三.


 一週間後、よく晴れた土曜の午後。改めて里見家へ訪ねると、ひなたがにこにことドアを開けて迎えてくれ、後から優子がぱたぱたと小走りでやってきた。ひなたはどうやら我先にと玄関へ走ってきたらしい。はやくはやくと急かしながら、結の手を引っ張ってリビングへ連れて行こうとする。

 壁にはひなたが幼稚園で描いたであろう絵が飾られてあり、おもちゃ箱やゲーム、絵本もあり、一般的な子供がいる家庭だいう印象を受ける。物はあるが来客のために整理整頓されている。

 特筆すべき点がない、普通の家だ。

 ただ一点、遺影と位牌が、リビングに置かれているのを除けば。

「仏間もありませんし、ここに置いておけば、なんだか守ってくれそうな気がして」

 形だけでもと結と榊は正座し遺影に向かって手を合わせるが、

「……後ろに、いるな」

「うん」

 背後には霊体──もう澱みになりかけているのかもしれないが──本人が壁に凭れ掛かって座っている。第三者から見たら奇妙な光景だが、大抵それは一般人には視えない。

 遺影と背後の澱みを見比べ、同一人物であることを確認する。過去に別人だった現場もあるという話を榊から聞いていたので結は内心ほっとする。

 事前にひなたから聞いていたのだろう。結と榊が自分を視認できることに、淳は驚く様子もなく、ただ静かに微笑み頭を下げた。写真の中と同じ、眼鏡をかけた真面目そうな青年だ。ただ違うのは、皮膚がただれかけ、時折息苦しそうに肩で呼吸している。結は所属と自分の名前を名乗り、挨拶した。

「初めまして。お話はできそうですか?」

 淳は訝しげな眼差しをこちらへ向ける。この目線は慣れっこだ。

「娘から、話は聞いてます。天国へ連れて行ってくれるとか。随分怪しげですね」

「仰る通り怪しげな見た目です。疑われるのも無理ありません。特にこっちが。年甲斐もなく長髪ってどうかしてると思いません?」

 と後ろにいる事業主を指さして同意を求めるが、榊から手刀を食らわされるだけで淳からは何も返答はない。しかし空気が和らいだのは感じたので、本題に入る。

「実際には天国ではなく、あなたを輪廻へと導きます。輪廻転生はご存じですか? 魂は巡り巡って、次の命としてこの世に生を受けるため、戻ってきます。私はその輪へ戻せますが」

 説明の途中、淳がうめきだし、結はびくり、と肩を震わす。澱み化が進行している。ぼたぼたと液状化した手は無残にもその場へ落ちていく。

「長い時間、この世に留まり続けたからな。仕方ねえよ。自分でも分かってんだろ? もう長くは持たねえぞ」

 榊は片膝を立ててしゃがみこみ、淳に目線を合わせる。

「この世にこうして留まるのは、大抵未練や強い悔恨かいこんがある者だ。このままじゃお前の家族にも影響する。悪い方にな。望みはなんだ」

 脅すように問いかけた。澱みに対してはなるだけ冷静であるのが榊だ。意思疎通が出来ようとも、感情を揺さぶられないようにする彼なりのやり方であった。

 淳は自身の崩れ落ちる手を見ながら、力なく笑って言う。

「……娘を、もう一度この手で抱きたいんだ」

 本人だってまだ若い。仕事も将来有望だっただろう。妻と小さな子供を残し、その無念がこうしてこの世に引き留める足枷あしかせになっている。

「僕は、まだ小さいひなたしか抱けなかったから。こんなに大きくなっちゃって。死んでしまったのが情けないよ」

「普通、生者へ介入することは――」

「分かってる」

 淳は悄然しょうぜんとして首を振った。諦めはついている、といった風に。

「何度もやろうとしたんだ。でも触れることすら叶わないし、ひなたと話すと優子が怒るからね。気味悪がられるのも仕方ないとは思うよ。……無理な願いだよ。もうこんな手だしね。ひなただって、こんな様子の父親、気持ち悪いだろう」

 ひなたは父親の様子を心配そうに気にかけていた。だからこそ結や榊に、父親の淳から受け継いだ「たからもの」を渡してまで、なんとかしてほしいと頼み込んだ。その経緯を知っている結は、そんなことはない、と否定しようとするが、

「パパ!」

 ひなたは近くのソファからクッションを持ってきて、淳の真後ろの壁際にもたれかけさせる。父親の体はこの場にいる誰もしっかりと触れることはできない。クッションは淳の体を通過しているが、そこにひなたが背にして座り込む。

 視えるものからすれば、父親の体の前に収まる形で、ひなたが座っている。

「これでだっこできるでしょ! さわれないけど、だっこしてるみたい! ね?」

 ひなたは父親に、腕を自分に回すようにと、触れられないながらも触る仕草をして指示する。

「えへへ。パパにだっこしてもらったの、はじめてだね!」

「……はは。初めてじゃ、ないんだよ。ひなたは覚えてないだろうけどね。怖くはないの?」

「こわくないよ! パパだもん!」

 父親はゆっくりと腕を回し、ひなたを抱えるように、小さな体を包み込んだ。

「大きくなったなあ」

 うつむいた顔からは、きらきらといくつもの涙の粒が零れ落ちる。慈しむように愛娘の頭を撫でている。いや、実際は撫でるふりなのだが、それでも満足そうにひなたの口角も上がっている。

 視えない優子のために、榊が立ち上がってざっと今の状況を説明しようとするが、

「……そこに、いるんですね?」

 様子を見ていた優子はひなたの真正面へと正座し、夫がいるであろう虚空へ目を向ける。見えないものへの恐怖心は拭えず、緊張しているようだ。一つ深呼吸して、吐き出すように言う。

「淳くん。いい加減成仏しなさいよ。大丈夫よ。私とひなた、二人でちゃんとやってけるから」

 涙声になりながらも、それをこらえるように口角を上げ、また自身の握る手に力が入っているのが見てとれた。若くして寡婦かふとなり、本当は寂しくて辛いはずだ。それでも守る娘がいて、一人で生活を回していく。そんな決意がみなぎっていた。

「……二人とも、ごめんな、ありがとうな」



「では、そろそろ儀式を始めますので」

 しんみりした空気の中、三人は離れたくはないだろうが、進まざるを得ない。そのために自分は来たのだ。

 ひなたは自ら父親から離れ、母親の後ろへと隠れた。小さく手を振って、別れの挨拶をしている。

 結は代々伝わる祓い刀を淳の目の前へとそっと置き、静かに問う。

「お別れは済みましたか」

 淳は目を伏せて、苦しげに微笑む。

「……本当はあいつ、全然大丈夫じゃないんです」

「え?」

 ぼそりと呟く淳の言葉を結は聞き逃さなかった。一ついいですか、と言って結に対してぼそぼそと耳打ちする。淳の最期の言葉を、しかと承りました、と言って頷く。

 一つ呼吸をして刀に手を置き、心を平静に保つ。結は言葉をそらんじる。何度も唱えた、先祖代々伝わる、導きの言葉。

「──この世の縁を断ち、新たな縁を結ぶ時。安らぎを得て、再び生まれいでん。今、汝の魂を解き放ち、輪廻の環へと還さん」

 浄化されるように、光の粒となって淳の体は宙へと舞い、やがて煙のように消え去った。

「……パパ、いっちゃった」

 天を見つめながら、ひなたは呟く。先日の大泣きの様子では父親と離れる際も同じように泣き喚くと思ったが、そうではなかった。苦しむ父親を助けたい、その一心が強いらしい。どことなく誇らしげで、安心した表情だ。

 無事儀式が終わりました、と母親に告げると彼女もほっとしたように、

「どうも、ありがとうございました。なんとお礼を申し上げたらいいか……」

と言って頭を下げた。

「それでは我々はこれで」

 そう言ってさっさと立ち去ろうとする榊を引き留めるかのように、結は発する。

「あの」

 儀式の直前に、淳から託された想い。それを伝えなくては、この件は終わらないだろう。

「最後に、旦那さんが言ってました」

 澱みは、最後に呪詛じゅそになるような言葉を吐く場合もある。依頼者に対して伝えるかどうかは、結や榊の裁量にかかっている。今回は伝えなければならない、と使命を感じていた。

「……僕はずっと見てたよ。もう前を向いて、次へ進んでくれ。そう伝えてほしい、と」

 淳の言葉をそのまま伝えると、優子は人目もはばからず、その場で泣き崩れた。

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