらない。すると「借りてくれる人」が希少になる。貸し手は借り手に手数料を払ってでも、貨幣を手放したがる。これは「マイナス金利」に他ならない。

 興味深いことに、現代の日本やヨーロッパでも、中央銀行がマイナス金利政策を導入した。これは「お金を貸す側が、借りる側に手数料を払う」という、この寓話と同じ構造である。


【2. 「蒸発しないもの」への投資集中】

 貨幣が蒸発するなら、人々は蒸発しない資産を求める。土地——だが物語では、土地に蒸発と同率の税金をかけることで、この逃避を防いでいる。技術・知識——頭の中にあるものは蒸発しない。人間関係——「貸し」「恩」「思い出」は蒸発しない。体験——消費しても記憶は残る。

 これは現代の「体験消費」「コト消費」のトレンドを極端化したものとも言える。


【3. 「富豪」の再定義】

 この村の富豪は、金貨をたくさん持っている人ではない。むしろ金貨を持っているのは愚か者だ。真の富豪は、「多くの人に貸しがある人」「多くの人の記憶に残っている人」である。これは贈与経済や評価経済の要素を含んでいる。


■核心的洞察:数式は同じでも、心理が違う


 物語の終盤でオカネスキーが気づくように、「減価する貨幣+ゼロ金利」と「安定した貨幣+インフレ+プラス金利」は、数学的にはほぼ等価である。

 現代社会でも、物価は年2%程度上昇する(インフレ)。つまり貨幣の実質価値は年2%程度下落する。預金金利がインフレ率以下なら、実質的にお金は目減りしている。

 しかし、この「目に見えない減価」と「目に見える減価」は、人間の行動を全く異なる方向に導く。行動経済学では「フレーミング効果」として知られる現象だ。同じ内容でも、提示の仕方によって人間の判断は変わる。

 ゲゼルの真の洞察は、貨幣制度の設計が人々の心理に与える影響だったのかもしれない。経済は数字で動くのではない。人の心が動かしている。


■参考文献


・シルビオ・ゲゼル『自然的経済秩序』(1916)

・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』第23章(1936)

・Bernard Lietaer "The Wörgl Experiment: Austria (1932-1933)"

・Irving Fisher "Stamp Scrip" (1933)

・Unterguggenberger Institut(ウンターグッゲンベルガー研究所)の記録資料

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