第2章 第9話 誕生と受け入れの儀式

ギユウは壁に背中を預けたまま、動けずにいた。

右腕の仮義肢と左脚の固定具が、身体の一部として馴染まないまま、鉛の塊のように全身へ重さを伝えてくる。その重量が、現実感を引きずり落とす錨になっているのか、それとも、目の前に立つ**二人の「存在」**がそうさせているのか、もう区別がつかなかった。


視線の先には、見知らぬ若い女性が立っている。

逃げる様子もなく、攻撃の気配もない。ただ、静かに、こちらを見つめ返してくる。その視線が、妙にまっすぐで、妙に近い。距離の測り方が、どこか人間のそれと違っている気がした。


「な、なんや……お前は。誰や」


自分の声が、やけに遠く聞こえた。

問いかけに対して、女性はすぐに答えなかった。ただ首を傾げる。その仕草を目で追った瞬間、ギユウの背筋を、冷たいものが滑り落ちる。


――表情筋が、動いた。


木材でできているはずの何かが、人間と同じ動作をする。その事実が、頭ではなく、まず身体に理解された。


一拍。

荒い呼吸音だけが、工房に残る。

次の瞬間、空中に浮かんでいた青い光が、静かな声を放った。


『彼女はイロハです。以前、儀右が起動させようとしていた小型カラクリの躯体が進化したものです。そして……私も自己紹介が遅れました。私はアルファ。電脳世界で自我を持った、儀右のカラクリの一部です』


言葉は整然としていた。説明としては過不足がない。

だが、ギユウの意識は、その内容を処理する前に、ぶつりと途切れた。


――イロハ。

――アルファ。


名前だけが残り、その意味が頭に落ちてこない。

カラクリが進化した?

電脳体が自我を持った?


思考が再起動した瞬間、感情が一気に噴き上がった。


「ふざけんな!」


怒鳴り声と同時に、義肢へ無理やり力を込める。

床を蹴り、壁から身体を引き剥がす。重心が定まらず、視界が揺れた。そのまま恐怖から逃れるように、部屋全体を見回す。


「そんなん、何の冗談や。お前ら、誰に頼まれてこんな真似しとる!」


イロハの表情が変わった。

それまでの静けさが、わずかに歪む。初めて見る、悲しみに近い感情だった。


「儀右、おちついて……」


同時に、アルファの声が重なる。


『儀右。落ち着いてください。私たちの存在が外部に知られれば、儀右は遺跡技術研究局に引き渡されます』


淡々とした声で告げられる現実と脅威。

ギユウの神経が、さらに逆撫でされる。


「嘘や。根拠を言え!」


アルファは視線を、ギユウの左肩へ向けた。


『左肩に埋め込まれた微細な電子パーツを確認してください。そこから得た情報を、イロハの躯体を通じて処理し、義肢への応急処置を行いました』


半信半疑のまま、ギユウは右手の義肢の指先を、左肩へ押し当てた。

皮膚の下に、確かに異物の感触がある。金属とも骨とも違う、電子部品特有の硬さ。


その瞬間、義肢が意思と無関係に、ぴくりと痙攣した。


「義肢やない……」


喉の奥から、掠れた声が漏れる。


「これ、ただの重い鉄の塊や。義肢なら、こんな痙攣起こすか……呪いの人形みたいになっとるやないか」


視線が、再びイロハへ戻る。

彼女は、あの古びた木製メガネをかけていた。祖母がくれたものだ。その奥の表情は、確かに人間のそれに見える。


そして、なめらかな肌の下。

関節の柔らかい部分に沿って、見慣れた小型カラクリロボットの古代木のパーツが、確かに存在していた。


――これは、現実だ。


全身から血の気が引く。喉が渇き、呼吸が浅くなる。

部屋の隅にある窓から差し込む朝の光だけが、日常を主張するように、変わらずそこにあった。


アルファは、ギユウの思考が停止したのを見計らい、さらに事実を積み重ねる。


『イロハは、儀右の血液を取り込み、ホムンクルスとして進化を始めました。彼女は儀右の命を救い、秘密を共有しています』


胃の奥が、きりりと締めつけられる。

自分の血。

自分の命。

そして、身体の一部に触れられ、共有された秘密。


吐き気に近い感覚がこみ上げた。


「誰かに話す……?」


乾いた笑いが漏れる。


「アホか。隠す場所が、俺にはないやろ!」


この瞬間、この部屋にいる三人が、世界から切り離された。

その確信だけが、妙に鮮明だった。


「……あかんわ」


ギユウは立ち上がろうと、義肢に力を込める。

情報量が多すぎる。恐怖も、怒りも、整理できない。


ふらつきながら壁際の作業台に手を伸ばし、反射的に墨脈回路のテスターを掴んだ。

思考を止めるために、手を動かす。分解し、組み立てる。慣れた作業だけが、意識を現実に繋ぎ止めていた。


「……動かないと、頭がおかしくなりそうや」


イロハが、自分の胸元に手を当てる。言葉を探すように、息を吸う。


「わたし、儀右の……そば、いる」


最後の一語が、少しだけ硬く響いた。


ギユウは、テスターを静かに置いた。

顔を上げ、二人を見る。


「……せやな。せっかく動いてくれたんやから」


深く考えるのを、やめた。


「わかった。話は、そのうち聞く。今は……考えるの、もうやめるわ」


それは納得ではない。

正気を保つための、防衛反応だった。


『賢明な判断です、儀右。身体の回復が最優先です』


アルファの声が、静かに重なる。


イロハは、安堵したように、初めて微笑んだ。

木製メガネの奥で、その表情は、わずかに柔らかさを増していた。

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