輪郭

双樹

第1話 眠れない夜

2011年、秋。


その夜は、深く静まり返っているのに、どうしても眠りにつくことができなかった。

ふいに、彼の面影が脳裏をよぎった。すらりと伸びた手足、はにかんだような笑顔。記憶の中の彼は、光そのものだった。


沙羅は32歳。3歳になる娘がいる。

安定した結婚生活を送り、育児を理由に責任の軽い仕事を選ぶが、日頃から自分を抑え込んでいる。そして、ふとした瞬間に人生の空白が口を開けることがあった。

この日は夫と軽い諍いがあった。

単なる気の迷い、好奇心、あるいは日常への退屈。

なんとでも言える。でもあの時、沙羅は導かれるように彼の名前を検索窓に打ち込んでいた。まるで沙羅の深い場所にある何かが、彼を呼んでいるかのように。


あっけなくヒットしたブログ。

そこにいたのは、ステージで歌い、ストイックに筋トレに励む男の人だった。沙羅にとってはゆかりのない遠くの街に住んでいるらしい。そして、記事の端々に綴られていたのは、身体に古い事故の後遺症が残り、動かしづらい箇所があるという事実だった。

強い違和感と、背徳感のような胸騒ぎを覚えた。

同姓同名の別人だろうか。でも年齢は同じだ。別人であって欲しいと願う気持ちと、真実を知りたい衝動。

辿り着いたプロフィールの誕生日は、沙羅の知っている彼のものと完全に一致していた。


どういうことだろう。沙羅の記憶の中の彼は、スポーツ万能で美しい歌声を持つ少年。都会の片隅でその存在は光を放っていた。彼が事故に遭った時期は、沙羅が結婚した時期と奇妙に重なっていた。


結局、その夜は一睡もできなかった。

未明、震える指で「覚えてますか?」とメッセージを送った。


通勤の地下鉄の中で、彼からの返信が届いた。

「沙羅さん、覚えてますよ」

その文字を見た瞬間、涙が止まらなくなった。

地下鉄の無機質なざわめき、冷たい吊り革。自分の周りだけが違う時間軸に切り離されたようだった。


生きていてくれたんだ。

いや、生き延びていてくれたんだ。

すぐに私が会いに行かなきゃ。


地下鉄が一瞬地上に出て、眩しい朝の光が目に飛び込んできたとき、それは使命にも似た、抗えない衝動となっていた。21年経ってもなお、傷ついた彼を、この安定した、光を持つ私が救い出せるという、揺るぎない確信があった。


礼儀正しい彼からの文面を何度も目で追う。その静かな筆致は、ブログで見せる「強さ」とはまるで別人みたいだと感じた。

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