十年前マッチングアプリ
伊阪 証
本編
作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
指先が震えているのは寒さのせいではない。
画面の中で、十年前の私がひきつった笑みを浮かべていた。 重い前髪。 手入れされていない眉。 垢抜けない黒髪のストレートヘア。 どう見てもクラスの背景モブですらない、ただの芋女。
「送信」ボタンが、処刑台のスイッチに見えた。
このアプリの利用規約は絶対だ。
『登録画像は十年前のものに限る』
現在地、渋谷駅ハチ公前。 行き交う人々は皆、今の顔で笑っているのに、私の手元だけが過去に縛り付けられている。
もし今の私の写真を使えたら、どれだけ楽だったろう。 二重の手術痕も馴染んだ瞼。 研究し尽くしたノーズシャドウ。 一カ月分の給料を注ぎ込んだパーソナルカラー診断に基づくリップ。 今の私なら、誰とだって堂々と会える。
けれど、このシステムはそれを許さない。 詐欺はなしだ。過去を晒せ。 変化の過程ごと愛せる相手を探せ。 そんな高潔な理念が、今はただの呪いにしか思えない。
息を止めて、画面をタップした。 通知音が鳴る。 マッチング成立。
相手の顔写真が表示された瞬間、私は喉の奥で小さく呻いた。
「…嘘でしょ。」
画面の向こうにいたのは、お姫様だった。 栗色の緩やかな巻き髪。 あざとさのない大きな瞳。 学校の誰もが一度は恋をしたであろう、圧倒的なヒエラルキー上位の笑顔。
名前は、麗奈。 俗に言う「当たり」だ。
このアプリには残酷なスラングがある。 十年前が可愛い「当たり」と、十年前が微妙な「ハズレ」。 そして、今の方が劣化している「過去詐欺」と、今の方がマシな「現在詐欺」。
私は間違いなく、ハズレの現在詐欺枠だ。 対する相手は、当たりの天然記念物。
逃げたい。今すぐブロックして、家に帰り、布団に包まりたい。
でも、足は動かなかった。 悔しさがあったからだ。
私は十年、戦ってきた。 あの芋虫が蝶になるために、どれだけの血と金を流したと思っている。 過去の栄光にすがる元お姫様に、今の私が負けるはずがない。
そう言い聞かせ、私はショーウィンドウに映る「今の私」を睨みつけた。
背筋を伸ばす。 顎を引く。 口角を、三ミリ上げる。 大丈夫。 私は、可愛い。
人波が割れた。 スマホを片手に、きょろきょろと視線を彷徨わせている女性がいる。 ベージュのトレンチコート。 ヒールの高さは七センチほど。 画面の中のお姫様と同じ、栗色の髪。 目が合った。
時が止まる。 呼吸の音が、やけに大きく耳に響く。
麗奈だ。
写真は輝いていた。発光しているかのような十代の肌と、無敵の全能感に満ちた瞳。 目の前の彼女は、美しい。間違いなく美しいけれど、あの頃の光はもうない。 目尻に溜まったファンデーションの僅かなヨレ。 口元の笑みは、愛想という名の防具で固められた笑みだ。 疲れている。 あるいは、怯えている。 私と同じように。
勝った、とは思わなかった。ただ、ひどく安堵した。 彼女もまた、重力と時間の中を生きてきた人間だったから。
麗奈の視線が、私の顔に突き刺さる。 彼女はスマホの画面を二度見した。 そこに映っているのは、あの忌々しい芋女の写真だ。 そしてもう一度、今の私を見る。 驚愕。 値踏み。 そして、微かな嫉妬。 その感情の推移が、手にとるように分かってしまった。
「…芽衣さん、ですよね?」
声は低く、少しハスキーだった。
「はい。麗奈さんですか?」
「写真と、ずいぶん違いますね。」
刺のある言葉。けれど、それは最高の褒め言葉でもあった。
「十年経ちましたから。」
「…そうですね。十年、経っちゃいましたね。」
麗奈は自嘲気味に笑うと、ふ、と視線を逸らした。 その横顔に、かつてのマドンナの面影が過ぎる。
「行きましょうか。予約してあるので。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
どちらからともなく歩き出す。 二人の距離は、まだ遠い。 互いに「ハズレ」を引いたとは思っていない。そのことだけは、確かなようだった。
カフェの店内は、焙煎された豆の香りと、控えめなジャズで満たされていた。 通されたのは窓際の席。 午後の柔らかい陽光が差し込んでいるのに、私たちのテーブルの温度だけが少し低い気がする。
「ここ、よく来るんですか?」
「たまに。仕事の合間に近くなんで。」
「へえ、お仕事、この辺なんですね。」
「ええまあ。芽衣さんは?」
「私は電車で二駅くらいです。今日は休みで。」
会話が、滑っては消える。当たり障りのない、天気予報のような言葉のやり取り。
麗奈さんはアールグレイを、私は季節限定のベリータルトとコーヒーをそれぞれ注文した。 カトラリーが皿に当たる微かな金属音が、沈黙を際立たせる。
目の前の彼女は、美しい。それは間違いない。
けれど、時折見せるふとした仕草――髪を耳にかける指の動きや、カップを持ち上げる手つきに、どこか「見られること」への過剰な意識を感じる。 演じている。いや、演じることが呼吸になっている人だ。
十年前、彼女はきっと、世界の中心にいたのだろう。
「美味しそうね、それ。」
麗奈さんが、私のタルトを見て言った。
「あ、はい。…ピスタチオとベリーって、十年前はあんまり見なかった組み合わせだなって思って。」
なんとなく口をついて出た。 麗奈さんの指が、カップの縁で止まる。
「…そうね。十年前は。」
彼女は視線を少し遠くへ投げた。その瞳の焦点が、このカフェではないどこか別の場所に結ばれる。
「タピオカも無かったし、こういう映え重視のスイーツも少なかった。…あの頃は、もっとシンプルだった気がする。」
「高校生、でしたっけ。」
「うん。一番楽しかった時期かも。」
フ、と彼女が笑う。その笑みは、さっきまでの愛想笑いより、少しだけ体温が高かった。
「文化祭とか、凄かったのよ。」
スイッチが入ったように、麗奈さんが語り始めた。
「ミスコンとか無かったのに、勝手にファンクラブが出来ててさ。歩くだけで道が開けるっていうか、モーゼかよって友達に突っ込まれてた。」
「漫画みたいですね。」
「でしょ? 下駄箱開けたら手紙が雪崩れてくるとか、ベタなことも本当にあった。」
彼女の声が弾む。身振り手ぶりが大きくなり、表情がいきいきと輝き出す。 それは確かに、十年前の写真に写っていた「無敵の美少女」の片鱗だった。
けれど。
「同窓会でもさ、未だに言われるの。『あの時の麗奈は伝説だった』って。」
「…あの時の、ですか。」
「そう。男子なんて皆、私のこと狙ってたんだから。」
違和感。 彼女の話には、主語がない。「今の私」が、いない。 あるのは「かつての私」と、それを崇める「周囲の目」だけ。 十年前の栄光という蜜の味を、彼女はまだ反芻し続けている。ガムのように、もう味がしなくなっているかもしれない。
「芽衣さんは? 写真見る限り、その…真面目そうだったけど。」
不意にボールが投げ返された。 麗奈さんの視線には、悪意はない。ただ、無意識の優越感が透けている。 『貴女には、こんな武勇伝ないでしょ?』という、無邪気なマウント。
私はコーヒーを一口飲んで、苦味で喉を潤した。
「私は…完全に、芋でした。」
「うん、見た。」
即答。遠慮のなさに、逆に笑いが込み上げてくる。
「ですよね。前髪は目にかかるくらい長くて、眉毛なんて整え方も知らなくてボサボサ。黒縁メガネで顔を隠して、教室の隅っこで気配を消してました。」
「あー…いるよね、そういう子。」
「写真に写るのが死ぬほど嫌で、修学旅行の集合写真とか、全部うつむいてるんです。心霊写真みたいに。」
自虐ではない。これは、事実の確認だ。 私はスマホの画面をタップし、保存フォルダを開きそうになって、やめた。 今の私は、違うから。
「だから、全部変えました。」
「全部?」
「はい。歩き方はモデルさんの動画を見て、一日一時間鏡の前で練習しました。猫背を直すのに整体に二年通って、メイクは雑誌の端から端まで試して。」
私は自分の頬に触れる。
「笑顔もです。割り箸をくわえて、口角を上げる筋肉を鍛えました。毎晩、お風呂上がりに。」
麗奈さんが、目を丸くした。アールグレイのカップを持つ手が、宙で止まっている。
「…凄いわね。」
「必死でしたから。」
「そこまでやる? たかが顔でしょ。」
「たかが顔、されど顔です。私は、私の顔が大嫌いだったから。」
言い切った瞬間、麗奈さんの表情がふと曇った。 彼女はカップをソーサーに戻し、小さく息を吐く。 視線を伏せ、指先でテーブルの木目をなぞる。
「…嫌い、か。」
ぽつりと、彼女が呟く。
「綺麗でも、嫌なもんは嫌なのよ。」
「え?」
「私だって、写真は嫌いだった。」
予想外の言葉に、私は瞬きを忘れた。 あんなに輝いていたのに? 世界中から愛されていたような顔をしていたのに?
「期待されるから。」
麗奈さんは、少し拗ねたような子供っぽい顔で言った。
「『可愛い麗奈ちゃん』でいることを、全員が求めてくる。変な顔なんてできないし、疲れてる顔も見せられない。いつだって完璧なアイドルでいなきゃいけない。…それって、結構しんどいのよ。」
「…贅沢な悩みですね。」
「うるさい。」
彼女がふき出し、私もつられて笑った。
空気が、緩む。 私たちは芋虫と蝶だった。 種類は違うけれど、どちらも「十年前の自分の顔」に縛られていた。不自由さという点において、私たちは共犯者だった。
「なんか、変な感じ。」
麗奈さんが頬杖をついて、私を見る。その目は、最初のような値踏みする目ではなく、対等な人間を見る目になっていた。
「十年前なら、絶対に関わってないタイプなのに。」
「そうですね。住む世界が違いましたから。」
「でも、今はこうして同じテーブルでコーヒー飲んでる。」
「不思議ですね。」
案外、気は合うのかもしれない。そう思い始めた矢先だった。
麗奈さんがスマホを取り出し、何気なく画面をスクロールさせた。 その指が止まる。 彼女の眉間に、僅かに皺が寄る。
「ねえ、知ってる? 最近このアプリで流行ってる噂。」
「噂、ですか?」
「そう。『当たり』と『ハズレ』。」
心臓がとくんと跳ねた。聞きたくなかった単語が、彼女の口から飛び出す。
「十年前が可愛くて、今も綺麗なのが『大当たり』。十年前は微妙で、今も微妙なのが『大ハズレ』。…で、」
彼女はちらりと私を見て、それから悪戯っぽく笑った。
「十年前が酷くて、今がマシなのは『努力賞』? それとも『詐欺』かな。」
「…さあ。どっちでしょうね。」
平静を装って答えたけれど、声が少し硬くなったのが自分でも分かった。
彼女は気づいているのかいないのか、スプーンで紅茶をかき混ぜながら続ける。
「逆にさ、昔は凄かったのに、今は見る影もない…っていう『残念賞』もいるらしいわよ。私たちは、どっちの枠に入ってるのかしらね。」
試されている。 あるいは、彼女自身も怯えているのかもしれない。自分が「残念賞」というラベルを貼られることを。そして、目の前の私が「努力賞」という、彼女が持っていない称号を持っていることを。
テーブルの上の空気が、再び張り詰める。 さっきまでの共感は、薄氷の上にあったのだと思い知らされる。
私たちはまだ、戦友ではない。 互いの十年を秤にかける、敵同士だ。
窓の外、空が茜色に染まり始めていた。 伸びた影がテーブルの上を這い、残りのコーヒーを黒く濁らせる。 店内の客足はまばらになり、周りの会話が遠のいた分、私たちの間の沈黙はより重く沈殿していた。
麗奈さんは、まだスマホの画面を見つめている。 指先でスワイプするたび、微かな光が彼女の整った顔に冷たい陰影を落とす。
「…やっぱり、言われてるわね。」
独り言のように、彼女が呟く。
「SNSって残酷ね。写真一枚で、その人の十年全部を『当たり』だの『ハズレ』だのって。」
「見ない方がいいですよ、そういうの。」
「気になるじゃない。自分がどう査定されてるか。」
彼女は乾いた笑い声を漏らす。その瞳は、画面の文字を追っているようで、どこか虚空を見ているようだった。
「私はきっと、『ハズレ』側ね。」
「え?」
「十年前がピークだった女。今はただの、普通のOL。」
**自嘲だった。**あるいは、私に否定してほしいという、弱々しい甘え。
けれど、その言葉は私の神経を逆撫でした。 十年前のあの地獄のような日々が「ピーク」だなんて、どうして言えるのか。過去を美化して、今を卑下する。それは、私が一番嫌悪する生き方だった。
「そんなこと、ないです。」
私はカップを強く握りしめた。
「麗奈さんは、今も綺麗です。普通なんかじゃありません。」
「お世辞はいいわよ。」
「お世辞じゃないです。それに…」
言葉が、喉から溢れそうになる。止めるべきだと理性は警告していたけれど、十年分の意地がそれを押し流した。
「十年前が一番って決めちゃうのは、もったいないと思います。」
麗奈さんの指が止まる。
「…何が言いたいの?」
「だって、私たちは生きてきたじゃないですか。十年、サボってたわけじゃない。苦しいことも、楽しいことも積み重ねて、今の顔になったんです。」
私は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「だから、十年かけて『今が一番いい』って思える人が、本当の『当たり』なんだと思います。過去の栄光なんて、関係ない。」
正論だった。自分でも、反論の余地のない、美しい正論だと思った。
けれど、それが鋭利なナイフになって相手を切り刻むことに、私は気づいていなかった。
麗奈さんの表情が、すぅっと冷えた。感情の色が抜け落ち、能面のような静けさが張りつく。
「…そう。」
低い声。
「つまり、貴女は『当たり』で、私は『ハズレ』ってことね。」
「えっ? 違います、そんなつもりじゃ…」
「同じよ。貴女は十年で上がった人。努力して、成功して、今の自分に胸を張れる人。」
彼女は冷ややかな目で私を射抜く。
「そういう『勝者』から見たら、私みたいに過去に縋ってる人間は、見下しやすいでしょうね。」
「見下してなんていません!」
「いいえ、してるわ。その『過去なんて関係ない』って顔が、何よりの証拠よ。」
カツン、と頭の中で何かが弾けた。 勝者? 私たちが? 誰のせいで、こんなに必死に自分を作り変えてきたと思っている。元から持っていた人間が、勝手に失っただけじゃないか。
「…だったら。」
声が震えた。怒りで。
「だったら、今の自分を誇れるようにすればいいじゃないですか。」
「何ですって?」
「昔モテてたとか、伝説だったとか、そんな過去の栄光をいつまでも盾にして自分を守ってるのは、正直どうかと思います。」
言ってしまった。 テーブルの上の空気が、瞬時に凍りつく。 麗奈さんの目が大きく見開かれ、そして、ゆっくりと細められた。そこにあったのは、明確な拒絶だった。
彼女は何も言い返さなかった。 ただ、深く傷ついた子供のような、諦めきった大人のような顔で、私を見ただけだった。
沈黙。 永遠にも思える数秒間。
店員の「いらっしゃいませ」という声だけが、場違いに明るく響く。
「…そろそろ、出ましょうか。」
麗奈さんが立ち上がる。その動作には、もう何の感情も乗っていなかった。
「あ、はい。」
私も慌てて荷物をまとめる。伝票を手に取ろうとしたけれど、彼女が先に掴んでレジへ向かった。 背中が、拒絶していた。
会計を済ませ、店の外に出る。 外気はすっかり冷え込み、街の灯りが滲んで見えた。
「今日は、ありがとうございました。」
麗奈さんが、事務的に頭を下げる。
「あ、いえ、こちらこそ…あの、さっきのは、」
言い訳をしようとしたけれど、彼女はもう視線を逸らしていた。
「楽しかったです。十年前の話ができて。」
嘘だ。完璧な、大人の社交辞令。
「それじゃ、気をつけて。」
踵を返し、彼女は駅の方へと歩き出す。 ヒールの音が、コツ、コツ、と一定のリズムで遠ざかっていく。
私はその場に立ち尽くしていた。握りしめたスマホが、冷たい。
せっかく、分かり合えるかもしれないと思ったのに。十年前の痛みを共有できる、唯一の相手になれるかもしれなかったのに。
私の正しさが、彼女を殴った。私の十年が、彼女の十年を否定した。
「…バカみたい。」
吐き出した白い息が、すぐに夜の闇に溶けて消えた。 結局、私たちは「十年前」という呪いから、一歩も動けていなかったのだ。
メッセージを送ってから、三日が経っていた。 既読の文字だけが、小さな棘のように画面に張り付いていた。 ブロックはされていない。けれど、沈黙は拒絶よりも雄弁に、私の失言を責め立てていた。
『先日は、言い方がきつくなってしまってすみません。 麗奈さんの十年のこと、何も知らないのに、偉そうなことを言いました。』
送信履歴を見返すたび、胃のあたりが冷たくなる。 私は、あの時の自分の顔を想像した。 「正しさ」という武器を振り回し、相手の痛いところを正確に突いた、勝ち誇った顔。 それはきっと、十年前の私が一番憎んでいた、無神経なクラスメイトたちの顔と同じだったはずだ。 芋女が美女になったつもりでいても、中身の傲慢さは変わっていなかったのかもしれない。
スマホを伏せ、ため息をついた瞬間。 ブッ、と短い振動音が響いた。 心臓が跳ねる。恐る恐る画面を覗き込む。
麗奈さんからだった。
『私もごめん。 あなたの努力を、見下したみたいなこと言った。』
指が震える。 続きの吹き出しが、ポツ、ポツと浮かび上がる。
『十年前からずっと、“今の自分は前より下だ”って決めつけてたの、多分私の方。 勝手にハズレだって思い込んで、あなたに八つ当たりしてた。』
胸のつかえが、すっと降りた。 彼女もまた、この三日間、同じ痛みを抱えていたのだ。
私は急いで文字を打った。変換ミスを直し、深呼吸をして、送信ボタンを押す。
『もし良かったら、もう一度会えませんか。 今度はただ、十年の話をしませんか。』
返信は、すぐに来た。
『いいよ。 当たりとかハズレとか、点数の付け合いっこはナシでね。』
文末についたデフォルメされた猫のスタンプが、少しだけ笑っているように見えた。
二度目の待ち合わせは、日曜の昼下がりだった。 前回と同じカフェの前。
けれど、そこに立っていた麗奈さんは、前回とは別人のように見えた。 鎧のようなトレンチコートと高いヒールは消えている。緩めのニットに、足元は歩きやすそうなローファー。 メイクも薄く、肩の力が抜けている。
おそらく、今の私も同じような顔をしているだろう。気合の入りすぎた巻き髪はやめて、普段通りのストレートで来たのだから。
「…こんにちは。」
「こんにちは、芽衣さん。」
目が合うと、少し照れくさい。けれど、あのヒリヒリとした緊張感はもうなかった。
「そのニット、似合ってますね。色が綺麗。」
「ありがとう。芽衣さんも、今日の方が自然でいいかも。」
「そうですか? 手抜きって言われないか心配で。」
「ううん。戦ってない感じがして、好きよ。」
フ、と二人で笑う。
店に入り、今度は二人とも迷わずブレンドコーヒーを頼んだ。 湯気の向こうで、麗奈さんが砂糖を一つ落とす。
「ねえ、考えたんだけど。」
スプーンでカップを回しながら、彼女が切り出した。
「当たりとかハズレって、結局誰が決めるんだろうね。」
「アプリの運営か、マッチングした相手か…あるいは、世間様ですかね。」
「そうよね。でもさ、それって全部『結果』しか見てないでしょ?」
彼女はカップの縁を見つめる。
「十年前の美少女が、十年後も美少女なら当たり。芋が美女になれば大当たり。…でも、その間の十年に何があったかなんて、誰も興味ない。」
「そうですね。」
私は頷く。
「本当の『当たり』って、結果の姿形のことじゃない気がします。」
「と言うと?」
「十年かけて、ちゃんと生きた人、というか。途中で投げ出さずに、自分なりに時間を積み重ねてきた人。そういう人が、本当は一番強いんじゃないかなって。」
麗奈さんが顔を上げた。その瞳に、静かな光が宿っている。
「…そうね。投げ出さなかった。」
「はい。麗奈さんも、私も。」
「私たち、生き延びたのね。」
「ええ。生き延び組、です。」
重要なのは、十年という長く重い時間を、私たちがそれぞれの足で歩ききったという事実だ。
生き延び組。その響きは、どんな褒め言葉よりも今の私たちにしっくりときた。美貌を失おうが、整形しようが、そんなことは些細なディテールに過ぎない。
麗奈さんが、にっと笑った。十年前のマドンナの笑顔ではなく、今の、三十代の女性としての魅力的な笑顔だった。
「悪くないわね、それ。乾杯しましょうか?」
「コーヒーですけど。」
「気分よ、気分。」
カツン、と厚手のカップを軽く合わせる。苦いコーヒーが、今日はやけに美味しく感じられた。
店を出ると、街は夕暮れに包まれていた。 ビルのガラスに、並んで歩く二人の姿が映り込む。十年前の写真とは違う。一週間前の、見栄と虚勢で固めた姿とも違う。 そこには、十年分の変化を背負い、それでも前を向いて歩く二人の「現在」があった。
「また、連絡するわ。」
「はい。また。」
駅の改札で手を振り、私たちはそれぞれの生活へと帰っていく。 背中を見送る私の心は、驚くほど軽かった。
劣化か、成熟か。当たりか、ハズレか。 その答えを決めるのは、アプリのアルゴリズムでも、他人の無責任な評価でもない。
十年前の自分を直視し、受け入れた者だけが、その答えを「正解」に変えられる。
雑踏の中に紛れていく麗奈さんの背中は、来た時よりも少しだけ、大きく見えた。
スマホのバックライトが、暗い部屋の中で唯一の光源だった。 湊(みなと)は、親指を画面の上で遊ばせたまま、もう十分近く硬直している。
画面には、一枚の写真が表示されていた。 セーラー服。肩まで伸びた髪。 カメラに向けられたその笑顔は、よく訓練されたアイドルのように完璧だが、どこか不自然に強張っていた。
十年前の自分だ。胃の底が、すうっと冷える。 吐き気がするわけではない。ただ、強烈な違和感が食道を逆流してくる。
『登録画像は十年前のものに限る』。 このアプリの鉄則が、今はただの踏み絵に見えた。
現在のプロフィール欄。性別:男性。写真:女性(に見える十年前の少女)。 この矛盾を、会う前から突きつけなければならない。
説明するべきか。『トランスです』と、最初からタグを貼って楽になるべきか。
湊は入力フォームに文字を打ち込み、そしてバックスペースで全て消した。 違う。そういう“属性”として見られたいわけじゃない。 ただ、今の俺を見てほしいだけだ。
何度目かの溜息の後、彼は当たり障りのない一文に留めた。
『十年前の写真と、今の見た目は少し違うかもしれません。 でも、どちらも自分です。』
確定ボタンを押す。送信完了。 これで、賽は投げられた。
________________
時を同じくして、別の部屋。 遥(はるか)もまた、プロフィールの自己紹介欄と睨めっこをしていた。 クローゼットには、綺麗に手入れされたウィッグと、レースがあしらわれたワンピースが眠っている。 今の自分の半身とも言えるそれらを、この狭いテキストボックスにどう押し込めばいいのか。
『女装趣味があります』。 指が止まる。 その一言を書いた瞬間、画面の向こうの相手は自分をどう分類するだろう。 変態。ネタ枠。あるいは、理解のあるフリをした好奇の目。
どれもごめんだった。 彼にとって、男でも女でもない、ただの「遥」として扱ってくれる相手はいないのか。
彼は結局、曖昧な言葉でお茶を濁すことを選んだ。
『十年前とはかなり見た目の印象が違うと思います。 いろんな自分を試してきた十年でした。』
これでいい。嘘はついていない。 本当のことは、会ってから空気を見て出せばいい。
遥はスマホを枕元に放り投げ、天井を仰いだ。
________________
通知音が鳴ったのは、それから間もなくのことだった。
『マッチングが成立しました』。
湊は、弾かれたように画面を覗き込んだ。 相手の名前は、遥。
表示された十年前の写真は、拍子抜けするほど「普通」だった。 くたびれたジャージ姿。ボサボサの髪。レンズの厚い眼鏡。 どこにでもいる、クラスの端っこで漫画を読んでいそうな男子学生。
湊の肩から力が抜ける。
(よかった、普通の人だ。)
十年前がこれなら、今も普通の男性として年を重ねているのだろう。 こちらの事情――「元・女子」であることさえクリアできれば、変に構える必要はなさそうだ。
湊は、指先の震えを抑えながらメッセージを送った。
『マッチありがとうございます。湊です。 十年前の写真、ちょっと雰囲気違ってすみません。』
送信と同時に、既読がつく。相手もまた、画面の前で待っていたのだ。
『こちらこそ、遥です。 僕も十年前と今、だいぶ違うので、お互い様かもしれませんね。』
遥の返信は、穏やかで丁寧だった。
遥の側の画面には、湊の「セーラー服の写真」が表示されているはずだ。 プロフィールは「男性」。写真は「少女」。 普通なら、「間違いですか?」や「もしかして?」と探りを入れてくるところだろう。
けれど、遥は何も聞かなかった。ただ「お互い様」とだけ返してきた。 その距離感が、湊には心地よかった。
『もし良ければ、一度お会いしませんか? メッセージだけだと、伝わらないことも多いので。』
湊が打診する。 数秒の沈黙の後、了承のスタンプが送られてきた。
『ぜひ。 場所は、駅ビルのカフェでどうでしょう。』
週末の午後。人目のある、明るい場所。 約束を取り付け、湊はクローゼットを開けた。
________________
並んでいるのは、シンプルなシャツ、ジャケット、スラックス。 十年前のセーラー服の面影など、微塵もない「男の服」だ。
(最初は、スーツで行こう。)
武装だ。今の自分が何者であるかを、そのシルエットだけで証明するために。
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一方、遥もまた、自分のクローゼットを前に腕を組んでいた。 視線の先には、お気に入りの花柄のワンピース。今の自分にとって、最もリラックスできる「戦闘服」。
(…まさかな。)
遥は苦笑し、ワンピースの隣にある地味なジャケットに手を伸ばした。 初回から全開にして、相手を引かせるのは得策ではない。 まずは「普通の男」の皮を被って、相手の許容範囲を探る。 それが、傷つかないための処世術だった。
スマホの画面がスリープし、暗転する。 黒い画面には、それぞれの「秘密」を抱えた二人の顔が、ぼんやりと映り込んでいた。
まだ、誰も本当の姿を見せていない。 十年前の写真だけが、真実のような顔をして、そこにあった。
駅ビルのコンコースは、休日の喧騒で飽和していた。 行き交う人々の靴音、店からの呼び込み、無数の話し声が混ざり合い、巨大な生き物のうねりのようなノイズを作っていた。
湊は、待ち合わせ場所の柱の前で、何度もネクタイの結び目を直した。 鏡は見ない。見れば、そこに「十年前の面影」を探してしまうからだ。
今の俺は、男だ。 短く刈り上げた髪。 喉仏を隠さない開襟シャツ。 仕立ての良いジャケットで隠した、さらしを巻いた胸板。 どこからどう見ても、ただの青年だ。
そう言い聞かせても、ポケットの中のスマホ――そこに表示されているであろう「セーラー服の少女」の残像が、背筋を冷たく撫で回す。
「あの、湊さんですか?」
声をかけられ、弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは、穏やかな目をした長身の男性だった。 チャコールグレーのカジュアルスーツ。整えられた髪。 十年前の写真――あのジャージ姿の、野暮ったい少年とは似ても似つかない、洗練された大人の男。 遥だ。
「あ、はい。湊です。…遥さん?」
「はい、はじめまして。」
遥がふわりと笑う。その笑顔に、威圧感はない。むしろ、どこか中性的な柔らかさがあった。
湊は無意識に、声を一段低く落として返す。
「はじめまして。写真とだいぶ雰囲気が違ったんで、一瞬わかりませんでした。」
「あはは、よく言われます。あんなボサボサ頭の写真は、もう僕も忘れたいくらいで。」
「いや、俺のほうこそ…」
言葉が詰まる。俺の方こそ、忘れたい。
けれど、遥の視線は湊の全身を――足先から頭のてっぺんまでを、ゆっくりと、しかし不躾にならない速度でなぞっていた。 品定めではない。確認だ。「セーラー服の少女」と「目の前の青年」の整合性を取るための、静かな作業。
遥は、小さく頷いたように見えた。
「立ち話もなんですし、入りましょうか。予約してあるので。」
「ありがとうございます。」
歩き出す。歩幅を合わせる。 男としての歩き方、男としての距離感。 湊は全身の筋肉を総動員して「普通」を演じる。
遥はそれに気づいているのかいないのか、何も言わずに自動ドアを開けて待っていてくれた。
カフェの奥まった席に通されると、喧騒が嘘のように遠のいた。 アイスコーヒーと、ホットティーを注文した。
グラスの水滴がコースターに染みていくのを眺めながら、当たり障りのない会話が転がる。 仕事のこと。休日の混み具合。ここに来るまでの電車の路線。
遥の話し方は丁寧で、聞き上手だった。こちらの言葉を遮らず、適切なタイミングで相槌を打つ。 その心地よさに、湊の肩の力が少しずつ抜けていく。
だが、確信の部分にはまだ誰も触れていない。 テーブルの真ん中に、見えない「十年前のアルバム」が置かれているような緊張感。
「…あの。」
切り出したのは、遥の方だった。 カップをソーサーに戻し、彼はまっすぐに湊を見た。その瞳には、好奇心よりももっと静かな、理解への渇望のような色が浮かんでいた。
「十年前の写真。…制服、違ってましたよね。」
来た。湊は、膝の上で拳を握りしめた。心臓が嫌な音を立てる。
数秒の葛藤の末、湊は「事実」だけを淡々と並べることを選んだ。
「…うん。あの頃は、まだああいう格好をしてました。」
声が裏返らないように、腹に力を入れる。
「周りに合わせて、ああいう服を着て、あの髪型で笑うこと。それが普通だと思ってたから。」
「そう、ですか。」
「でも、今は違います。見ての通り、男として暮らしてますし、仕事もそうです。十年前の写真と今が違うのは、そのせいです。」
言い切った。湊は遥の反応を待った。
驚きも、軽蔑も、過剰な配慮もなかった。 ただの天気の話を聞いた時のような、フラットな肯定だった。
「そうなんですね。」
それだけだった。
「…それだけ、ですか?」
思わず聞いてしまう。 遥は少し困ったように眉を下げて笑った。
「ええ。だって、今は湊さんという男性がここにいる。それが全てでしょう?」
毒気が抜かれるとは、このことだ。 湊は全身から力が抜けるのを感じた。拍子抜けするほどあっさりと、俺の「十年前の呪い」は受け流された。
「…ありがとうございます。」
「いえいえ。僕こそ、なんか偉そうにすみません。」
「いえ。…遥さんも、変わりましたよね。写真よりずっと、なんていうか、大人っぽくて。」
話題を変えるために、湊は言った。褒め言葉のつもりだった。
けれど、遥の表情に、ふと複雑な影が差した。
「十年あれば、いろいろ変わりますよ。」
遥は視線を伏せ、自分の指先を見つめた。その爪は短く切り揃えられているが、磨かれたように艶やかだった。
「僕も、この十年で…『別の自分』にハマっちゃって。」
「別の自分?」
「ええ。まあ、ちょっとした趣味みたいなものですけど。」
遥は言葉を濁した。それ以上踏み込んでほしくないという空気が、やんわりと漂う。
湊は口を閉ざした。 これ以上聞くのは野暮だろう。俺が自分の過去をすべてさらけ出したわけではないように、彼にも言いたくない「現在」があるのかもしれない。
「…そろそろ、行きましょうか。」
一時間ほどで、お開きになった。 会話は弾んだ。嫌な沈黙もなかった。
けれど、店を出て駅へ向かう道すがら、湊の胸には小さな澱のようなものが残っていた。 自分だけが、腹を見せたような気がする。
「元・女子」というカードを切った俺に対して、遥はまだ、自分のカードを裏返したままだ。 「別の自分」とは何なのか。あの整いすぎた眉や、所作の端々に感じる違和感の正体は何なのか。
「今日はありがとうございました。」
改札の前。遥が手を差し出してきた。
「こちらこそ。楽しかったです。」
握り返したその手は、男にしては柔らかく、そしてひどく冷たかった。
「また、連絡します。」
「はい。待ってます。」
嘘ではない。また会いたいとは思った。
けれど、遠ざかる遥の背中を見送りながら、湊は思わず自分の胸元を押さえた。 さらしの締め付けが、今日はやけに苦しかった。
対等だと思っていた関係が、どこか少しだけ、傾いでいる気がした。
待ち合わせ場所の公園は、夕方の冷たい風が吹き抜けていた。 ベンチに座り、湊はスニーカーのつま先をコンクリートに打ちつけている。
今日は前回より少しラフな格好を選んだ。グレーのパーカーに、カーゴパンツ。 仕事用の「戦闘服」であるスーツを脱いだのは、前回、遥が俺の「十年前」をあっさりと受け入れてくれたからだ。 そんな甘い期待を抱いていた。
「お待たせ。」
声がした。聞き覚えのある、しかし少しだけトーンの高い声。 湊は顔を上げ、そして固まった。
そこに立っていたのは、背の高い女の子だった。 柔らかそうなブラウンのボブ。淡いピンクのニットに、揺れるロングスカート。 丁寧なメイクが施された顔は、街ですれ違えば誰もが振り返るほど可愛い。
けれど、その骨格、立ち姿、そして何より、不安そうに揺れる瞳の色が、目の前の人物が誰であるかを雄弁に語っていた。
「…遥、さん?」
「うん。こっちが、僕の休日バージョン。」
遥は少しだけ首を傾げて、冗談めかして言った。けれど、その指先はスカートの生地を強く握りしめている。
湊の脳内で、情報が衝突を起こした。驚き。ああ、そうかという納得。そして、喉の奥にこみ上げてくる、砂を噛んだようなざらついた感覚。
周囲の視線が刺さる。背の高い美女と、小柄な青年。一見すれば普通のカップルだが、その実態はあまりにも歪で、複雑だ。
「…とりあえず、座りましょうか。」
「ありがとう。」
近くのオープンカフェのテラス席を選んだ。ここなら、屋内の閉塞感よりはマシだと思ったからだ。
注文を取りに来た店員は、遥を「女性」として扱い、俺を「男性」として扱った。 遥はそれに慣れた様子で微笑み、アイスティーを頼んだ。
「驚かせたよね、ごめん。」
ストローの袋を開けながら、遥が切り出した。
「でも、今日はこの姿で会いたかったんだ。」
「…どうしてですか?」
「十年前の、あのジャージ姿の僕だと思われるのが、一番嫌だったから。」
遥はウィッグの髪を耳にかけた。その仕草は、あまりにも自然で、そしてひどく「女性的」だった。
「この十年、いろんな格好を試してみたんだ。メンズ、レディース、メイク、全部。…で、この格好をしてる時が、一番自分が落ち着くって気づいた。」
落ち着く。 その言葉が、湊の神経を逆撫でした。 落ち着くから、着る。楽しいから、変わる。それは、なんて軽やかな理由だろうか。
俺は。 俺はどうだ。この身体を変えるために、声を低くするために、戸籍の性別を変えるために、どれだけの痛みを飲み込んできた。 注射の痛みも、手術の恐怖も、社会的な偏見も、すべては「男として生きる」という、ただ一つの正解にたどり着くためだった。
それなのに、目の前の彼は、その境界線を軽々と飛び越えてみせる。行ったり来たり、遊ぶように。
「…楽しそうで、いいですね。」
口をついて出たのは、棘だらけの言葉だった。自分でも驚くほど冷たい響き。
遥の手が止まる。長い睫毛の奥にある瞳が、すっと細められた。
「…楽しそうに、見える?」
「ええ。好きな服を着て、好きな自分でいられるなら、それは楽しいでしょう。」
「多分、楽しい部分はあるよ。」
遥の声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「でもね、湊さん。『男の僕』と『女装してる僕』を、勝手に別人扱いされ続けるのも、結構きついんだよ。」
「別人扱い?」
「そう。平日は男として期待されて、休日は変な趣味の人として見られる。どっちも僕なのに、誰も『まるごとの僕』を見てくれない。」
「それがどれだけ孤独か、あなたにわかる?」
孤独。 その言葉に、湊の中の何かが弾けた。 わかるものか。あんたの孤独なんて、俺の孤独に比べれば、贅沢な悩みだ。
「俺は、逆です。」
湊は、遥の目を真っ直ぐに睨み返した。
「十年前の写真の自分を、『別人じゃない』って説明するのが、俺はずっと大変でした。」
「え…?」
「『昔は女だった』。そう言った瞬間に、今の俺まで『女』として見ようとする奴らがいる。だから俺は、十年前の自分を殺すつもりで、必死に男になったんです。」
テーブルの上が、音を立てて冷えていく。遥の表情が凍りつく。
けれど、湊はもう止まれなかった。自分の中に溜まっていたどす黒い感情が、正論という皮を被って溢れ出した。
「俺にとって『性別』は、やり直しに命をかけた部分です。ファッションじゃない。趣味でもない。生きるための場所なんです。」
息を吸う。決定的な一言を、放つために。
「だから正直、遥さんが楽しそうに性別を跨いで遊んでるように見えるのが…少し、羨ましくて、腹立たしい。」
言ってしまった。その瞬間、世界の音が消えた気がした。
遥の顔から、血の気が引いていく。唇が微かに震え、何かを言おうとして、また閉じる。
長い、長い沈黙が落ちた。 風の音だけが、やけに虚しく響く。
「…そう。」
遥が、絞り出すように言った。
「そう見えてたんだね。僕のこと。」
否定はしなかった。怒りもしなかった。 ただ、深く失望したような、諦めを含んだ瞳で、俺を見ただけだった。それが何よりも、俺を打ちのめした。
自分が一番嫌ってきた種類の人間――表面だけを見て、相手の内面を勝手に断罪する人間――に、今の俺はなっていた。
「…すみません。俺、今日は。」
「ううん。いいの。」
遥が立ち上がる。その動作は、来た時よりもずっと重く、そしてどこか男らしかった。
「今日はもう、帰ろうか。」
引き止める言葉が見つからなかった。 会計を済ませ、逃げるように店を出る。
夕闇が迫る街中で、私たちは別れた。
「お疲れ様でした。」
それだけの挨拶。
遥の背中は、ロングスカートを翻して人混みの中へ消えていく。ウィッグの後ろ姿が、ひどく痛々しく目に映った。
一人残された湊は、パーカーのポケットに手を突っ込み、深くフードを被った。 自己嫌悪で、胃が焼けそうだ。俺は一体、何を守りたくて、彼を傷つけたんだ。
「…クソッ。」
吐き捨てた言葉は、誰にも届かず、アスファルトの上に落ちて消えた。 十年かけて手に入れたはずの「男としての自信」が、今夜はひどく脆く、頼りなく感じられた。
通知が来たのは、あの日から五日が過ぎた夜だった。 画面の光が、暗い天井を四角く切り取る。 湊は、ベッドに寝転がったまま、その文面を数分間見つめ続けた。
『この前は、ごめん。 自分の十年のしんどさを、人にぶつける形でしか出せなかった。』
送ってから二時間、既読がつかなかった時間は、十年よりも長く感じられた。
振動。返信が来る。
『僕も、説明不足だった。 “遊んでる”って思われても仕方ない見せ方しかしてなかった。』
短い。言い訳も、装飾もない。ただ、事実としての後悔だけがそこにあった。
湊は、こわばっていた肩の力をゆっくりと抜いた。指先が動く。
『人が少ないところで、話しませんか。』
『じゃあ、河川敷とかどう? あそこなら、どっちの格好でも、あんまり浮かないし。』
『どっちの格好でもって、便利な言い方ですね。』
『あはは。便利でしょ。』
文字だけのやり取りに、少しだけ体温が戻る。 湊はスマホを胸の上に置き、深く息を吐いた。 どっちでもいい場所。それは今の俺たちにとって、何よりも必要な聖域のように思えた。
川面を渡る風は、都心よりも幾分か冷たかった。 土手沿いの自動販売機が、低い羽音のような駆動音を立てている。 湊は、ホットコーヒーの缶を二つ買い、その温かさを掌で転がしていた。
今日の服装は、迷った末に選んだものだ。 いつものスーツではない。かといって、無理にラフさを演出したパーカーでもない。 ベージュのニットに、細身のチノパン。 男性的ではあるが、鎧のような堅苦しさはない。 「男に見られたい」という虚勢を、少しだけ緩めた格好だった。
「お待たせ。」
砂利を踏む音がして、湊は振り返った。 そこに立っていた人物を見て、湊は小さく目を見張る。 遥だ。
けれど、最初の「完璧な男性」でも、次の「華やかな女性」でもなかった。 ゆったりとしたシルエットのロングコート。パンツスタイルだが、足元は少しヒールのあるブーツ。 メイクはしているが、ウィッグではなく地毛をワックスで遊ばせている。 男とも女ともつかない。あるいは、そのどちらでもあるような姿。
「…こんばんは。」
「こんばんは、湊さん。寒いね。」
遥が白い息を吐きながら、隣に並ぶ。 湊は無言でコーヒーの缶を差し出した。
「ありがとう。助かる。」
プツ、とプルタブを開ける音が、静寂に小気味よく響く。 二人は並んで土手のコンクリートに腰を下ろした。 対岸の街明かりが、黒い川面に滲んで揺れている。
「正直に、言います。」
遠くの鉄橋を走る電車の音に紛らせるように、湊が口を開いた。
「俺は、羨ましかったんです。」
「羨ましい?」
「はい。遥さんが、軽やかに性別を跨いでいるように見えて。」
湊は缶の飲み口を見つめる。
「自分には、そんな余裕なんてありませんでした。元に戻りたくない一心で、注射を打ち、メスを入れる。ずっと『どっちかを選び続ける』ことだけで、精一杯の十年でしたから。」
重い告白だった。不思議と声は震えなかった。
隣で、遥が空を見上げている。
「僕は、逆だな。」
ぽつりと、遥がこぼす。
「僕は、どっちか一つに決めるのが怖くて、逃げてただけだよ。」
「逃げてた?」
「うん。男としての責任からも、女として生きる覚悟からも。だから、ずっと『間』をうろうろしてた。」
遥はコートのポケットに手を突っ込み、苦笑した。
「十年前の写真、見たでしょ? あの頃の僕は、自分が何者なのか、自分でもさっぱり分かってなかった。男としても女としても、中途半端な空っぽ。」
湊は、自分のスマホを思い浮かべた。 あのセーラー服の少女。今の自分とは似ても似つかない、しかし確かに存在した過去。
「俺は…あの写真を、完全に他人だと思いたかった。」
「うん。」
「でも、このアプリに登録する時、腹を括ったんです。あれも自分だって。あの『他人』がいたから、今の俺がいるんだって。」
「…そっか。」
遥が横顔を向けてくる。街灯の逆光で、その表情はよく見えない。 けれど、その声色は、初めて会った時よりもずっと近く感じられた。
「湊さんにとって、『男』って何?」
唐突な問い。湊は少し考えて、言葉を選んだ。
「…名前、ですかね。」
「名前?」
「はい。性別っていうラベルを選んだというより、『こう呼ばれた時、一番ちゃんと呼ばれた気がする名前』が、俺にとっては『男』でした。」
しっくりくる。その感覚を、遥は咀嚼するように頷いた。
「なるほどね。…僕は、呼吸かな。」
「呼吸?」
「そう。『こう見られた時、一番呼吸が楽になる姿』が、僕にとっては女装してる時だった。…それだけのことなんだよね、結局。」
ああ。湊の胸の奥で、何かがカチンと音を立てて嵌まった。 名前。呼吸。
言葉は違っても、俺たちが求めていたものは同じだったのだ。 十年という時間を費やして、俺たちはただ、自分自身が一番自然でいられる輪郭を探していただけなのだ。 それを「性転換」と呼ぶか、「女装」と呼ぶか。そんな分類は、後から誰かが勝手に貼った値札に過ぎない。
「…それ、多分すごく分かります。」
「でしょ?」
遥が、いたずらっ子のように笑った。中性的なメイクの奥にあるその笑顔は、男でも女でもなく、ただの「遥」という人間の笑顔だった。
川風が強くなり、コートの裾を揺らす。そろそろ、戻らなければ。
湊は立ち上がり、砂を払った。
「遥さん。」
「ん?」
「十年前の写真の自分を見て、それでも今の俺を『男』として見てくれるのなら。」
湊は、遥の目を真っ直ぐに見据えた。
「それは、あなたの『選び方』の問題です。俺が証明することじゃない。」
遥は少し驚いたように目を見開き、それから深く、満足そうに頷いた。
「僕も。」
遥も立ち上がる。身長差が、今は心地よい。
「僕も、十年前のあなたの写真を見て、今のあなたを『女だった頃の名残』としてじゃなく、『十年かけて辿りついた姿』として見たい。」
「…ありがとうございます。」
「じゃあ、お互い。」
遥が手を差し出す。
「『今の像』を基準にするってことで。元何とか、どっち寄りとかじゃなくてね。」
「ええ。そうしましょう。」
握手をする。その手は冷たかったが、確かな脈動があった。 ラベルの外側で、俺たちはようやく出会えた気がした。
「じゃあ、またね。」
駅への分かれ道。歩き出そうとした背中に、遥が声をかけた。
「ねえ、湊さん。」
「はい?」
「今度会うとき、ちゃんと『全開モード』でも来ていい?」
遥は、自分のスカートをちょんと摘んで見せた。
「一番、呼吸がしやすいやつで。」
湊は一瞬だけ考え、そして自然と口角が上がるのを感じた。それは、十年かけて手に入れた、俺自身の笑顔だった。
「うん。いいですよ。」
湊は頷く。
「その時、俺も、元の写真の自分の話…もう少し、ちゃんとします。」
遥が手を振り、闇の中へ歩き出していく。 湊もまた、反対方向へと足を向けた。
十年前の写真は、まだスマホの中にある。消えはしない。 けれど、それはもう「呪い」ではなく、今の自分を形作るための「最初のレンガ」に過ぎなかった。
川の流れる音が、どこまでも続いていく。 俺たちの十年は、まだ終わらない。形を変え、名前を変えながら、それでも続いていくのだ。
足取りは、来た時よりもずっと軽かった。
スマホの画面の中で、少女が完璧な角度で笑う。 文化祭の西日が、きめ細かい肌を黄金色に染めている。 大きな瞳。形の良い唇。学年の誰もが振り返り、誰もが噂した、「頂点の顔」。
沙羅は、マスクの上から自分の右頬を強く押さえた。 指先に触れるのは、皮膚の柔らかさではない。硬く、引き攣れた、ケロイドの隆起だ。
あの少女は、もう死んだ。数年前の交差点で、砕けたフロントガラスと一緒に死んだのだ。 なのに、このアプリは死体を掘り起こせと命じてくる。
『登録画像は十年前のものに限る』。
悪趣味な降霊術だ。 沙羅は吐き捨てるように、その「遺影」を選択した。これしか、ないのだから。
今のこの、マスクと前髪で世界を拒絶している女に、会いたいと言う物好きはいない。ならば、過去の栄光という餌を撒くしかない。それが詐欺だとしても。
送信。
直後に、通知が鳴る。
相手の写真は、予想を裏切るものだった。集合写真の端っこ。ピントが甘い。 制服を着崩し、猫背で、死んだ魚のような目をしている少年。 名前は、隼人(はやと)。クラスに一人はいる、やる気のない劣等生。
「…何これ。」
沙羅は眉をひそめた。十年前の私なら、視界に入れることすらなかった種類の人種だ。
なぜ彼は、こんな写真を登録したのか。私のように**「これしかなかった」のか。それとも、「これが俺だ」**という居直りなのか。
『マッチングが成立しました』。
メッセージは、事務的だった。
『はじめまして、隼人です。 写真は高校の時のです。』
『はじめまして。沙羅です。 私も、そうです。』
『もし良ければ、会いませんか。 場所は、中央市民病院の近くのカフェとか、どうでしょう。』
病院。その単語に、沙羅の指が止まる。 偶然だろうか。それとも、私の通院生活を見透かしているのか。 いや、あり得ない。今の私の顔を知る由もないのだから。
『いいですよ。 私も、そこなら行きやすいので。』
送信ボタンを押す。画面の中の「完璧な私」が、皮肉っぽく微笑んだ気がした。
土曜の午後の総合病院周辺は、独特の空気が澱んでいた。 消毒液の匂いと、見舞い客の果物の匂い。そして、病気という理不尽を抱えた人々の、静かな焦燥感。
沙羅は、カフェの前の植え込みの陰に立っていた。 十一月の風は冷たい。厚手のストールを深く巻き、前髪を目元まで下ろす。 顔の右半分――傷が走る領域――は、完全に布の下だ。
今の私は、不審者に見えるかもしれない。それでも、素顔を晒して悲鳴を上げられるよりはマシだ。
「…あの人、かな。」
視線の先に、男性がいた。白衣ではなく、ネイビーのジャケットにチノパン。
けれど、その立ち姿には見覚えのない知性が宿っている。 十年前の写真の、あの猫背の少年とは似ても似つかない、洗練された大人の男だ。
ただ、ポケットから覗くIDカードのストラップだけが、彼が医療関係者であることを無言で告げていた。
彼は、キョロキョロと周囲を見回している。探している。十年前の、「完璧な美少女」を。
その視線が、私の上を通り過ぎる。そしてまた戻り、怪訝そうに止まる。 「違いますように」と祈るような目。
分かっていたことだ。分かっていたけれど、胸の奥が鋭利な刃物で抉られる。
沙羅は、大きく息を吸い込んだ。覚悟を決めろ。失望されるために、ここに来たのだろう。
「…すみません。」
声をかける。努めて明るく、十年前の私と同じトーンで。
隼人の肩がびくりと跳ねた。彼は振り返る。 マスクとストールで武装した私を見て、一瞬、思考停止したような顔をした。
「…え?」
「隼人さん、ですよね。沙羅です。」
時が、止まる。
コンマ数秒。隼人の視線が、私の目元からマスクへ、そして隠された右頬のラインへと走る。
そして、見開かれた瞳の奥に、明らかな動揺が走った。
「あ」という形に開きかけた口が、慌てて閉じられる。 彼は、必死に表情筋を総動員した。
驚きを隠そうとする理性。 期待とのギャップに戸惑う本能。
その二つが衝突し、奇妙に引き攣った笑顔が張り付く。
「あ、はい。…沙羅、さん?」
「そうです。写真と違ってて、ごめんなさい。」
「い、いえ! 全然。その、風邪ですか?」
「いえ。…まあ、そんなところです。」
下手な嘘だ。彼も、それが嘘だと気づいている。 私の右目の下、隠しきれない傷の端が、彼には見えているはずだから。
「入りましょうか。」
「あ、はい。そうですね。」
自動ドアが開く。隼人が先に立ち、エスコートしようと手を伸ばしかけて、引っ込めた。
どう扱っていいのか分からなかったのだ。 「かつての美少女」として扱えばいいのか。「傷を負った女性」として労わればいいのか。 その迷いが、指先の震えになって表れている。
席に着くまでの数メートルが、永遠のように長く感じられた。 背中に感じる彼の視線が、痛い。
これが、十年前の私が招いた結果だ。 勝手に期待され、勝手に幻滅されること。その残酷なプロセスを、私はこれから一番特等席で味わうことになる。
運ばれてきたブレンドコーヒーの湯気が、二人の間の境界線をあいまいに揺らしていた。
隼人はカップを両手で包み込み、少し背中を丸めている。 その仕草は、十年前の写真に写っていた自信のなさそうな少年の名残を感じさせた。だが、ジャケットの胸ポケットから覗くIDカードが、現在の彼を強烈に主張していた。
『内科医 木嶋隼人』。
「…お医者さん、なんですね。」
沙羅が視線をカードに落とすと、彼は慌ててポケットにそれを押し込んだ。
「あ、すみません。ロッカーに置いてくるのを忘れてました。」
「いえ。病院の近くだから、そうかなとは思ってましたけど。」
「まだ研修が終わったばかりの、駆け出しですけどね。毎日怒られてばかりです。」
彼は照れ臭そうに頭をかく。その動作の端々に、育ちの良さとは違う、現場で揉まれてきた人間特有の落ち着きが滲んでいた。
「あの、もしかして。」
隼人が、探るような目でこちらを見た。
「高校、北高でしたよね?」
沙羅の手が止まる。
「…え?」
「十年前の写真。背景の教室、見覚えがあって。俺もそこだったんです。」
沙羅は、記憶の引き出しを乱暴に開けた。
記憶の中の教室を見渡す。中心にいた自分。それを取り巻く友人たち。 そして、視界の端、教室の隅っこにいつもいた、目立たない男子グループ。
沙羅はスマホを取り出し、もう一度、隼人の十年前の写真を見た。 ピントの甘い集合写真。死んだ魚のような目。学年最下位の成績で、進路指導室の主と呼ばれていた生徒。
「…あ。」
声が漏れた。
「一番後ろの席の、木嶋くん?」
「覚えててくれましたか。奇跡だ。」
「奇跡じゃないわよ。…先生に、よくチョーク投げられてたから。」
「あー…ありましたね。」
隼人は苦笑する。かつての「底辺」だった過去を恥じる様子もなく、懐かしむように目を細める。
「意外。」
沙羅は、ストローでアイスティーの氷を突きながら言った。
「あの木嶋くんが、お医者さんになるとは。」
「当時の先生たちも、腰抜かしてると思いますよ。『お前が医者? 地球が割れるぞ』って。」
「何があったの?」
「友達が、倒れたんです。」
隼人の声のトーンが、少しだけ変わった。
「高三の夏かな。目の前で、急に。俺、何もできなくて。ただオロオロして、救急車呼ぶ手が震えて。…それが、死ぬほど悔しかった。」
彼はコーヒーを一口飲み、苦味を噛み締めるように続けた。
「ただ、目の前の人間が死にそうな時に、突っ立ってるだけの役立たずは嫌だなって。その動機はそれだけです。」
淡々とした語り口だった。けれど、そこには十年分の重量があった。 バカと呼ばれた少年が、人の命を預かる手を持つまでに積み上げた、途方もない時間の集積。
「…すごいですね。」
「沙羅さんは?」
不意に、ボールが返ってきた。
「俺の話ばっかりしちゃいましたけど。沙羅さんは、この十年、どうしてました?」
沙羅は、マスクの縁を指でなぞった。この下にある現実を、言葉だけでどう伝えるか。
「私は…減点法でした。」
「減点?」
「見ての通りです。数年前に事故をやって、顔を少し壊しました。」
隼人の視線が、私の右頬に吸い寄せられ、そして意志の力で逸らされる。
「あ、大丈夫ですよ。気を使わないでください。『かわいそう』とか言われるのが、一番疲れるんで。」
沙羅は先回りして釘を刺す。同情という名の暴力は、もう十分に浴びてきた。
「顔が変わると、世界が変わるんです。」
乾いた声が出た。
「恋愛とか、結婚とか、そういうのが潮が引くみたいに遠ざかった。街を歩けば、前とは違う意味でジロジロ見られる。」
十年前の写真を見せれば、「もったいない」と言われる。今の顔を見せれば、憐れまれる。 どちらにせよ、私は「損なわれた品物」として扱われる。
「でも、生きてます。」
沙羅は顔を上げた。
「仕事もしてるし、ご飯も美味しい。ちゃんと生きることは、やめてません。」
それは強がりだったかもしれない。けれど、今の私が持てる精一杯のプライドだった。
隼人は、何も言わずに私を見つめていた。その目は、かつての「死んだ魚の目」ではなく、患者の患部を見極めようとする医師の目だった。
「…入れ替わったみたいですね。」
沈黙に耐えきれず、沙羅は自嘲気味に笑った。
「え?」
「十年前、私は『顔だけで価値を持ってる人』って見られて、あなたは『何もできない人』って見られてた。」
テーブルの上で、指を組む。
「今は、私の『武器』が壊れて、あなたは『人の命を救う技術』という最強の武器を手に入れた。」
プラスとマイナス。上昇と下降。私たちの十年は、綺麗なクロスを描いてすれ違ったのだ。
「神様って、帳尻を合わせるのが好きみたい。」
冗談めかして言ったつもりだった。けれど、隼人は笑わなかった。 彼はカップをソーサーにことりと置くと、真剣な眼差しで私を射抜いた。
「…そんな、簡単な話でもないんですけどね。」
「何が?」
「入れ替わりとか、帳尻とか。俺たちが過ごした十年は、そんな数式みたいに綺麗に割り切れるもんじゃないだろう。」
彼の言葉には、静かだが確かな拒絶があった。医者が患者の勝手な自己診断を否定するように、彼は私の言葉を保留したのだ。
「…そろそろ、行きましょうか。」
隼人が伝票を手に取る。
「あ、私が出します。」
「いえ、誘ったのは俺なんで。」
レジへ向かう彼の背中は、十年前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。 その頼もしさが、今の私には少しだけ眩しく、そして痛かった。 私はマスクを押し上げ、前髪を直して、その後ろ姿を追った。
病院のラウンジは、午後特有の気怠い光に満ちていた。 高い天井。磨かれた床。行き交う人々は皆、どこか音を潜めて歩いている。
沙羅は、自動販売機の横のソファに深く沈み込んでいた。 定期検診の帰りだ。マスクの下、触診された患部がまだ微かに熱を持っている気がする。
「ごめん、待たせた。」
駆け寄ってくる足音がした。顔を上げる。 そこにいたのは、白衣を着た隼人だった。前ボタンを開け、聴診器を首にかけた姿。 その白さは、この無機質な空間で絶対的な権威を持つ「側」の証だ。
周囲の視線が、彼と、そしてソファに座る私を交互に見ていた。 「先生と、患者さん」。誰の目にもそう映っているだろう。
十年前、教室の隅と中心で分断されていた世界は、今、逆の形で再現されている。
「ううん。仕事中なんでしょ。」
「ちょっと抜けてきた。…検診、どうだった?」
隼人が向かいの椅子に腰を下ろす。 その目は、私という人間ではなく、私のマスクの奥にある「損傷箇所」に向けられているように見えた。
「別に。いつも通り。」
「そうか。パッと見た感じ、発赤も引いてるし、経過は悪くなさそうだけど。」
カツン、と何かが噛み合う音がした。 発赤。経過。 それは恋人が口にする言葉ではない。友人が口にする言葉でもない。「症例」を見る観察者の言葉だ。
「…ねえ。」
沙羅の声が、予想より低く出た。
「あなた、結局『診察』しに来てるだけでしょ。」
隼人の動きが止まる。
「え?」
「十年前の写真で期待して、会ってみたらこれだった。だから今は、『かわいそうな元同級生』の経過観察をしてるだけ。」
沙羅はマスク越しに唇を噛んだ。
「優しくしてあげようって、その白衣の上から見下ろしてるだけでしょ。」
言ってしまった。 歪んでいると分かっている。けれど、その白衣が放つ「正しさ」が、私の惨めさを炙り出すスポットライトのように思えてならなかったのだ。
隼人の表情から、困惑が消え、色が失せた。
「…見下してる?」
「そうじゃなきゃ何? 医者のあなたが、今の私に構う理由なんてあるはずないじゃない。」
「俺だって、覚えてますよ。」
彼が強い口調で遮った。
「十年前、お前らが教室の真ん中で笑ってた空気。俺がバカだの底辺だの言われて、ヘラヘラ笑ってやり過ごしてた、あの惨めさ。」
彼の瞳の奥に、十年前の少年の「死んだ目」が一瞬だけよぎる。
「今、こうして白衣を着てても、ふとした瞬間に思うんです。俺はまだ、あの教室の隅っこにいるんじゃないかって。…見下すなんて余裕、あるわけないでしょう。」
「でも、結果だけ見たらそうでしょう!」
沙羅は声を荒らげた。ラウンジの数人がこちらを見る。構わなかった。
「私は『そこそこ普通の人以下』になった。あなたは『人の上に立つ側』になった。」
「だから、それが違うって言ってるんだ。」
「何が違うのよ!」
「あなたが顔を失ったのと、俺が勉強してここまで来たのは、天秤の両側じゃない!」
隼人がテーブルを叩きそうな勢いで身を乗り出した。その剣幕に、沙羅は息を呑む。
彼は肩で息をし、私を睨みつけていた。怒りではない。それは、どうしようもない苛立ちと、歯痒さだった。
「じゃあ、聞きますけど。」
隼人の声が、冷たく響く。
「もし、事故に遭わなかったら。」
「…え?」
「あのまま事故に遭わず、顔も綺麗なままで。…そうしたらあなたは、ずっと『顔だけの人』で良かったんですか。」
心臓を、鷲掴みにされた気がした。 時が止まる。ラウンジのざわめきが、遠い海の底の音のように遠のく。
顔だけの人。 十年前、私が無意識に受け入れ、そして誇っていたアイデンティティ。
若さと美貌だけでチヤホヤされ、中身なんて誰も見ていなかった日々。
事故がなければ、私はその「空っぽの王座」に座り続けていたのだろうか。
三十になっても、四十になっても、「昔は綺麗だった」という残骸にしがみついた。
「…ひどい。」
絞り出した声は、震えていた。
「それ、今の私に言う?」
「…ごめん。」
隼人が、ハッとしたように口元を覆う。
「言いすぎた。そういうつもりじゃ…」
遅い。放たれた言葉は、もう戻らない。 それは私の、一番柔らかくて、一番触れられたくない核心を貫いていた。顔を失ったことへの同情よりも、ずっと残酷な問いかけ。
沈黙が落ちる。 重く、冷たい断絶の壁が、二人の間にそびえ立つ。
隼人のPHSが、場違いに軽快な音で鳴った。
彼は救われたような、それでいて絶望的な顔で端末を見た。
「…行かなきゃ。」
「行って。」
沙羅は顔を背けた。
「仕事、なんでしょ。先生。」
隼人は何か言いかけたが、結局何も言わずに立ち上がった。 白衣の裾が翻る。足音が遠ざかっていく。その背中は、もう振り返らなかった。
広いラウンジに、一人取り残される。窓の外では、何も知らない街が動いている。
沙羅はマスクを深く引き上げ、膝の上で拳を握りしめた。
十年前と同じだ。世界の中心は、いつだって私のいない場所にあった。
ただ、あの頃と違うのは、今の私には「守るべき顔」さえ残っていないということだけだった。
通知音は、夜の静寂を切り裂くように響く。
沙羅はベッドの上で、光る画面を睨みつけた。送信者は隼人。
数秒の葛藤の末、好奇心という名の未練が勝った。
『この前は、ごめん。 仕事のモードで、話し過ぎました。 もし良かったら、話したいことがあります。』
短い。言い訳も、医者としての正論も、そこにはなかった。
沙羅は唇を噛んだ。許したわけではない。 あの時、胸に突き刺さった「顔だけで良かったのか」という棘は、まだ抜けていない。
けれど、それを引き抜けるのもまた、彼だけなのかもしれないという予感があった。
『検査のあとなら、時間あります。』
送信ボタンを押す指に、微かに力が入った。
病院の屋上は、地上よりも風が強かった。 フェンスの向こうに広がる街の灯りが、黒い海に浮かぶ発光性プランクトンのように揺らめいている。 人影はない。空調の室外機が低い唸り声を上げているだけだ。
「…寒くないですか。」
背後から声がした。
振り向くと、隼人が立っていた。白衣ではない。厚手のダウンジャケットを着て、両手をポケットに突っ込んでいる。 その姿は、数日前にラウンジで対峙した「先生」ではなく、ただの不器用な青年に見えた。
「平気。ストールあるから。」
沙羅は短く答えた。 マスクと前髪で、今日も顔の半分は隠されている。けれど、不思議と前回のような「見られることへの怯え」は薄かった。 夜の闇が、私の傷を優しく隠してくれているからかもしれない。
二人は並んでフェンスにもたれかかった。視線は合わせない。ただ、眼下に広がる街の光を共有する。
「十年前。」
隼人が、独り言のように話し始めた。
「あの日、教室の隅っこから見てました。あなたたち、いわゆる『上の人間』を。」
「…うん。」
「キラキラしてて、自信満々で、世界の全部が自分の味方だと思ってるような顔。俺は一生、そっち側には行けないと思ってました。」
彼は自嘲気味に笑い、白い息を吐いた。
「今の俺が医者になったって知ったら、あの頃の俺はなんて言うかな。『お前には似合わねえよ』って、鼻で笑うかもしれません。」
「笑わないわよ。」
沙羅は静かに言った。
「少なくとも、私は笑わなかった。」
「ありがとうございます。…でも、俺が必死に勉強したのは、復讐とか、逆転とか、そんな高尚な理由じゃないんです。」
隼人はフェンスを強く握りしめた。
「ただ、誰か一人でも。『昔バカだった人間でも、ここまで来られるんだ』って、信じられるならいいと思った。それだけなんです。」
彼の横顔を見る。街灯に照らされたその瞳には、十年前の「死んだ魚」のような色は微塵もない。 確かな意志の光が宿っている。それが、彼が十年かけて手に入れた**「顔」だ**。
「だから。」
彼は私の方を向いた。真剣な、逃げ場のない視線。
「あなたが顔を失ったから、俺が医者になれた。…そんな『入れ替わり』みたいな話にだけは、したくないんです。」
「…どうして?」
「それぞれの十年は、それぞれが勝手に選んだ方向に進んだ結果でしょう。俺たちはたまたま、今ここで交差しただけで。」
交差。その言葉が、胸の奥にストンと落ちた。 そうだ。誰も、誰かのために何かを差し出したわけではない。神様が天秤を操作したわけでもない。
「…私は。」
沙羅は、マスクの上から自分の傷に触れた。
「多分、『顔がある限り、何となく許される』世界に、慣れ過ぎてました。」
口に出すと、それは驚くほどスッキリとした響きを持っていた。
「遅刻しても、わがままを言っても、笑えば許された。その特権が、永遠に続くと思ってた。」
風が、前髪を乱暴に揺らす。
「事故のあと、何をしても『かわいそう』か『もったいない』のどっちかで見られるのが、心底、嫌でした。それなら、いっそ何もかも諦めてしまえば楽だって。」
「沙羅さん。」
「あなたに『顔だけの人でよかったのか』って聞かれた時、図星だと思いました。」
沙羅は隼人を見た。今度は、目を逸らさなかった。
「悔しいけど、その通りだったから。多分、十年前の自分を一番低く見積もっていたのは、周りじゃなくて、私自身だったんです。」
私の価値は顔だけ。そう決めつけていたのは、誰でもない私だ。
顔を失った途端に『終わった』と絶望したのは、私が私の中身を信じていなかったからだ。
「…俺も。」
隼人が空を見上げる。
「十年前の自分を一番バカだって笑ってたの、多分、俺自身です。」
風が止んだ。街の騒音が、少しだけ大きく聞こえる。 二人の間にあった見えない壁が、音もなく崩れ去っていくのを感じた。
「俺が医者になったのも、あなたが顔を失ったのも、どっちも『誰かのための代償』じゃない。」
隼人の声が、夜気に染み渡る。
「たまたま、この形になっただけです。それぞれの十年を、どう続けるかは、ここから先の問題で。」
「…ここから先。」
「はい。」
沙羅は、ゆっくりと息を吐いた。肺の中の古い空気が、すべて入れ替わるような感覚。
「じゃあ。」
問いかける声が、少し震えた。
「私がこの顔のままでも。『次の十年』を、誰かと一緒に考えていいってことですか。」
隼人が目を見開く。
そして、ふわりと笑った。それは、ラウンジで見せた医者の顔でも、写真の中の卑屈な少年の顔でもない。 ただの一人の男としての、優しい笑顔だった。
「そう言ってもらえたら、十年前の俺も、少しは救われる気がします。」
胸の奥が熱くなる。涙は出ない。ただ、長い長いトンネルを抜けて、ようやく新しい風に触れたような清々しさがあった。
「…十年前の写真。」
沙羅はスマホを取り出し、画面の中の完璧な少女を見た。
「そろそろ、『笑い話』にできる日が来るといいですね。」
「そうですね。」
隼人もまた、自分のスマホを見る。
「その時は、あの集合写真の端っこの俺も、一緒に笑ってくれる?」
沙羅は彼を見た。意地悪く、けれど心からの親愛を込めて、こう告げた。
「ちゃんと、真ん中に座ってくれるならね。」
隼人が吹き出した。
「善処する。」
二人の笑い声が、夜空に吸い込まれていく。
写真の中の位置関係。端と中心。そんなものはもう、今の二人には何の意味も持たない。
並んでフェンスにもたれかかる二人の影は、等しく長く、同じ方向に伸びていた。
失くしたものと得たものは、天秤の両端に並ぶためにあるわけじゃない。ただ、二人が生きてきた十年という地層の上に、静かに積み重なっているだけだった。 重さも、形も違うその瓦礫の上に立って、私たちはまた、明日からの景色を眺めるのだ。
出会いは、ありふれた友人のホームパーティだった。 部屋の隅で、少し退屈そうにグラスを傾けている女性がいた。
彩夏(あやか)。 派手さはないが、品の良いワンピースを着て、声をかけると柔らかく微笑んだ。
趣味の話。仕事の話。会話のテンポは驚くほど噛み合った。 僕が好きなマイナーな映画のタイトルを挙げた時、彼女は「私もそれ、一番好き」と言って目を輝かせた。
運命だと思った。三十代を過ぎて、ようやく「話さなくても通じ合える相手」に出会えたのだと。
連絡先を交換し、その日は別れた。 **しかし、**それが僕たちが共有した「生の時間」の最初で最後だったことに、その時の僕は気づいていなかった。
交際は順調だった。いや、順調すぎたと言っていい。
メッセージは毎日届いた。
『今日もお仕事お疲れ様。無理しないでね』 『寒くなってきたから、暖かくして』
文面は常に優しく、僕の体調や予定を完璧に把握していた。
けれど、違和感は砂粒のように、靴底に溜まり始めていた。
デートの場所は、決まって彼女の側から指定された。それも、直前になって「やっぱりこっちにしない?」と変更されることが多かった。 個室のある店。人目の少ないレストラン。あるいは、「体調が悪いから」という理由でのキャンセルなど。
会えない週末が続いても、僕はそれを「彼女の身体が弱いから」と善意に解釈していた。
電話は繋がらない。「通話は苦手なの」というメッセージの後に、長文の謝罪が届く。 その文章があまりに健気で、僕は疑うことさえ罪悪だと感じた。
半年が過ぎた頃、彼女の実家に招かれた。
「両親が、ぜひ志郎さんに会いたいって。」
断る理由はなかった。結婚を前提に考えていた僕にとって、それは望むところだった。
郊外の一軒家。インターホンを押すと、待っていたかのようにドアが開いた。
「ようこそ、志郎さん! お待ちしてました!」
両親の歓迎は、熱烈だった。初対面の僕の手を握り、母親は涙ぐんですらいた。
「やっと来てくれた。あの子が選んだ人が、来てくれた。」
リビングに通される。 彩夏は「少し熱があって、部屋で休んでいる」と言われた。 またか、と思ったが、顔には出さなかった。
部屋を見渡す。そこには、彩夏の写真が溢れるほど飾られていた。 ピアノの発表会。成人式の振袖。大学の卒業式。どれも笑顔で、幸せそうだった。
けれど、僕は奇妙な空白に気づいた。ここ数年の写真がない。 飾られているのは全て、学生時代の、少し幼い彼女だけだ。
「素敵な写真ですね。」
僕は紅茶に口をつけながら尋ねた。
「最近のはないんですか?」
空気が、一瞬だけ止まった気がした。
母親が笑顔のまま、少しだけ視線を泳がせた。
「…あの子、最近は写真嫌いでね。撮らせてくれないのよ。」
「そうなんですか。綺麗なのに。」
「ええ、ええ。本当に。…あの子は、いつまでも自慢の娘でしたから。」
「でした」。過去形。
父親が咳払いをして、話題を変えた。
「そういえば志郎君、仕事はシステム関係だとか。」
「はい。」
「あの子も昔、パソコンが好きでね。よく部屋にこもってたなあ。」
「お父さん、今の話をしてあげて。」
母親が遮る。
「ごめんごめん。いやあ、志郎君みたいな人が来てくれて、私たちも安心だ。」
食事の間中、違和感はずっと僕の喉に張り付いていた。 彼らが語る彩夏のエピソードは、どこか古い。 「この前行った旅行」の話が出てこない。「今の仕事」の愚痴が出てこない。 まるで、数年前で更新が止まったブログを読み上げられているような感覚だった。
「彩夏さんの様子、見てきてもいいですか?」
食後、僕は立ち上がった。両親が同時に反応した。
「い、いいのよ! 無理させちゃ悪いから!」 「そうだよ、今は寝かせてやってくれ。薬も飲んだばかりだし。」
過剰な防御。 僕は引き下がったが、トイレに行くふりをして、廊下に出た。
突き当たりにある部屋。 ドアノブに手をかけようとして、やめた。 中から、何の気配もしなかったからだ。 寝息も、衣擦れの音も、人の体温が発する空気の揺らぎさえもない。 そこにあるのは、ただの「静寂」だけだった。
帰り際、母親にお土産を持たされた。
「これ、あの子が好きだったお菓子なの。持って行って。」
「ありがとうございます。」
「あの子のこと、よろしくね。…見捨てないでやってね。」
縋りつくような目だった。娘の恋人を見る目ではない。共犯者を求める目だ。
駅への道を歩きながら、僕はスマホを取り出した。彩夏とのトーク履歴を遡る。
『この映画、面白かったね』 『あのカフェ、また行きたいな』
何百件ものやり取り。そのすべてが、完璧なタイミングと、完璧な気遣いで構成されている。
ふと、先週の会話が目に留まった。 僕が『最近、仕事で腰が痛くて』と送った時の返信。
『お父さんも昔、腰痛がひどくてね。駅前の整体がいいって言ってたよ』
今日、父親は言っていた。
「私は健康だけが取り柄でね、病院なんて行ったことがない」と。
些細な矛盾。記憶違いかもしれない。
でも、一度生まれた疑念は、黒いインクのように視界を染めていく。
僕の頭の中の整理(違和感の連鎖)
* 半年前の出会い
* 写真嫌い(ここ数年の写真がない)
* 会えない週末、繋がらない電話
* 過去形で語る両親
* 寝息のない静寂の部屋
* 父の健康体と彩夏のメッセージの矛盾
カレンダーの日付を見る。今日は十月十日。
でも、あの日、彩夏の実家の壁にかかっていたカレンダーは、めくられていなかった気がする。 いや、めくられていたとしても。 あの家の中だけ、時間の流れが違う。 まるで、娘がいた頃の時間を、家族総出で演じ続けているような。
「…まさか。」
考えすぎだ。そう自分に言い聞かせる。
でも、背筋を這い上がる冷たい予感は消えなかった。
僕は、知らなければならない。 彼女の「今」を。あるいは、彼女の「十年前」に何があったのかを。
それが、僕の人生を壊す引き金になるとも知らずに、僕は引き返せない一歩を踏み出そうとしていた。
最初は、まだ希望があった。 彩夏に直接会って、目を見て話せば、すべては僕の勘違いだと笑い飛ばしてくれるのではないか。
そんな甘い期待を抱いて、僕は彼女のスマホに電話をかけ続けた。
出ない。かけ直しても、繋がらない。 代わりに届くのは、いつも母親からのメッセージだった。
『ごめんなさい、あの子、また熱が出ちゃって』 『精神的に不安定で、今は誰とも会いたくないって言ってるの』 『あなたのことは大好きだから、待っててあげてね』
壁だと思った。優しさという名の、分厚いコンクリートの壁。 僕はその壁の前で、ただ立ち尽くすことしか許されなかった。
一年が過ぎた。 僕は区役所の窓口に立っていた。
「申し訳ありませんが。」
職員は事務的に、しかし断固として首を横に振った。
「住民票の交付は、原則として本人か同一世帯のご家族に限定されます。」
「婚約してるんです。彼女と連絡が取れなくて、安否を確認したくて。」
「お気持ちは分かりますが、戸籍上の繋がりがない方には、個人情報は開示できません。」
正論だった。僕は他人だ。どれだけ愛を囁き合っても、どれだけ将来を誓い合っても、紙切れ一枚の証明がなければ、僕は彼女の人生にとって「部外者」でしかない。 窓口の向こう側にある真実は、法という壁に守られていた。
焦燥感が、僕の足を動かした。 ネットの海を潜る。SNSの裏垢、古い掲示板、卒業アルバムの名簿。 彩夏の実家で見かけた、数少ない親戚からの年賀状。 その差出人の名前を片っ端から検索し、連絡を取った。
不審がられた。着信拒否もされた。 それでも、「彩夏さんの今の様子を知りたい」という一点張りで、僕は遠縁の親戚を探り続けた。
二年目。 ある一本の電話が、均衡を破った。相手は、彩夏の母方の叔母にあたる女性だった。
最初は言葉を濁していた彼女も、僕のあまりの必死さに、根負けしたようだった。
『あのね、志郎さん。』
受話器の向こうで、重い溜息が聞こえた。
『あなた、本当に何も知らないの?』
「何も、とは?」
『お姉ちゃん…彩夏のお母さんから、何も聞いてないの?』
「病弱で、療養中だとしか。」
沈黙。
そして、震えるような声が、決定的な一言を告げた。
『あの子は…もう、十年も前に亡くなってるの。』
時間が、凍りついた。心臓が止まった気がした。
『ちょっと、あなた? 聞いてる?』
「…え?」
『だから、あの子は高校生の時に、事故で。…ごめんなさい、これ以上は私からは言えない。忘れてちょうだい。』
プツン。通話が切れた。
電子音だけが、空っぽの部屋に響き渡る。
亡くなっている。十年前に。
僕が出会う、ずっと前に。
じゃあ、僕がこの二年間愛してきたのは誰だ? 僕が抱きしめたつもりでいたあの温もりは、誰が作った幻だ?
そこからは、事務作業だった。感情を殺し、ただ事実を確定させるための事務作業。
弁護士に相談した。「婚約破棄」と「精神的苦痛」を盾に、事実婚に準じる関係性を主張し、職権での戸籍請求を依頼した。 金はかかった。時間もかかった。
けれど、三年目の冬。 弁護士から渡された茶封筒の中に、その書類はあった。
除籍謄本。そこに記された『彩夏』の名前。そして、『死亡』の二文字。 日付は、十年前の十月。僕が出会う、七年も前の日付だった。
泣けなかった。叫ぶこともできなかった。ただ、乾いた笑いが込み上げてきた。
スマホを取り出す。トーク履歴には、昨日も『彩夏』からのメッセージが届いている。
『今日は寒かったね。風邪ひかないでね』
死人が、喋っている。死人が、僕の体調を気遣っている。 そのグロテスクな喜劇に、僕は吐き気を覚えた。
書類を鞄に入れ、僕は彩夏の実家へ向かった。インターホンを押す。
「はーい、志郎さん!」
母親が出てきた。相変わらずの、満面の笑み。
「いらっしゃい! 彩夏も待ってるわよ。今日は調子がいいみたいで…」
「もう、いいです。」
僕は鞄から茶封筒を取り出し、突き出した。
「これ以上、娘さんを生き返らせようとするのは、やめてください。」
母親の笑顔が、能面のように固まった。視線が封筒に落ち、そしてゆっくりと僕に戻る。その瞳から、光が消えた。
リビングに通された。父親も揃って座っていた。
怒号が飛ぶかと思った。否定されるかと思った。けれど、彼らの口から出たのは、もっと恐ろしいものだった。
「…あの子には、幸せになってほしかったんだ。」
父親が、独り言のように呟いた。
「あんな若さで死んで、恋愛も、結婚も知らないまま。…可哀想だろう?」
「そうよ。」
母親が身を乗り出した。その目は、狂気的なほど澄んでいた。
「だから私たちが、あの子の代わりに生きてあげたの。あの子のアカウントで、あの子の言葉で。…あなた、楽しかったでしょう? 彩夏とのメール。」
寒気がした。この人たちは、悪いことをしたなんて微塵も思っていない。本気で、これが娘のためになると信じている。
「あなたを騙したかったわけじゃないの。」
母親が涙を流した。
「あの子が生きていたら、きっとあなたみたいな素敵な人と恋をして、結婚していたはずだから。私たちは、その『あったはずの未来』を、少しだけ叶えてあげたかっただけなの。」
「…ふざけるな。」
声が震えた。
「僕の三年間は、あなたたちの『おままごと』の道具か。」
「違うわ! 愛情よ! あなたへの、そしてあの子への!」 「あの子が生きていたら、きっとあなたを選んでた!」
それが、トドメだった。
「生きていたら」。その仮定法が、僕の心を完全に殺した。
死人は僕を選ばない。死人は僕を愛さない。 僕が愛したのは、あなたたちが捏造したデータの集合体で、実在する彩夏という人間は、僕の存在すら知らないまま死んだのだ。
「…もう結構だ。」
僕は立ち上がった。怒鳴る気力すら失せていた。 この人たちに何を言っても無駄だ。言葉が通じない。見ている世界が、根本から違う。
「二度と、連絡しないでください。」
背中越しに、母親の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「待って! 彩夏を見捨てないで! あなたしかいないのよ!」
家を出ると、冷たい雨が降っていた。傘を差すのも忘れて、僕は駅へと歩いた。
悲しみはなかった。あるのは、氷のように冷たく、そして鋭利な怒りだけだった。 個人の感情ではない。 こんな悲劇を、こんな茶番を許してしまった「確認不足」というシステムへの怒り。 十年前の真実を隠したまま、人が人と繋がれるという欠陥だらけの社会への怒り。
僕はスマホを取り出し、弁護士の番号をタップした。 コール音が鳴る。
「…あ、先生ですか。」
雨水が頬を伝う。
「訴訟の準備を、お願いします。…ええ、徹底的にやる。」
人は、十年前を見なければ、今の相手すら正しく愛せない。
ならば、僕が作ろう。 二度とこんな思いをする人間が出ないように。 過去を、真実を、残酷なまでに晒け出す仕組みを。
その日、一人の青年が死に、一人の創業者が生まれた。
革張りのソファは、ひやりと冷たかった。 弁護士事務所の応接室。テーブルの上に広げられた資料は、僕が三年間かけて集めた「愛の残骸」だ。
弁護士の中年男性は、それらを事務的な手つきで分類していく。
「状況は理解しました。極めて悪質ですが…」
彼は眼鏡の位置を直しながら言った。
「論点は絞られます。具体的には、婚約破棄、重要事項の不告知、そして精神的損害に対する慰謝料請求。このあたりが現実的なラインでしょう。」
「…それだけ、ですか。」
「それだけとは?」
「僕の三年間は。彼女が生きてると信じて過ごした時間は、その『重要事項の不告知』なんて言葉一つで片付けられてしまうのですか。」
弁護士は困ったように眉を下げた。
「お気持ちは分かります。ですが、法は感情を裁けません。事実と損害を、既存の枠組みに当てはめて評価するしかありません。」
既存の枠組み。 僕の人生を根底から覆したあの狂気じみた家族劇も、ここではただの「民事トラブル」というラベルを貼られて処理される。
僕は拳を握りしめ、ゆっくりと頷いた。
「…分かりました。それで、お願いします。」
提訴したからといって、すぐに決着がつくわけではなかった。 書類の送達、答弁書の提出、期日の調整。
日本の司法は、慎重すぎるほど遅い。
第一回の口頭弁論が開かれたのは、訴状を出してから半年が過ぎた頃だった。
半年。恋人なら出会ってから付き合うまでの期間。 僕にとっては、ただ宙ぶらりんのまま、空回りの怒りを抱え続けるだけの真空の時間。
仕事には行った。飯も食った。 けれど、頭の片隅には常に「未処理の過去」が居座り、何を見ても彩の影がちらついた。
裁判は泥沼だった。
月一回のペースで開かれる法廷は、互いの主張を朗読するだけの無機質な儀式だ。 相手側の弁護士は、予想通りの、いや予想以上にふざけた論理を展開してきた。
『被告ら(両親)は、娘の早すぎた死を受け入れられず、精神的に混乱状態にあった』 『原告(僕)を騙す意図はなく、あくまで娘の生きた証を残したいという愛情に基づく行為であった』 『原告もまた、彩夏さんとの交流によって精神的な充足を得ていたはずである』
充足。死人とのメールで得た安心感を、彼らはそう呼ぶのか。 僕は傍聴席で、吐き気をこらえるのに必死だった。
証言台に立った母親は、ここでも泣いた。「あの子のために」「愛していたから」。
その涙が、裁判官の心証を少しずつ「情状酌量」へと傾けていくのが分かった。 善意という名の暴力は、法廷という場においてすら、ある種の免罪符として機能してしまうのだ。
二年が過ぎた。
ある日、スマホのニュースアプリを開いた僕は、指を止めた。 週刊誌のゴシップ記事の見出し。
『婚約者は別人!? 整形美女のなりすまし婚約破棄騒動』 『写真と違う! 騙された男の悲劇』
名前こそ伏せられていたが、状況は間違いなく僕たちの裁判のことだった。
だが、内容は滅茶苦茶だった。「十年前の写真詐欺」「整形によるなりすまし」。 世間は、この事件をただの「見た目の詐欺」として消費していた。
コメント欄には無責任な言葉が並ぶ。
『男もバカだな、気づけよ』 『顔で選ぶからこうなる』
「…違う。」
僕は誰もいない部屋で呟いた。 誰も、本質を見ていない。 顔が違うとか、整形だとか、そんなチャチな話じゃない。
人間そのものが、時間ごと消えていた。死んでいたんだ。
でも、そんな重すぎる事実は、ゴシップとしては面白くないのだろう。 世間は、分かりやすい「悪女」と「マヌケな男」の構図を求めている。
僕はスマホを伏せた。理解されないという孤独が、怒りよりも深く僕を蝕んでいた。
判決の日。法廷の空気は、いつもより少しだけ張り詰めていた。
主文の朗読。
『被告らは連帯して、原告に対し金○○万円を支払え』
勝訴だ。当然だ。これだけの証拠がある。 判決文には、被告らの行為が不法行為にあたると明記されていた。
けれど、それに続いたのは、予想していた通りの「配慮」だった。
『被告らの動機には、亡き娘への愛情といえる側面も否定できず、悪質性は限定的であると…』
金額は、請求の半分にも満たなかった。
僕の奪われた三年間。信じていた未来。 それら全てが、中古車一台分程度の金額に換算され、精算された。
閉廷を告げる木槌の音が、乾いた音を立てる。
終わった。書類上は、これで全て解決だ。 僕の手元には、判決文という紙切れと、空っぽになった心だけが残った。
廊下に出ると、被告側の家族が立っていた。 弁護士に促され、父親が僕の方を向く。三年で、随分と老け込んでいた。
「…申し訳、ありませんでした。」
深々と頭を下げる。母親もそれに続く。
けれど、頭を上げたその目には、まだあの狂った光が微かに残っていた。
「でも、信じて。私たちは本当に、あの子とあなたの幸せを…」
「もう、いいです。」
僕は手を挙げて遮った。これ以上、彼らの物語を聞きたくなかった。
彼らにとって、これは「悲劇の愛の物語」のままなのだ。 裁判で負けようが、金を払おうが、彼らの内なる正義は揺らいでいない。
「お金は、払ってください。それで終わりです。」
僕は彼らの目を見ずに言った。
「もうお互い、十年前の話をこれ以上増やすのはやめましょう。…彩夏さんのためにも。」
「彩夏」という名前を出した瞬間、母親がまた泣き崩れそうになるのを、僕は背を向けることで拒絶した。
裁判所を出ると、外は夜だった。冷たい風が、火照った頬を冷やす。 ビルの明かりが滲んで見える。
僕は一人で歩き出した。勝ったはずなのに、足取りは鉛のように重い。
十年前。
もし、出会ったあの日に、彼女の「十年前」を知ることができていたら。
もし、写真一枚だけでなく、その裏にある時間ごと提示される仕組みがあったら。
僕は、彼女がもうこの世にいないことを知った上で、それでも彼女の家族と関わる道を選んだだろうか。
あるいは、静かに手を合わせて、通り過ぎただろうか。
どちらにせよ、今のような「壊れ方」はしなかったはずだ。
「…間違っていたのだ。」
僕は信号待ちの交差点で、夜空を見上げた。 彼らが悪かったのか。僕が愚かだったのか。 いや、それだけじゃない。
十年前の真実を知らないまま、上辺だけの情報でマッチングし、関係を築けてしまう。 この社会の『当たり前』が、僕たちを間違った方向へ走らせたのだ。
過去を隠せること。 時間を誤魔化せること。 それが「マナー」や「プライバシー」として守られている限り、第二、第三の僕が生まれる。
「なら。」
信号が青に変わる。
僕は歩き出した。
今度は、迷いのない足取りで。
「作ればいい。」
復讐じゃない。
断罪でもない。
ただ、二度とこんな悲劇が起きないための、防波堤を。
人は十年で変わる。
あるいは、十年で消える。
その残酷なまでの「時間の真実」を、最初からテーブルの上に叩きつける場所を。
僕の十年は、奪われた。
ならば、残りの人生のすべてを使って、その「奪われた時間」への回答を作る。
それが、僕が彩夏という幻に捧げられる、唯一の手向けだ。
夜の街のノイズが、今は新しいシステムの駆動音のように聞こえ始めていた。
裁判が終わってからも、僕の時間は止まったままだった。 深夜の自室。モニターの明かりだけが、散らかった机を照らしている。
画面には、彩夏との数千通のメールログ。そして、裁判資料の無機質な文字列。 片方は、十年前で永遠に停止した時間。もう片方は、残酷なほど正確に刻まれた、僕が浪費した三年の記録。
『あの子が生きていたら』。裁判中に何度も聞かされた言葉が、呪いのようにリフレインする。
「…隠すからだ。」
乾いた唇から、言葉がこぼれ落ちた。 誰かが十年前の真実を隠したせいで、僕の十年は全部、間違った前提の上に積み上げられた。 土台の腐った家に、必死でレンガを積むような滑稽な日々。それが、僕の三十代だった。
ブラウザを開く。世の中に溢れるマッチングアプリの広告が、目に飛び込んでくる。
『今のあなたを、最高の写真で』 『年収、職業、今のステータスで検索』
どれも、「今」だ。今、盛れているか。今、条件が良いか。 そんな薄っぺらい断面図だけで、人と人が繋がろうとしている。
「違う。」
僕は首を横に振った。今の一枚だけ見ても、その人の本質なんて分からない。
十年前から逃げている人間ほど、「今だけ」を必死に飾る。 あの家族のように。過去の不都合を隠蔽し、綺麗な「今」だけを捏造して、他人を招き入れる。 それは、やがて必ず破綻する嘘だ。
僕は引き出しからホワイトボードマーカーを取り出した。 部屋の壁に掛けたボードに、殴り書きする。
『十年前マッチング』理念(創業者・志郎の固定要件)
* 『十年前の写真を、必ず使う』
* 『今の姿だけで判断させない』
* 『変化ごと受け止められる関係だけが、残るように』
復讐ではない。これは、安全装置だ。 僕のような人間を二度と生まないための、残酷で、そして何よりも誠実なフィルター。
劣化か、成熟か。変化か、維持か。
その答え合わせを最初に済ませた者同士でなければ、本当の意味で「時間を重ねる」ことなんてできないのだから。
開発は、憑かれたように進んだ。 余計な機能はいらない。必要なのは、十年前と今を並べる、ただそれだけのシンプルなフレーム。
年齢や年収の欄は小さく追いやった。代わりに、「この十年で何をしてきたか」を書く自由記述欄を、画面の半分以上に広げた。
サービス名は『十年前マッチング』。 そのまんまの名前だと笑う人間もいた。過去に縛られるなんて後ろ向きだと批判する声もあった。
構わなかった。この痛みを理解できる人間だけが、使ってくれればいい。
ローンチから数年。会員数は、予想を超えて伸びていた。 管理画面には、日々、膨大な数の「成立」通知が流れていく。
僕は深夜のオフィスで、コーヒーを片手にそのログを眺めていた。
画面の端で、一つのペアが成立する。
十年前は地味だった女性と、十年前は華やかだった女性。『外見の変化』を超えて、二人が対等な「生存者」として手を結ぶ。
また一つ、通知が光る。
性別の欄で迷っていた形跡のある男性と、女装の趣味を持つ男性。彼らは『性別ラベル』の外側で、互いの「呼吸しやすい像」を見つけ出す。
そして、もう一組。
事故で顔を失った女性と、落ちこぼれから這い上がった医師。『失ったもの』と『得たもの』を交換条件にせず、ただ並んで歩くことを選ぶ。
名前も顔も知らない。けれど、モニターの向こうで、無数の人生が交錯し、衝突し、そして結ばれていく。
この中には、僕のように「十年前の嘘」に殺される人間はいない。 少なくとも、「十年前を隠したまま進む」ことだけは、この仕組みが止めてくれている。
「…ふう。」
大きく息を吐き、僕は背伸びをした。 窓の外には、眠らない東京の夜景が広がっている。 僕の隣には、誰もいない。彩夏のいない世界で、僕は一人で歳を取り、一人でこのシステムを守っている。
僕の十年は、愛する人と結ばれるためには使われなかった。
けれど。
「…それでも。」
僕はモニターを指先で軽く叩き、スリープモードにした。 暗転した画面に、少し疲れた、しかし穏やかな中年男の顔が映る。
「みんなが幸せになってくれて、本当に良かったな。」
それは負け惜しみではなく、偽善でもなく。底の底から湧き上がってきた、僕の正直な本音だった。
僕の痛みは、無駄じゃなかった。 この数千、数万のマッチングの礎になれたのなら、あの日々流した涙も、少しは報われるというものだ。
僕はジャケットを羽織り、オフィスを出た。 夜風が冷たい。けれど、その冷たさはもう、孤独を煽るものではなく、火照った頭を冷やすための心地よい温度だった。
街を行き交う人々。 その誰もが、十年前の姿をどこかに隠し持っている。痛々しい過去。輝かしかった過去。消し去りたい過去。
十年前の写真は、若さや美しさの証拠ではない。 誰も誤魔化せない、「生きてきた時間」の痕跡だ。
その痕跡を見せ合う勇気のある人だけが、この街で誰かと十年を重ねていくことができるのだ。
僕はポケットに手を突っ込み、歩き出した。
僕自身の『次の十年』を探すために。
十年前マッチングアプリ 伊阪 証 @isakaakasimk14
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