絶望5日目、世界はクソゲーにアップデートされた
パラレル・ゲーマー
第1話
世界の終わりは、腐った生ゴミの臭いがした。
俺、橋場洋太(はしばようた)の人生が詰んだのは、ほんの四日前のことだ。
最初はニュースの向こう側の出来事だった。どこかの地方都市で暴動が起きたとか、新型の狂犬病が流行ったとか、そんな他人事。
だがその「他人事」は、たった数時間で俺のアパートの玄関前まで押し寄せてきた。
「ああぁ……開けて開けてぇ……!」
隣に住む女子大生の、悲鳴とも懇願ともつかない声。
そしてそれを掻き消すような、濡れた雑巾を叩きつけるような湿った音。
『グチャッ』
悲鳴が途絶え、咀嚼音が始まる。
俺は玄関にタンスと本棚を積み上げ、電気を消し、ユニットバスのトイレの中にうずくまった。
1日目。現実逃避をした。
これは夢だ。寝て起きれば会社に行く時間だ。
2日目。スマホの充電が切れかけ、ネットの情報が途絶えた。
最後のニュースは「自宅で待機してください」という、政府の無責任な遺言だった。
3日目。水が尽きた。
トイレのタンクの水を飲んだ。プライドなんてものは、喉の渇きと一緒に胃袋へ流し込んだ。
4日目。限界だった。
空腹で胃が痙攣し、視界が白く明滅する。
ドアの向こうにはまだ「それ」がいる。時折思い出したようにドアを叩く音。ドンドン。
まるで死神のノックだ。
(死ぬんだ。このまま誰にも知られず干からびて)
俺は26歳。フリーター。趣味はゲームとネットサーフィン。彼女いない歴=年齢。
走馬灯に出てくるような輝かしい思い出なんて、一つもない。
こんなことならもっと美味いものを食っておけばよかった。
貯金なんてせずに課金しておけばよかった。
薄暗いトイレの中で、俺は体育座りをしたまま握りしめていたスマホを見た。
画面は真っ黒だ。充電は残り数パーセント。
これが切れたら、俺の世界は本当に闇に包まれる。
「……嫌だなぁ」
乾いた唇から、情けない音が漏れる。
死にたくない。でも戦う勇気もない。
外に出てあんな化け物に食われるくらいなら、ここで餓死したほうがマシだ。
そう自分に言い聞かせていた。
その時だった。
『ピロリン♪』
死刑台には似つかわしくない、間の抜けた電子音が静寂を引き裂いた。
ビクッと体が跳ねる。
心臓が早鐘を打つ。外の奴に聞かれたか?
だが俺の目は、手元のスマホに釘付けになっていた。
圏外のはずだ。Wi-Fiも死んでいるはずだ。
なのに画面が青白く発光している。
【生存者(プレイヤー)の皆様、長らくお待たせいたしました】
【世界規模大型アップデート(Ver.2.0.25)が完了しました】
【アプリ『ゾンビハンター(Z-HUNTER)』をインストールします……100%】
なんだこれ。
幻覚か?
餓死寸前の脳が見せる走馬灯が、こんなふざけたソシャゲの画面なのか?
【世界は生まれ変わりました!】
【これよりゾンビ討伐数に応じた『ポイント制(ZP)』を導入します】
【ポイントは食料、武器、スキル、そして『抗体』と交換可能。生き残りたければ狩りましょう!】
文字がスクロールする。
理解が追いつかない。
だが直感的に「操作」を求められていることだけは分かった。
ゲーマーの悲しい性だ。
俺は震える指で画面をタップした。
【初回ログインボーナス:『ミネラルウォーター(500ml)』×1『あんぱん(粒)』×1】
【受け取りますか? YES / NO】
『YES』。
迷いはなかった。
その瞬間、スマホのカメラレンズから青い光線が投射され、空間が歪む。
ボトッ。
狭いトイレの床に、ペットボトルとコンビニで見慣れた袋パンが転がった。
「……は?」
現実だ。
俺は獣のように飛びついた。
キャップをねじ切り、水を喉に流し込む。
冷たい液体が食道を通る感覚。
あんぱんの袋を引き裂き、貪り食う。
甘い。
強烈な糖分が脳を焼き、思考を再起動させる。
生きている。俺はまだ生きている。
パンを完食し呼吸を整えた俺の目の前に、再びシステムウィンドウが浮かび上がった。
【デイリーミッション発生】
【内容:最初の1体を討伐せよ】
【報酬:サバイバルナイフ(R) 経験値100 50ZP】
その文字を見た瞬間、俺の中で何かが「カチリ」と切り替わった。
4日間、俺を支配していたのは「未知への恐怖」だ。
だがこれは違う。
ルールがある。報酬がある。チュートリアルがある。
ならばこれは「現実」ではない。
「ゲーム(攻略対象)」だ。
「……クソ運営が。メンテが長えんだよ」
俺は立ち上がった。足の震えは止まっていた。
この世界がクソゲーなら、俺はプロのプレイヤーとして振る舞うまでだ。
玄関のバリケードを解体する作業は、意外なほど冷静に行えた。
タンスをどかす。本棚をずらす。
ドアスコープ(覗き穴)から外を見る。
薄暗い廊下に人影が一つ。うつむいてゆらゆらと揺れている。
頭上には赤い文字でカーソルが浮いていた。
『Lv.1 ワンダリング・ゾンビ(元・鈴木さん)』
鈴木さん。隣の部屋の会社員だ。挨拶くらいはしたことがある。
だが今の彼に人権はない。あるのは「経験値」としての価値だけだ。
「よし……」
俺は台所から持ち出した文化包丁を逆手に持った。
武器は貧弱だが、相手はLv.1だ。初期装備でも倒せるように調整されているはずだ。
ドアをゆっくりと開ける。
錆びた蝶番がキイと鳴く。
ゾンビが反応した。顔を上げる。
半分が欠損し、眼球が飛び出したその顔が、俺を捉える。
「あアゥ……!」
飛びかかってくる。速い。
だが直線的だ。
俺は一歩横に踏み込んで、その突進を躱す。
腐敗臭が鼻をつくが、嘔吐している暇はない。
背中が無防備だ。
ゲームならバックスタブ(背後攻撃)には補正が入る。
「死ね! ……いや、もう死んでるか!」
俺は包丁を、鈴木さんのうなじへ全力で突き立てた。
ズブリという生々しい感触。骨に当たる嫌な手応え。
ゾンビが痙攣し、どうと倒れ込む。
動かなくなった肉塊を見下ろす俺の視界に、金色のファンファーレが弾けた。
【討伐完了!】
【ミッション達成! 報酬がアイテムボックスに送られました】
【レベルアップ! Lv.1 → Lv.2】
【ステータスポイント+5を獲得しました】
「ははは……」
殺した。人を。いや、ゾンビを。
罪悪感? ない。
あるのは、脳髄を痺れさせるような達成感と、数値が増える快感だけだ。
俺はスマホを操作し、報酬の『サバイバルナイフ』を取り出す。
ずしりと重い黒塗りの刃。これなら包丁よりも効率よく狩れる。
俺はアパートの廊下に出た。
4日間地獄だと思っていた世界。
だが今の俺には、そこが「宝の山」に見えていた。
アパートの外に出て、俺は目を疑った。
そこには俺が予想していた「静寂と死の世界」はなかった。
代わりにあったのは、祭りのような喧騒と罵声と、欲望の坩堝(るつぼ)だ。
「オラァ! そのゾンビは俺が先に見つけたんだよ! 横から入ってくんな!」
「はあ!? あんた攻撃外してたじゃない! トドメ刺したのは私よ!」
「キルログ見せろやキルログ! 俺のアシスト入ってんだろうが!」
目の前の通りで、ジャージ姿の主婦とサラリーマン風の男が胸ぐらを掴み合っていた。
その足元には、頭をカチ割られたゾンビが一体転がっている。
彼らが争っているのは、生存権ではない。
「ポイント」の所有権だ。
【システム解説:ラストアタック(LA)ボーナス】
【経験値とポイントは、対象のHPを0にしたプレイヤーに100%付与されます】
最悪の仕様だ。
協力プレイ推奨ではなく、完全な「奪い合い(PvP)」を推奨していやがる。
「おい兄ちゃん! ぼさっとしてっと食い扶持なくなるぞ!」
角材を持ったおっさんが、俺の肩を押しのけて走っていく。
その先には、新たに路地裏から湧いて出たゾンビが一体。
「ヒャッハー! 10ポイントォォ!」
「チッ、湧き待ちかよ! ずるいぞ!」
ゾンビが可哀想に見えた。
昨日まで人類の天敵だった彼らは、今やただの「歩くポイント」であり、奪い合うべき「資源」に成り下がっていた。
恐怖心?
そんなものはスマホがインストールされた瞬間に、人類の辞書から消滅したらしい。
人間は欲望のためなら、恐怖さえも克服する生き物なのだ。
俺は冷静に周囲を観察した。
俺のレベルは2。装備はサバイバルナイフ。
正面からあの浅ましい争奪戦に参加しても、力負けするだけだ。
俺に必要なのは筋力(STR)じゃない。
ゲーマーとしての「狡賢さ(INT)」だ。
俺はステータス画面を開き、温存していた5ポイントを全て【敏捷(AGI)】と【気配遮断】スキルに振った。
「ハイエナ上等。漁夫の利こそソロプレイヤーの特権だろ」
俺は影に溶け込むように、路地裏へと滑り込んだ。
俺が路地裏で数匹の野良ゾンビを処理し(誰かが削った瀕死の個体を、ナイフ投擲で美味しくいただいた)レベルが4に上がった頃だ。
大通りのコンビニ前が、異様な熱気に包まれていた。
「下がれ! 普通の攻撃じゃ通らねえぞ!」
「魔法使い(マジックユーザー)はまだか!? 氷結系のスキル持ってる奴!」
「タンク! ちゃんとヘイト稼げよ! こっちに来るだろ!」
そこには巨大な肉塊がいた。
コンビニの制服が張り裂けんばかりに膨れ上がった筋肉。身長は2メートルを超えている。
頭上には禍々しい紫色のカーソル。
『Lv.10 ミュータント・オーガ(元・店長)』
中ボスだ。
周囲にはすでに10人ほどのプレイヤーが集まり、各々の武器で攻撃を加えていた。
バット、ゴルフクラブ、包丁、そしてショップで購入したであろうハンドガン。
だが元店長の皮膚は硬く、決定打を与えられていない。
「グオオオオオオ!」
店長が咆哮し、腕を振り回す。
「ぎゃあああ!」
前線にいた男が吹き飛ばされ、ガードレールに激突する。
HPバーが赤色になり、悲鳴を上げる。
「ひぃッ! 死ぬ死ぬ!」
一瞬、場に恐怖が戻る。
だがそれも一瞬だった。
「おいボスのHPバー見ろ! 赤ゲージだ!」
「あと少しか!?」
「トドメだ! トドメを刺した奴が総取りだぞ!」
恐怖よりも強欲が勝った。
負傷者を助ける者はいない。
全員が血走った目で「ラストアタック」だけを狙っていた。
我先にと殺到するプレイヤーたち。
だがそれが隙を生む。
密集した集団に向かって、店長が大きく息を吸い込んだ。
(……来る!)
俺は直感した。あれは範囲攻撃(AoE)の予備動作だ。
「馬鹿野郎、離れろ!」
俺の叫びは、欲望の歓声にかき消された。
店長が、毒の霧を吐き出した。
「ガハッ!?」
「め、目が……!」
前線の数人が悶絶し、動きが止まる。
戦線が崩壊した。
店長が暴れまわり、プレイヤーたちが散り散りに逃げ惑う。
チャンスだ。
混乱こそが俺の武器だ。
俺はコンビニの屋根の上――事前に登っておいたスナイピングポイント――から、眼下の地獄を見下ろした。
手には、さっきの路地裏狩りで貯めたポイントで買ったとっておきのアイテム。
【アイテム:スタングレネード(閃光手榴弾)】
「悪いなみんな。経験値は平等じゃないんだ」
俺はピンを抜き、店長の足元へ投げ込んだ。
カアンッ!
強烈な閃光と爆音が炸裂する。
「うわあっ!」
「何も見えねえ!」
プレイヤーたちも、そして店長も、視覚と聴覚を奪われ動きを止めた。
俺は屋根から飛び降りた。
空中でサバイバルナイフを構える。
狙うは一点。店長の頭頂部、肉が盛り上がったその隙間にある露出した脳幹。
クリティカル・スポット。
「いただきだッ!」
重力に従い、俺の体重とナイフの鋭さが、その一点に突き刺さる。
ズドンという重い衝撃が腕に走る。
店長の巨体がビクリと震え、そして――光の粒子となって崩れ去った。
【討伐完了!】
【レイドボス撃破ボーナス:大量の経験値を獲得しました】
【MVP報酬:スキルスクロール『鑑定眼』を獲得しました】
【レベルアップ! Lv.4 → Lv.8】
着地した俺の周囲に静寂が落ちる。
視力を取り戻したプレイヤーたちが、呆然と俺を見ていた。
そしてその目が、徐々に「殺意」に変わっていく。
「てめぇ……横取りしやがって……」
「俺たちの獲物だぞ……!」
俺は立ち上がり、ナイフについた血を振るった。
そしてニヤリと笑って見せた。精一杯のハッタリをかまして。
「文句があるなら運営に言いな。早い者勝ちがルールだろ?」
俺は、彼らが襲ってくる前に素早くステータス画面を開く。
得たばかりのポイントを全て【脚力】に振った。
戦う? 馬鹿言え。1対10で勝てるわけがない。
「じゃあな、お疲れさん!」
「あ、待てコラァァ!」
「逃がすか、泥棒猫ォォ!」
俺は全力で逃げ出した。
背後から飛んでくる罵声と石ころ。
ゾンビに追われていた昨日までの恐怖とは違う。
これは、生きた人間との命懸けの鬼ごっこだ。
走る。風を切って走る。
肺が熱い。足が重い。
けれど俺の口元は、笑っていた。
息を切らせて逃げ込んだ廃ビルの屋上で、俺は夕日を見ていた。
街のあちこちから、まだ爆発音や悲鳴、そして歓声が聞こえてくる。
煙が上がり、サイレンの代わりにレベルアップのファンファーレが鳴り響く世界。
俺は戦利品の『鑑定眼』スキルを使い、街を見下ろした。
視界に無数の情報が溢れる。
どこのビルに物資があるか。
どこの路地に強敵がいるか。
そしてどこのプレイヤーがカモか。
【システム通知:明日のデイリーミッション】
【内容:生存者(プレイヤー)とのPvPで1勝せよ】
【報酬:アサルトライフル(弾薬付き)】
スマホの画面を見て、俺は思わず吹き出した。
「ははっ、運営の野郎、いよいよ人間同士を殺し合わせる気かよ」
最悪の世界だ。
倫理も道徳も崩壊し、力と数字だけが全てになったクソゲーだ。
だが不思議と、絶望感はなかった。
トイレで震えていた俺は、もういない。
ここには、この理不尽なゲームを「攻略」しようと目論む、一人のプレイヤーがいるだけだ。
俺はなけなしのポイントで買った缶コーヒーを開けた。
プシュという音が夕暮れに溶ける。
温いコーヒーが、最高に美味かった。
「さてと」
俺は空き缶を握り潰し、立ち上がる。
夜になれば、夜行性の強力なゾンビが湧く。
それはつまり、高得点のボーナスタイムだ。
「延長戦(残業)といくか」
俺はスマホをポケットにねじ込み、終わらない戦場へと足を踏み出した。
(完)
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