赤羽さんは震えてばかり
時目木 鼠
第1話 震える転校生と、防衛大臣(ダイオウグソクムシ)
二学期の最初の朝。
久しぶりに顔を合わせた生徒たちの話し声で、教室は動物園のようにガヤガヤと騒がしい。そんな
(俺の高校生活の目標は『平穏』だ。波風を立てずにモブとして背景に溶け込むこと……)
高校生活という青春のステージにおいて、主役になろうなんて大それた野望はない。ただ静かに、エキストラAとしてエンドロールに名前も載らないような生活を送りたい。それが俺のささやかな願いだった。
ガラッと教室のドアが開き、担任の田中先生が入ってくる。
「お前ら席についてもー、HR始めるぞー」
先生の気の抜けた声に、クラスメイトたちがダラダラと席に着く。
「今日から転校生が来る。みんな仲良くしろよ」
その一言で、教室の空気が一変した。
「え、マジで?」 「男? 女?」 「この時期にかよ!」
教室内がどよめき、期待と好奇心の熱気が渦巻く。俺は一人、冷めた目でその様子を見ていた。
(こんな時期に転校生なんて漫画かよ。また騒がしくなるだけじゃん……)
面倒ごとは御免だ。俺は関わらないようにしよう。そう心に決めた矢先だった。
「入ってこーい」
先生の合図で、教室のドアがゆっくりと開く。
一瞬、教室の時間が止まった気がした。
入ってきたのは、息をのむような美少女だった。少し色素の薄い髪、整った顔立ち。教室のボルテージが爆発したかのように跳ね上がる。俺も思わず、その姿に見入ってしまった。
……だが、様子がどこかおかしい。
教卓の横に立った彼女は、まるで氷点下の寒空の下に放り出されたかのように、ガクガクと小刻みに震えていたのだ。
(生まれたての小鹿!?)
「こっち来て自己紹介しろ」
先生に促され、彼女は動き出した。 ギギギ…… という音が聞こえてきそうなほど、ぎこちないロボット歩き。黒板の前まで進むと、カクンと止まり、生徒たちの方を向く。
「あ、あ、あか、あかば……ごにょごにょ」
蚊の鳴くような声。いや、蚊の方がまだ主張がある。
クラス全員の頭上に 「?」 マークが浮かぶのが見えた。
「あー、
(赤羽さんか。……めちゃくちゃ可愛いけど、この子大丈夫か?)
先生の助け舟に、赤羽さんはさらにパニックに陥ったようだ。顔を真っ赤にして、目をグルグルと回している。完全にキャパオーバーだ。
数秒の沈黙の後、 ポンッ、 と彼女の表情が明るくなった。何かを思いついたらしい。
「あ、光合成……」
「は?」
俺の心の声が漏れたかもしれない。
赤羽さんはその場で両手を大きく広げると、天井の蛍光灯に向かって目を閉じ、スゥーッと深呼吸をした。その顔は、至福そのもの。
シーン……。
教室が静寂に包まれる。全員の思考が停止していた。
(植物かよ……)
「……日向ぼっこかな? まあいいや、みんな仲良くするようにな! あそこの空いてる席座ってくれ」
先生が強引にまとめた。指さした先は――俺の隣の席だった。
嘘だろ、と天を仰ぐ間もなく、赤羽さんがロボット歩きでこちらへ向かってくる。俺の横を通り過ぎる瞬間、ふわっと甘い花のようないい香りが鼻をくすぐった。
(うわ、めちゃくちゃいい匂い……)
席に着くなり、 「ふぅ……」 と大きなため息をつく赤羽さん。どうやら緊張の糸が切れたらしい。今なら話しかけても大丈夫だろうか。隣の席だし、最初の挨拶くらいはしておかないと気まずい。
俺は意を決して声をかけた。
「よ、よろしくね、赤羽さん」
「ひぃ!!」
ビクゥ! と彼女が跳ね上がった。まるで捕食者に遭遇した小動物だ。
彼女は慌ててカバンをごそごそとまさぐると、ドンッ! と机の上に何かを置いた。
それは、かなり大きめの、リアルなダイオウグソクムシのぬいぐるみだった。
「け、結界……」
「……」
俺は言葉を失った。な、なんだ急に。お守り的なものか? それにしてもチョイスが渋すぎる。
「それって……ダイオウグソクムシ?」
「防衛大臣……死んだ魚を食べます……」
防衛大臣? 死んだ魚? 情報量が多すぎる。
だが、ここで否定してはいけない気がした。とりあえず肯定だ。
「な、なんか可愛いね」
俺がそう言うと、 ボンッ! と音が出そうなほど赤羽さんの顔が一瞬で赤くなり、頭から湯気が噴き出した。
「グソちゃんです……」
恥ずかしそうに上目遣いでそう呟く。
あ、ちょっと可愛いかも。少し警戒が解けたっぽい……のかな?
そう思った瞬間だった。
「すっげー!!!」
鼓膜を突き破るような大声が、俺たちの空間を引き裂いた。
ビクッとする俺と赤羽さん。見上げると、そこにはクラス一の陽キャにしてトラブルメーカー、
「すっげー! なんだこのでけぇ虫! めっちゃリアル!!」
黄金井は遠慮という言葉を知らない。赤羽さんの机上の
「あ……」
ヒュルルル……。
赤羽さんの口から白い魂のようなものが抜け出ていくのが見えた。彼女は白目を剥き、そのまま机に突っ伏して気絶した。
「すげー! すげー! どこで売ってんのこの虫!!」
そんなことにはお構いなしに、グソちゃんをブンブン振り回す黄金井。
「ちょ、待て黄金井! 振り回すな! 赤羽さん気絶してるから!」
俺が慌てて制止に入ろうとすると、ヌッと背後にもう一つの影が現れた。
「虫じゃない……バチノムス・ギガンテウス……
「うわっ!
もじゃもじゃ頭に眼鏡のオタク、
「裏側すっげーリアル!」と興奮する黄金井。
「
カオスだ。完全にカオスだ。
俺の隣で、赤羽さんは魂が抜けたままピクリとも動かない。
俺は見かねて、暴走する二人の間に割って入った。
「おい! そろそろ返してやれよ! 大事なもんだろ、たぶん……」
「あぁ! ワリィ!」
悪気はないのが黄金井の厄介なところだ。俺は彼からグソちゃんを奪い返すと、気絶している赤羽さんの腕の中にそっと抱かせてやった。
「ほら、大丈夫か?」
その瞬間、宙を漂っていた白い魂がシュルッと口の中へ戻っていった。
赤羽さんが、ハッと意識を取り戻す。
「はッ!」
目の前には心配そうな俺の顔。そして腕の中へ無事に戻ってきたグソちゃん。
赤羽さんは頬をポッと染め、潤んだ瞳で俺を見つめた。
(この人が取り返してくれた……? この人も……同志!?)
そんな心の声が聞こえてきそうな表情だ。
彼女はスクッと立ち上がると、防衛大臣を俺の顔の前に突き出した。
「助けてくれたお礼に……足、触らせてあげます……」
目の前には、無数の足がワサワサとうごめくグソちゃんの裏側。
いや、お礼の方向性がおかしい。
「あ、ありがとう……?」
(……心を開いてくれたのかな?)
断るのも悪い気がして、俺は恐る恐るその足を触った。なんだこれ、変な感触。
ふと周りを見渡すと、「すげーすげー」とまだ騒いでいる黄金井と、ブツブツと生物学的見地から解説を続ける薮下。そして、
クラス中の視線が、この一角に集中しているのが痛いほど分かる。
ああ、確信した。
俺の平穏な高校生活は、今日この瞬間、完全に崩れ去ったのだと。
(お、俺の平穏が……失われてしまう……)
俺の切実な心の叫びは、誰にも届くことなく、二学期の喧騒の中に消えていった。
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