この川を渡るとき
鉈手璃彩子
第1話
生まれ育った地元の町にたどりついたのは、蒸し暑い夕暮れどきだった。東京から電車を乗り継いで三時間ほどかかる地方郊外。
まがりなりにも高校卒業まで暮らしたはずの町なのに、まるで知らない土地のようによそよそしい。家の敷地であってもそれは同じで、あの頃と大きく変わったところなどないのに、記憶のなかの実家と、ぜんぜん別の場所な感じがする。
親類たちはみんな初日の法要だけ済ませて帰ったということで、来ていた気配も残っていない。顔を合わせたくはないので助かった。
畳の部屋に入ると、母が用意したであろう祭壇には、まだ新盆の飾りつけが残されている。遺影と位牌、精霊馬、お供えもののお菓子や果物。涼しげな花模様の描かれた回転灯は去年葬儀の際に葬儀屋さんから購入したものだろう。
お父さん、ほんとに死んだんだ。
コーチ時代の写真だろうか。キリッと若々しい笑顔を見せる遺影を前に正座して、知らない人の顔を眺めているような気分になる。
オリンピック金メダリスト。競泳日本代表選手。
私の父、鶴原武雄という人間をひとことで紹介するとなると、どうしてもその肩書きから説明することになる。
一九八四年ロサンゼルス、一九八八年ソウル五輪で一〇〇mと二〇〇m平泳ぎを連覇。一九九二年バルセロナ五輪にも出場し、一〇〇mは五位、二〇〇mは四位だったが、四〇〇mメドレーリレーで銀メダルを獲得した。すべて私の生まれる前の話だが、大会の記録映像は何度も見ているため、その姿はつぶさに思い起こすことができる。
そんな父が病死したのは一年前の夏。六十半ばでのことだった。倒れてからは、あっという間だったそうだ。これまでの無理が祟ったのだろう。現代人の平均寿命に比較すると若すぎるのかもしれないが、現役を引退してからも後進の育成に熱心で、つねに魂を燃やしつづけるような生き方をしてきた父には、ある意味ふさわしい幕の閉じ方だったのかもしれない。
位牌に向かい、手を合わせて、目を閉じる。
どうしても葬儀に参列することができず、一年も経ったいまになり、ようやくこうして対面することとなってしまった。
合わせる顔がなかった。いや。ほんとうは、いまもない。
お父さんのようなオリンピック選手になるんだぁって、夢見て、目指していた頃もあったのにね。
「どこでまちがえちゃったんだか」
そんな私のつぶやきには知らん顔で、湊斗がとなりにぼんやりと立っている。
この子は元凶。そう、私がこうなった原因。
人生が壊れるのって、わりとかんたんだ。
大学二年のとき、当時の交際相手の子を妊娠した。気づいたときには処理が困難な状況だった。結局、出産を機に水泳を辞め、大学も中退。元彼とは音信不通になった。
そういう状況だったから、家族とはいっさいの連絡を絶っていた。私は死んだということにしてほしかった。だけど死んだのは父だった。母の電話も着信拒否していたから、訃報はネットニュースで受け取った。葬儀には参列しなかった。
どこから漏らされたのか、私のだらしない恥ずべき所業と、葬儀にも顔を見せない親不孝ぶりが噂になり、「娘は鶴原選手の面汚し」とかってSNSで炎上したけれど、擁護のしようがない事実だった。どうとでも言ってくれ。
お父さんの言う通りだった。私はひとりじゃなにもできなかった。目先の快楽のために、夢も目標も途中で放り投げた。人生を棒に振っただけの、どうしようもないクズだったよ。
「ほんと、なにやってるんだろう」
空虚なため息が漏れる。
ふと横に目を遣ると、そこに座っていたはずの湊斗の姿がない。
「湊斗ぉ?」
やる気のない声を張る。
返事はない。ひぐらしの鳴き声が沈黙を埋めていた。
あのクソガキめが。舌打ちが漏れる。
五歳になる息子は、私がどれほどきつい言葉で言い聞かせても、一日中落ち着きなく動き回っている。
重い腰をあげ、私はふらりと廊下に出た。
「勝手に出歩かないでよ、もう」
どすどすと玄関まで行き、あの子の靴がないことに気づく。
玄関の扉を開くと、隙間から白いTシャツの男の子が、さっと駆けていくのが一瞬みえた。湊斗だ。
母にバレたら、自分の子なのにどうしてちゃんと見てないの? と小言を言われてしまうだろう。幸い居間にいるようなので、気づかれないうちにこっそり表の道路に飛び出す。
黄昏時の日差しがまぶしい。そのなかに湊斗が、道路を軽い足取りで坂道をおりていく後ろ姿が見えた。
「待ちなさい、勝手にどっかいかない!」
低い声で怒鳴った。ああイライラする。
どうしてああも、聞き分けがないのか。息子のことを特にかわいいとは思えない。それよりも、わずらわしいと思うことのほうが格段に多かった。
灰色のコンクリートの上に、湿った裸足の、土踏まずの目立つ小さな黒い足跡が点々とつづいている。それをたどって坂道をくだる。苛立ちを発散させるかのように大股に、速足になった。だけど息子の駆け足はやけに速くて、なかなか追いつけなかった。
いっそ追いかけるのを、やめてしまおうか。
……とはならない。
なぜならあの子をきちんと育てあげるのが義務であり、愚かな自分への罰だと思うから。
生まれた直後こそ、朝起きたら赤ん坊がすっかり消えて、幻のようにいなくなっていたらいいのに、なんて思ったこともあった。でもそれはありえないことだと頭の片隅ではわかっていたし、いろんなことにだんだんあきらめがついて、受け入れるしかなくなるにつれ、考えは変わっていった。
湊斗が元彼のような卑怯でどうしようもないクズ男に育ったら、それこそ私の罪だ。そうならないようにあの子を教育して、監視するのが、私の義務だ。
そんなふうに、思うようになった。一種の、呪縛のようなものだ。
湊斗が向かっていたのは、坂道をおりたさきにある川だった。水の流れは特別速くはないが、昨日まで近づいていた台風の影響で、普段より少し水位が高いように見える。
なんであんな危険な場所を、あんなまっすぐ目指すわけ?
私はブチ切れ寸前だった。
「湊斗!」
呼びかけた、というより怒鳴りつけていた。でも湊斗は振り向かない。土手へおりていって、そのままじゃぶじゃぶと、裸足で水のなかへと踏み入っていく。
「なにやってんの!」
叫んだ直後、その小さな身体が、肩までひゅんと水中に沈み込んだ。
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