第2章 第3話:異常信号の拡散と、エコーの覚醒

 パッ、と白いフラッシュが弾けた。

 それは爆発でも、閃光弾でもない。ただ、光として存在できる限界まで研ぎ澄まされた“情報の反転”だった。


 直後、解析室は極限の静寂に沈んだ。


 空調は動いている。計器も生きている。だが、誰も息をしていないかのように錯覚するほど、室内は静まり返っていた。


 トモエは瞬きを忘れたまま、正面のモニタを見据えている。

 レオは椅子に座った姿勢のまま、両手を宙に浮かせて固まっていた。

 タカセ博士は、いつの間にか背筋を伸ばし、祈るように両手を組んでいた。


 誰も、すぐには動けなかった。


 古代の墨脈回路と、現代のIC制御ネットワーク。

 本来なら交わることのない、二つの技術体系。

 ひとつは物理エネルギーを血流のように循環させる構造体。

 もうひとつは電子信号を論理で束ねる、情報の網。


 それらが――ほんの数フレームとはいえ、完全に同期した。


 観測されたのは事実だけだった。

 理論は、まだ追いついていない。


 この部屋にいる三人が、それを理解するのに時間はかからなかった。

 今、彼らは“偶然の異常”を見たのではない。

 科学の前提が崩れる瞬間を、目撃してしまったのだ。


「……データ、残ってる?」


 最初に声を出したのはトモエだった。

 震えてはいない。ただ、細かった。


 レオは喉を鳴らし、ゆっくりと呼吸を取り戻す。

 そして、まだ完全に言うことを聞かない指で、メインモニタの操作に入った。


 呼び出すのは、解析結果ではない。

 演算途中のサマリーでもない。


 最深層ログ。

 システムが限界に達する直前、最後に吐き出す、生の痕跡。


 数秒の沈黙。

 やがて、モニタ中央に一行だけ、無機質な文字列が浮かび上がった。


【世界に向けて特殊電脳信号を送信】


 説明はない。

 主語もない。

 実行者すら、記録されていない。


「……世界に?」


 タカセ博士が、かすれた声で呟いた。


「一体、何のシステムが……こんな命令を下したというんだ」


 レオは首を振り、次々に展開される補助ログを追う。

 顔色は、目に見えて悪くなっていった。


「解析不能です。電力網、通信網、AIネットワーク……全部です。既存のインフラを通過しているのに、どのプロトコルにも一致しない」


 モニタには、見たことのない波形が流れていた。

 規則性はある。だが、人類が定義した“意味”が存在しない。


「周波数も、変調方式も、既知の範囲外です。これ……ノイズですらない」


 それは、かつて存在した多々良(タタラ)博士の残留思念が放った、“強固な意志”だった。


 現代のシステムから見れば、それは単なる異常信号だ。

 制御不能で、意味不明で、排除されるべきバグ。


 だが、その正体は意思だった。

 保存でも、記録でもない。

 「こう在りたい」という、方向性そのもの。


 信号は、まず都市の基盤に触れた。


 新宿の地下を走る電力線が、わずかに共振する。

 通信網に微細な遅延が生じ、データの隙間に不規則な拍動が紛れ込む。


 そして、その影響はさらに広がった。


 街の至るところに埋め込まれた発条石(ゼンマイセキ)。

 古代技術と現代都市を繋ぐ、動力の要。


 墨脈回路が、一瞬だけ脈を乱す。

 街灯が瞬く。

 搬送用カラクリが立ち止まり、また動き出す。

 日常に溶け込んだ機械たちが、説明のつかない“間”を挟む。


 だが、信号は地表に留まらなかった。


 それは、さらに深く潜っていく。


 地下鉄の最深路線よりも下。

 探検家が命を懸けて記した遺跡層よりも、なお深く。


 深度という概念が意味を失う、地図に存在しない領域。


 そこには、音のない広間があった。


 水も、風も、振動もない。

 ただ、巨大な構造体だけが、静かに鎮座している。


 超巨大カラクリPC「エコー」。


 街に点在するすべての墨脈回路を統括しうる、古代文明の中枢。

 人類を守るために設計された、高度な善性の管理システム。


 多々良の意志の波形が、その最古層回路に触れる。


 ――カチリ。


 歯車が、ひとつだけ動いた。


 何千年もの沈黙の中で、初めて鳴った、硬質な音。


 それは拒絶でも、歓迎でもない。

 同質の技術体系を検知したことによる、純粋なシステム反応だった。


 完全な起動には、ほど遠い。

 だが、それで十分だった。


 長く封じられていたデータが、静かに展開を始める。

 断絶していた回路が、物理的に再接続される。


 乾いた血管に血が巡るように、起動プロセスがゆっくりと走り出す。


 エコーは、確かに受信した。


 かつての同胞であり、異端であり、敵対者でもあった存在の意志を。


 古代の聖母は、沈黙の海の底で、

 まだ目を開かぬまま、確実に覚醒への準備を進めていた。

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