『ここに生きる理由~終わりの夏、迎えに行く物語~』

50代会社員おっさん

第1話 終わりの気配

その朝、ヒデは目覚まし時計より先に目を覚ました。

いつもと違う、静けさのせいだ。


車の音がしない。近所の犬の鳴き声もしない。

いつもなら聞こえてくるはずの、遠くの踏切の警告音すらない。


カーテンを少しだけ開く。

曇った空が、重く垂れ込めていた。


「……嫌な予感がする」


独り言が、やけに大きく聞こえた。

テレビをつけると、朝のニュースが流れていた。


だが、いつもと何かが違う。

スタジオの空気が張りつめている。アナウンサーの声が、わずかに震えている。

『――現在、各地で原因不明の暴動および感染症の疑いが確認されています』

画面が切り替わる。

スマートフォンで撮影されたらしい、荒れた映像。

倒れた人。逃げ惑う人。血の跡。

『専門家によりますと、感染者は強い興奮状態に陥り――』


ヒデはリモコンで音量を下げた。心臓の奥が、嫌な音を立てている。

「……まだ、だろ」

誰に言うでもなく、そう呟く。

きっと誇張だ。よくあるパニックだ。

そう思おうとする一方で、胸の奥では別の感覚がじわじわと広がっていた。

――これは、ただ事じゃない。


スマホが震えた。恵子からのメッセージだ。

『今日のバス旅行、予定通りだって。ちょっと不安だけど……行ってくるね』

ヒデは画面を見つめたまま、しばらく指を動かせずにいた。


行くな、と言うべきか。危ない、と止めるべきか。


でも、理由がない。

ニュースはまだ「注意喚起」の段階だ。感情だけで止めるのは、ただの過剰反応に見える。『気をつけて。連絡は、こまめに』


それだけ送る。短すぎる文面が、やけに頼りなく感じられた。

その時、ふと胸をよぎった。

―何か言い残した方がいいんじゃないか、と。


だが、何を言えばいいのか分からない。

だから、言葉はそこで止まった。


ヒデは銃棚に目を向ける。父が残した、狩猟用のショットガン。

使い方は知っている。触れたこともある。


「……使うことなんて、ないよな」

自分に言い聞かせるように呟き、視線を逸らした。


その頃―県外の女子校。

凛は、寮の自室で窓の外を見つめていた。

校舎の向こうに広がる空は、ヒデの街と同じ色をしている。


スマホの通知欄を、何度も開いては閉じる。姉からの新しい連絡は、まだない。

「……大丈夫だよね。お姉」

声に出すことで、不安を押し込めようとする。けれど、胸の奥は落ち着かない。


ふと、思い出す。少し前に、ヒデが何気なく言った言葉。

『何かあったら、必ず迎えに行くから』

冗談めいた調子だった。本気かどうかも分からない。

それでも、凛はその言葉を、胸の奥で何度も反芻していた。

縋るように。祈るように。


「……来るよね」

誰に向けたわけでもない問いかけが、部屋に落ちる。

答えは、返ってこない。


その日の昼過ぎ。ニュースは、はっきりとした言葉を使い始めた。

『――非常事態宣言が発令されました』

ヒデは、テレビ画面の前で立ち尽くしていた。

胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。

これは、もう― 戻らない。


 終わりの気配は、確かにそこにあった。

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