第2話 煙の冗談
翌日。ゆうきはコールセンターの席で、知らない誰かの苛立ちを受話器越しに受け止めていた。謝って、説明して、また謝る。自分の声が擦り減っていく感覚だけが、やけにリアルだった。
この職場は女の割合が高い。人妻だったり子持ちの主婦だったり、年齢もいろいろで、休憩室の話題はだいたい家のことか、健康のことか、誰かの噂話。たまに若い子もいるが、静かで、必要以上に近づかない。ゆうきも同じタイプだ。だから、年上のほうがむしろ楽だった。向こうが勝手に話しかけてきて、勝手に笑って、勝手に話を終わらせてくれる。
休憩に入ると、身体が勝手に喫煙所へ向かった。扉を開けると、煙の匂いと、くぐもった笑い声。壁際にタカギがいた。四十過ぎくらい。短く切った髪と、目だけが妙に若い。
「ゆうきくん、こっち。今日も顔死んでるよ」
「死んでないっす」
「死んでるって。ほら、煙吸って生き返りな」
からかわれても嫌じゃない。こういう雑な優しさは、ゆうきにはちょうどいい距離だった。
タカギが火をつけ、ゆっくり息を吐いた。その横顔を見ながら、ゆうきも煙草に火をつける。最初の一吸いで、頭の中のノイズが少しだけ薄まる。
「ねえ、ゆうきくん。人妻に興味ない?? 笑」
冗談みたいな声。なのに、ゆうきの背中が一瞬硬くなる。喫煙所には他にも人がいる。距離も近い。聞こえてるかもしれない。
「……いや、さすがに」
苦笑いで流す。これが一番安全だ。性欲が強い自覚はある。もし本気で紹介されるなら、試してみたい気持ちもある。でも、その言葉を口にした瞬間、冗談は本気の入口になる。入口に立ったまま戻れなくなる気がした。
タカギは「なーんだ」と笑って、煙を吐いた。
「ゆうきくん、そういうとこ真面目だよね。可愛いって言われるでしょ」
「言われないっす」
「言われるって。自覚ないだけ」
周りの女たちがくすっと笑う。軽い笑い。軽いはずなのに、ゆうきには落ち着かない。自分が笑いの中心にいるとき、いつもどこかで身構えてしまう。
タカギは急に声を落とした。
「で、ほんとはどうなの。興味、ゼロ?」
ゆうきは答えを探して、視線を灰皿に落とした。ゼロじゃない。でも、あるとも言えない。
「……ないっす。たぶん」
「“たぶん”ってなに。臆病だねえ」
図星で、心臓が一回跳ねた。臆病。言われ慣れてるはずなのに、刺さる。刺さるのは、当たってるからだ。
「臆病で悪いっすか」
「悪くないよ。むしろ長生きするタイプ」
タカギは笑わずに言った。笑わないのが逆に怖い。ゆうきは煙を吸い込んで、吐く。肺の奥が少し痛い。
「でもさ。臆病な男って、夜に急に壊れたりするじゃん。変な勇気出してさ」
「……壊れません」
「壊れるって。自分で分かんないうちに」
タカギは煙草を揉み消し、ゆうきの顔を覗き込むように見た。視線が近い。距離を詰めてくるのに、触れてこない。そこがいやらしい。
「ね、ゆうきくん。ほんとに困ったら言いな。紹介じゃなくてもさ。誰かと飲むとか、話すとか。そっちのほうが先」
その言い方が、からかいと同じ声なのに、妙に真面目だった。ゆうきは返事をする代わりに、曖昧に頷いた。
休憩終了のチャイムが鳴る。喫煙所の空気が一気に現実に戻る。タカギは扉に手をかけて、最後にだけ軽く言った。
「ほら、戻るよ。今日もちゃんと生きて。夜に死なないでね」
冗談の形をした忠告。ゆうきは笑えないまま、煙草を揉み消した。手を洗って、鏡を見る。顔は中くらい。たしかに、少し死んでいる。
席に戻る途中、スマホが震えた。通知は広告。なのに、ゆうきは画面を見続けた。何かが来るのを待っているみたいに。
——何事もなかった。そう言い切れない自分だけが、今日も机に座る。
(つづく)
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危険な遊び ゆうき @yuki-yuki-yuk
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