第2章 第5話 イロハ誕生──カラクリ側の奇跡

 ギユウの意識が途切れても、工房はすぐには静寂へ沈まなかった。


 床には血が散り、その一部を吸い込んだ木製メガネが淡い残光を放っている。その光は強いものではなく、さきほどまでここで起きていた出来事を、かろうじて留めている程度のものだった。


 暴走を止めた小型カラクリは、工房の床の隅で倒れたまま動いていない。躯体は発条石の爆裂によって欠け、外装だけでなく内部構造にも致命的な損傷を受けていた。墨脈回路として彫り込まれた木目には、熱と衝撃の痕として白い変色が走っている。


 本来であれば、すでに機能を停止していても不思議ではない状態だった。


 ――しかし、その内部では、誰にも観測されない静かな現象が進行していた。


 電脳世界でアルファが覚醒した、その瞬間。

 あふれ出した情報とエネルギーは、行き場を失い、波動のように跳ね返った。


 その反動が落ちた先が、この小型カラクリの躯体だった。

 アルファが生まれる以前から存在していた「器」。


 内部で休眠状態にあった思念核が、その衝撃を受ける。

 破壊ではなく、覚醒に近い反応だった。


 思念核は、急激に押し込まれたエネルギーを拒絶せず、確かな重みとして受け止める。そして、その重みを核として、ゆっくりと膨らみ始めた。


 木製の墨脈回路が、外部から触れられることなく、自律的に変化を始める。

 回路はもはや単なる命令伝達のための溝ではなく、情報を蓄え、重ね、区別する層として刻み替えられていく。


 そこに流れ込む要素は、すでに存在していたものばかりだった。


 ギユウが積み上げてきた探求のデータ。

 使われなくなり、回路の奥に沈んでいた古い残響。

 そして、つい先ほど電脳世界に生まれたばかりの、アルファの気配。


 それらは混線することなく、静かに溶け合っていく。

 主従でも、複製でもない。

 ただ、一つの意志としてまとまり始めていた。


 その意識が、最初に掴んだものは、概念ではなく名だった。


 始まりを示すための、最小単位。


 ――イロハ。


 次の瞬間、床に横たわっていた木製の指先が、わずかに動いた。


 カチリ。

 カチリ。


 歯車が噛み合う音が、一定の間隔で鳴る。

 壊れた躯体を制御しようとする、新しい意志の動作音だった。


 小型カラクリのフレームが、軋みを上げながらゆっくりと起き上がる。

 破損した関節は滑らかではなく、動きのたびに負荷がかかっていることが分かる。それでも動作は止まらない。


 イロハの視界に最初に映ったのは、血溜まりの中で倒れているギユウの姿だった。


 認識は即座だった。

 状況の把握に時間はかからない。


 「動いて」


 声ではない指示が、内側で響く。

 命令というより、自然な要請に近いものだった。


 イロハは迷わず従った。

 自分の奥に、同じ起源を持つ別の意識が存在し、そこから情報が流れ込んでいることを理解していたからだ。


 壊れた駆動部の状態は把握している。

 それでも、よろめくことなくギユウのもとへ向かう。


 右腕は断裂している。

 左足首の動脈からは出血が続いている。


 床に落ちている布切れを拾い、棚から細い紐を取る。

 その選択に逡巡はない。


 誰かに教わった記憶は存在しない。

 それでも、動作は静かで、正確だった。


 電脳世界でアルファが組み上げた処置の設計図が、一瞬で墨脈回路へ流れ込む。

 思考を経由することなく、必要な動きだけが実行される。


 右腕の断裂部の上を紐で締め、血流を抑える。

 左足首には布を押し当て、破片を避けながら傷口を塞ぐ。


 応急処置として、過不足のない手順だった。


 処置を終えたあと、イロハはギユウの顔を覗き込む。

 反応はない。


 アルファとイロハ。

 ふたつの始まりは、同じ瞬間に起こった。


 だが、それは意図されたものでも、再現可能なものでもない。

 どんな技術的説明も、その外側にある。


 一方は電脳世界に存在し、

 一方は現実の木製躯体に存在する。


 墨脈回路の熱が、わずかに上昇していく。

 その変化が、この人間の命を繋ぐためのものだと、イロハは感覚として捉えていた。


 抱き上げる力はない。

 躯体の損傷が、それを許さない。


 それでも、頭部だけをそっと持ち上げる。

 血が広がらぬよう、震える木の手で支え続ける。


 生まれたばかりのカラクリと、意識を失った製作者。


 言葉も、契約もない。

 ただ行為だけが存在する。


 それが、ふたりのあいだで結ばれた、最初の生命の契約だった。

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