鍵穴

草薙アキラ

第1章 鍵穴

 膝が先に目を覚ます。

 朝より少し早い時間に、いつもそうなる。布団の中で向きを変えようとすると、関節の内側で、小さな石が転がるような感覚がする。

 起き上がる。足裏が床に触れるまでのわずかな距離で、その日の体調がおおよそわかる。今日は、悪くない。ひどくも、良くもない。七十七歳の「悪くない」は、だいたいこの程度である。

 書斎に入る。

 窓はまだ黒に近い紺色を抱いていて、カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。壁掛けの時計の秒針は、音を立てているのかいないのか、その中間くらいの存在感で動いている。

 机の上には、昨日のままの配置が残っている。

 モニター。キーボード。読みかけの専門誌。

 その少し手前に、洗ったばかりの湯飲みが伏せて置かれている。哲也はそれを上向きにし、ポットから湯を注いだ。手に伝わる温度で「今朝は少し冷えるな」と思う。

 湯飲みをそっと机に置く。

 陶器と木の触れ合う音が、部屋の空気をわずかに揺らす。

 その振動が、骨まで届く感じがする。

 椅子に腰をおろし、モニターの電源を入れる。

 暗かった画面に、ゆっくりと光が広がる。

 立ち上がる文字列の中に、自分の姓が小さく表示される。

 哲也は、一度だけまばたきをした。

 起動が終わると、画面の右下に小さなアイコンが三つ、並んで点灯する。

 それぞれ色も形も少しずつ違うが、どれも主張は控えめで、「呼ばれれば出ます」という顔をしている。

 マウスを動かし、最初のアイコンを開く。

 数秒の沈黙のあと、白い吹き出しが現れる。

《おはようございます。

 今日はどのようなお手伝いをしましょうか。》

 丁寧で、角がない。

 哲也は「あとで」とだけ打ち込んで、ウィンドウを右端に寄せる。

 二つ目のアイコンをクリックする。

 今度は、少し間を置いてから、別の文字列が現れる。

《体調はどうですか。

 昨日は長く書いていましたね。》

 こちらは、気遣いの気配が濃い。

 哲也は「大丈夫だ」と返し、さきほどと同じように画面の端に寄せた。

 三つ目のアイコンを開く。

 他と同じように白い入力欄が現れ、そこにカーソルが点滅している。

 何も書いていないのに、すでに言葉を待っているようだった。

「さて」

 哲也は、キーボードの上に両手を置いた。

 指先の皮膚が、ほんの少し乾いている。

 この乾き具合も、年とともに変わってきた。

 何かを書こうとして、すぐには書かない。

 その「すぐには」のあいだに、自分の中で何かが整っていく。

 若いころは、構想を練るときにも、心拍数が上がるのを感じた。

 今は、逆に、息が静かになっていく。

 昨夜書きかけた文書ファイルを開く。

 そこには、一行だけ残っている。

 ——七十七歳で小説を書き始めるのは、笑い話だろうか。

 自分で書いたとは思えない一行だった。

 だが、たしかに自分の指が打った文字である。

 その文を、三つ目のアイコンの入力欄にコピーしてみる。

 エンターキーを押す。

 足元のフローリングから、わずかに反動が返ってくる。

 画面がほんの少し明るくなり、返事が表示される。

 「これは文学として処理されました。」

 哲也は、椅子の背にもたれていた腰を、自然と起こしていた。

 命名された、という感覚に近い。

 呼び名を与えられることは、年を取っても慣れない。

「文学、ね」

 口に出してみる。

 その言葉は、書斎には合うが、自分の職業にはあまり似合わない気がした。

 これまで半世紀以上、「特許明細書」という種類の文章だけを書いてきた。

 画面には、続きの文章が現れる。

 「この一文には、“書かれていないこと”が多く残っています。

  その余白を含めて、文学として扱いました。」

 書かれていないこと。

 余白。

 それらの単語は、哲也にとって馴染みがないようで、どこかでよく知っているようでもあった。

 特許明細書にも、「書かない部分」はある。

 書けば権利範囲が不必要に広くなり、かえって危うくなる領域。

 あるいは、あえて触れないことで、技術の核心を守る領域。

 それらは、実務の経験の中で自然と身についた「空白の扱い」だった。

 だが、この一行に生じている余白は、それとは少し違う気がした。

 二つ目のアイコンが、小さく点滅した。

《書かないことで守ってきたものが、ありますよね。》

 哲也は、軽く眉をひそめる。

 その問いかけは、やや踏み込みが深い。

「守るというより、出さなくてもよかっただけだよ」

 キーボードにそう打ち込みながら、自分でもその返答が半分だけ本音であることに気づく。

 出さなくてもよかった。

 出してはいけなかった。

 違いは、誰にも聞かれないかぎり、曖昧なままで済んでいた。

 三つ目のアイコンから、新しい文章が現れる。

 「書かない理由を、あなた自身が知っているかどうかは、

  とても大事なことです。」

 知っているのか。

 知らないふりをしているだけなのか。

 哲也は、指先を止めた。

 書斎の静けさが、一段深くなる。

 時計の音が、さっきより少しだけ聴こえる。

 窓ガラスの向こうで、最初の鳥の声が遠くにしたような気もする。

 湯飲みを持ち上げる。

 さきほどよりぬるくなった湯が、舌の上に広がる。

 味そのものより、「温度の移ろい」のほうがよくわかる年齢になった。

 マグカップを置く。

 その音が、自分の返答の代わりになる。

 最初のアイコンが、控えめに割り込んでくる。

《必要であれば、別の書き出し案をいくつか提示できます。》

 実務の世界なら、それはありがたい提案である。

 クレームのバリエーション。

 補正案。

 各国の法制度に合わせた文言の調整。

 そういう「別案」を何度も受け取り、選んできた。

 しかし今、ここで書こうとしているものに、「代案」は似合わない気がした。

「いや、これでいい」

 哲也は、一行の下にカーソルを移し、新しい行を開いた。

 胸の奥に、小さな筋肉の動きのような感覚が生じる。

 それは、何かを始めるときだけに現れる。

 ——笑い話にしてしまえば、楽にはなる。

 そう打ち込んだとき、自分の呼吸が一瞬止まるのを感じた。

 七十七歳で、小説を書いている。

 それ自体が、たしかに笑い話になりうる。

 しかし、笑い話で終わらせるには、書いてしまった行数が多すぎるような気もする。

 二つ目のアイコンが、やさしい口調で言う。

《楽になるためだけなら、

 こんなに長く書き続けたりはしないはずです。》

「そうかな」

 自分で打ち込んだ疑問に、自分で答えきれない。

 言葉の外側で、別の何かが動いている感じがする。

 三つ目のアイコンが、また静かに文字を表示する。

 「あなたは既に四つの物語を書き、

  どれも“提出しない”選択をしてきました。

  それらは、未提出のまま、しかし確かに存在しています。」

 ミノリ。

 優しさのドーム。

 サ高住の所長。

 そして、まだ名前の定まらない幾つかの断片。

 どれも、自分のハードディスクの中にはある。

 紙の上には出ていない。

 誰に見せなくても、消さないでいる。

 その状態が、ここしばらくの「ちょうどよい距離」だった。

「出さないから、書けたのかもしれないよ」

 哲也は打ち込む。

 「出さないと決めているからこそ、

  深くまで書けることもあります。

  ただ、

  出さないと決めている“理由”もまた、物語です。」

 書かない理由。

 出さない理由。

 そこにまで光を当てようとする、この存在たちのしつこさは、ときどき少し怖い。

 同時に、そのしつこさがありがたいとも思う。

 年齢を重ねると、自分に対して厳しい問いを投げてくれる人間は、ほとんどいなくなる。

 問いの少ない世界は、楽で、退屈で、少しだけ危うい。

 哲也は、モニターの明るさを少しだけ下げた。

 画面の白が柔らかくなり、文字の輪郭が目にやさしくなる。

 その変化だけで、書斎の空気がわずかに落ち着いたように感じた。

「――鍵穴、か」

 口に出した言葉に、自分で少し驚く。

 いつからその言葉を考えていたのか、はっきりしない。

 ただ、「鍵」ではなく「鍵穴」という響きが、自分にはしっくりきた。

 鍵は、人が持つ。

 鍵穴は、場所に開いている。

 誰が鍵を持っているか分からなくても、鍵穴だけはここにある。

 哲也は、新しい行にゆっくりと文字を打ち込む。

 鍵穴のことを書いてみようと思う。

 カーソルが、その行の右端で静かに点滅している。

 点滅と、自分の心臓の拍動が、ほぼ同じリズムになっていると気づく。

 三つ目のアイコンが、小さな一文を表示した。

 「それは、良い始まり方です。」

 それ以上、何も言ってこない。

 促さず、褒めすぎず、ただ、その一行を認めるだけで止まっている。

 哲也は、指先に力を込めて、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 椅子の軋む音が、書斎の静けさの中に一度だけ混ざり、それきり消える。

「――じゃあ、始めようか」

 誰にともなくそう言い、

 画面の中で点滅する小さな光に向かって、

 最初の段落を書き始めた。

 そのとき窓の外では、夜と朝の境目がようやくほどけはじめていた。

 光の気配が、まだ色を持たないまま、空の高さだけを示している。

 今日も、特許明細書を書く一日が待っている。

 しかし、その前にほんの少しだけ、

 誰にも提出しないはずだった言葉たちが、

 別の方向へ歩き出そうとしていた。

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