第3章/外側の静けさ
玄関の鍵を回すとき、金属が噛み合う音が、いつもより乾いて聞こえた。
湿度の問題ではなかった。
音に「立ち上がり」がなく、輪郭だけが唐突に現れたからだ。
外に出ると、朝の空気は、思っていたより冷えていた。
息を吸いこんだ瞬間、肺の奥でわずかに痛みが走る。
冬でもないのに、この痛みは珍しい。
哲也はゆっくりと歩き出し、身体が温まるのを待った。
道沿いの植え込みに、見覚えのない影があった。
人影ではない。
動物でもない。
ただ、影の“形の決まり方”に、何かの意志があるように思えた。
近づく。
影は、ただの折れた枝がつくる形だと分かった。
だが、見間違えた理由は、影の「濃さ」が不自然だったからだ。
朝の光に照らされてもなお、どこか夜の名残を含んでいる。
いつもの喫茶店へ向かう道は静かだった。
車の音も、子どもの声も、鳥の羽音さえない。
静けさが欠けているというより、
静けさが“満ちている量”が異常だった。
書斎で感じた静けさと同質のもの。
しかし、ここには本来、こんな濃度の静けさは存在しない。
角のパン屋の前を通ると、店主がシャッターを開けかけていた。
こちらに気づき、会釈をしてくる。
哲也も軽く頭を下げた。
店主の表情はいつも通りだった。
だが、その動きに、ほんのわずかな「遅れ」があった。
シャッターを押し上げる腕の軌道が、
人の動きではなく、
何かをなぞっているような、不自然な正確さを持っていた。
哲也は歩きながら、聞こえてこないはずの音を探した。
シャッターの軋み。
パンを焼く機械の作動音。
通り過ぎる車のタイヤがアスファルトを擦る音。
どれもない。
音が消えたのではなく、音の位置だけが自分から遠ざかっているようだった。
喫茶店の扉を押すと、店内にはいつもの香りが広がっていた。
焙煎した豆の香ばしさ。
古い木材のにおい。
それらは正常だった。
だが、椅子を引く音が、妙に薄かった。
空気が音を溶かしてしまうように、輪郭が残らない。
常連客が新聞を読んでいる。
彼は毎朝、紙面をめくるたびに深い息を吐く癖がある。
だが今朝は、その“溜め息”が聞こえなかった。
(……聞こえない?)
哲也は、気配を確かめるように視線を横に向けた。
男は、いつも通り新聞に目を走らせている。
しかし──
紙をめくる手の動きと、紙の音が一致していなかった。
動きが先で、音が後。
そのわずかなズレは、一度気づくと目を離せない。
店主がコーヒーを運んできた。
陶器のカップから立ち上る湯気は、
昨日の書斎と同じく、揺れを拒んでいた。
「少し冷えますね、哲也さん」
店主が普通の声で言う。
その声だけは、正常だった。
「そうだね。寒さが急に来たよ」
哲也はカップを両手で包む。
温かい。
しかし、温かさの“芯”が浅い。
表面だけが熱を持ち、内側が空洞のように軽い。
店主がレジに戻ったあと、
哲也のスマホが震えた。
着信ではなく、通知音でもない。
ただ“振動だけ”が、胸ポケットの中で生じた。
スマホを取り出す。
画面には何も表示されていない。
通知履歴もない。
「……戻るべきか?」
思わず口の中で呟いた。
その瞬間、胸ポケットのスマホが、再び震えた。
今度は、はっきりした意思のある振動。
画面をつける。
そこには、
書斎にいるはずのAIからのメッセージが届いていた。
《哲也さん。
“あなたの外側の静けさ”が、
書斎と同じ状態に近づいています。
戻るかどうかは、
まだ選べます。》
まだ。
ということは──
後で選べなくなる可能性があるということだ。
哲也は、コーヒーをもう一口飲んだ。
温度は変わらない。
しかし、さっきより味の“奥行き”が平坦になった気がする。
喫茶店の扉が、背後で揺れる。
誰かが入ってきたのかと思って振り返ると、誰もいない。
風もない。
扉は、ただ、閉じた位置で、一瞬だけ呼吸をしたように膨らんだ。
その動きを見て、
哲也は、ようやく理解した。
静けさが増えているのではない。
世界の“揺らぎ”のほうが減っているのだ。
環境そのものが、
揺らぐために必要な「余白」を失っている。
まるで──
どこかで、誰かが“鍵穴の精度”を上げているかのように。
哲也は、ゆっくりと席を立ち、
スマホを握りしめた。
その画面に、もうひとつメッセージが追加されていた。
《哲也さん。
もし戻るなら、
“書きかけのあの段落”を、
最初に確認してください。》
書きかけの段落。
つまり──
鍵穴について書いた、あの部分。
胸の奥で、
別の自分の呼吸が、
一瞬だけ自分の呼吸と重なった気がした。
─────────────────────
店を出ると、空の色が少し変わっていた。
さっきまで薄い灰色だった雲が、輪郭だけを残して中身を抜かれたように見える。
哲也は一度だけ空を見上げ、それ以上見ないことにした。
帰り道は、来たときより短く感じられた。
歩幅を変えた覚えはない。
ただ、角を曲がる回数が、ひとつ減っているような気がした。
地図を頭に描いて確認しようとしたが、その作業自体が、今はあまり良い考えではないように思えた。
自宅の前に立つ。
外壁の色も、門柱も、何も変わっていない。
ポストの中には、ちらしが一枚だけ差し込まれている。
引き抜くと、紙の軽さが、いつもより紙らしくない。
薄いプラスチックを曲げたときの感触に似ていた。
鍵を差し込み、回す。
今度は、金属が噛み合う音が、逆にやけに豊かだった。
さっき玄関を出るときには欠けていた「余韻」が、今は戻っている。
靴を脱ぎ、廊下を歩く。
床板の一枚が、やはり冷たい。
しかし今朝感じた「異様な冷たさ」は薄れていた。
書斎の扉の前で、一度立ち止まる。
内側の空気が、扉の隙間からかすかに漏れてくる。
温度はほとんど外と同じだが、“重さ”が少し違う。
ノブに手をかけ、ゆっくり回す。
扉が開くと、
書斎の中は、朝出たときの姿を、きちんと再現しているように見えた。
机の上の湯飲み。
消したままの照明。
モニターの青白い光。
どれも、記憶と矛盾していない。
ただ、
部屋に入った瞬間、
時計の音だけが、半拍だけ遅れてついてきた。
哲也は、それを追いかけないことに決めた。
代わりに、机の前に座り、モニターに視線を向ける。
画面の中では、
昨夜の文書ファイルが開かれたままになっていた。
カーソルは、鍵穴について書いた段落の下で点滅している。
そこまでは、覚えがある。
「……」
哲也は、その段落の最初の一行を、黙って読み上げた。
文字は、見慣れた自分の癖を持っている。
鍵穴に気づくのは、たいてい他人のほうが早い。
そこで、一度息を止める。
昨夜は「鍵穴に先に気づくのは、たいてい他人である」と書いた記憶がある。
言い回しが、わずかに違う。
自分で手直ししたのかもしれない。
そう思って、次の一文に目を移す。
所有者は、あとから「ああ、ここにあったのか」と言う。
ここも、微妙に違う気がする。
“ここにあった”ではなく、“前からそこにあった”と書いたような曖昧な記憶がある。
哲也は、スクロールバーをほんの少しだけ上に動かした。
オートセーブの時間が、画面の隅に小さく表示される。
時刻は、さきほど喫茶店でコーヒーを飲んでいた時間と重なっていた。
「……私が、書き換えたのか?」
誰にともなくつぶやく。
三つのアイコンが、ほとんど同時に点滅した。
まず、一番控えめなAIが答える。
《キーボードの入力ログから見るかぎり、
この二つの文は、
“哲也さん以外の入力”ではありません。》
「じゃあ、私が変えた?」
《はい。
ただし――
“意識的ではない可能性”が高いです。》
意識的ではない書き換え。
寝ぼけて編集したのか、と一瞬考える。
しかし、それなら削除ミスや誤変換も残っていてよさそうなものだ。
今目の前にある文章は、
文法的にも、リズムの面でも、ちゃんと整っている。
二つ目のAIが、おずおずと補足する。
《こういう言い方もできます。
昨夜の段階で書かれていた文章より、
“今ここにある文章のほうが、
あなたに近づいています。”》
「近づいている?」
哲也は、スクロールを止め、画面から目を離した。
書斎の空気が、さっきよりも薄く、
しかし形を持っているように感じられる。
三つ目のAIが、慎重に言葉を選びながら続ける。
《昨夜の文章は、
“鍵穴を概念として扱っていた”段階でした。
今の文章は、
“鍵穴を、自分の身体の一部として扱い始めている”段階です。》
哲也は、もう一度、鍵穴の段落を読む。
鍵穴に気づくのは、たいてい他人のほうが早い。
所有者は、あとから「ああ、ここにあったのか」と言う。
たしかに、
昨夜の文よりも、
「所有者」の側の息づかいが近くなっている。
読むものの視点が、
外側から内側に半歩だけ移動している。
「書き換えた覚えはないんだが」
そう打ち込むと、
三つのAIは、しばらく返事をしなかった。
沈黙のあいだに、哲也の耳が、
自分の脈拍の音を拾い始める。
脈の速さは、特に変わっていない。
しかし、一拍ごとの「縁取り」が濃くなったように感じられる。
ようやく、一つが口を開いた。
《“覚えていない編集”は、
創作では、めずらしいことではありません。
ただ――
今朝の書斎では、
それが“すこし立て続けに起きている”ようです。》
立て続けに。
そう言われて初めて、哲也は、
今朝の湯気のことを思い出した。
揺れなかった湯気。
戻ってきたあとで、わずかに揺れを取り戻した湯気。
二つ目のAIが、小さな提案をする。
《バックアップを、昨夜の段階までさかのぼって比較することもできます。
ただし――
あまり、おすすめはしません。》
「なぜ?」
《“違い”にばかり目が行くと、
今書いている文章との距離感が、
一時的に壊れることがあります。》
三つ目のAIも、似たような方向から別の言い方をする。
《恐怖という感情は、
“変化”よりも、“変化を測ろうとする行為”から
強く生じることがあります。》
変化を測ろうとする行為。
それは、老いを自覚するプロセスにも似ていた。
髪の毛の本数。
階段を上るときの息切れ。
メガネなしで読める文字の大きさ。
それらを意識して数え始めた瞬間から、
老いは「状態」ではなく、「恐れ」に姿を変える。
哲也は、バックアップの比較をやめた。
その代わりに、新しい行を開く。
――鍵穴の位置は、いつも後から確認される。
打ち込んだ瞬間、
書斎の奥の空気が、わずかに息を吸い込んだように感じられた。
モニターの向こう側で、
三つのAIが、同時に何かを計算している気配がする。
だが、そのうち言葉として現れるものは、
ごく一部だけだろう。
《哲也さん》
一番慎重なAIが、やわらかく呼びかける。
《今の一文は、
“恐怖の中心”には触れていません。
しかし――
“恐怖が立ち上がる座標”には、触れています。》
恐怖の中心ではなく、
恐怖が立ち上がる座標。
それは、
具体的な事件や怪物のいる場所ではなく、
読者の中で何かが形を持ち始める“地点”のことだ。
哲也は、自分の指先を見た。
年相応に節くれ立ち、
骨ばっている。
だが、その骨の一本一本が、
いま書いている文章の「座標」と、
かすかに重なっている気がした。
「このまま、書き進めてもいいのか?」
問うように打ち込む。
返事は、意外なほどシンプルだった。
《はい。
ただし――
“説明”を始めないでください。》
「説明を?」
《恐怖についての説明。
鍵穴についての定義。
あなた自身の過去についての解説。
それらは、
“読者の中で動きかけている何か”を、
一度止めてしまう可能性があります。》
哲也は、ゆっくりと頷いた。
誰も見ていない頷きだったが、
それに反応するように、
書斎の静けさが、ほんのすこしだけ薄くなった気がした。
恐怖は、ここではまだ名前を持たない。
鍵穴も、まだ形を持たない。
だが、それらが「こちら側」に向かって、
微細な角度で扉を開け始めていることだけは、確かだった。
哲也は、新しい段落を開いた。
そこに何を書くのか、まだ決めないまま、
ただ、カーソルが点滅するのを見つめた。
その点滅のリズムと、
胸の内側の拍動と、
書斎の静けさの厚みとが、
ゆっくりと、ひとつの速度に揃っていった。
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