蛍
「カルーアミルクは度数が高いから、飲みすぎないようにね」
先輩はベッドの縁に腰掛けて、私の頭を撫でながら言った。
お前が飲ませたんだろう。口まで出かかった言葉を飲み込んで、「ありがとう。気をつけるね」と笑顔で答える。どうせこれから消えるのだ。
先輩の顔を見つめていると、徐々に姿がぼやけてきた。先輩と、先輩の背後にあるヨーロピアン調の壁紙が混ざり合う。
壁に備え付けの電灯が薄暗い明滅を繰り返し、ついに途切れた時、既に先輩はそこにいなかった。
私はベッドから体を起こし、さっきまで先輩がいたところに手をかざす。
私の手は空を掴むばかりで、先輩の温もりや、ざらざらした肌、ぷにぷにとした肉に触れることはない。
先輩の声だけが、私の頭の中でぐるぐると回っている。鼓膜を通してとっくに電気信号に変換されたはずなのに。今でもこの部屋のどこかで乱反射しているのだろうか。
単に二日酔いのせいかもしれない。先輩が勧めてきたカルーアミルクを、私はなんの警戒心も無しに飲み続けた。三杯目あたりから周りの景色が歪みだし、五杯目には前後不覚に陥っていた気がする。結局、何杯飲んだのかも覚えていない。
その後で先輩にこのホテルまで連行された。それが、私の記憶している最後の出来事だった。
私はベッドから這い出て、おぼつかない足取りで窓まで行くと、カーテンを思い切り開け放った。途端に太陽の光が私を貫き、部屋中を明るく照らした。
私が寝ていたベッドや、テーブルに散らかったペットボトルやビニール袋などが、叩き起こされたかのように、急に存在を取り戻した。しかし、先輩のいた空間だけは、相変わらず透明だった。
バスルームに向かう。昨夜の汚れが体にまとわりついている。さっさと熱湯で洗い流さないと。
曇ったドアを開けると、冷たい湿気がバスルームにこびりついていた。電気も心なしか青白く感じる。昨日、先輩が使ってそのまま放置されていたらしい。
シャワーの蛇口を捻るとぬるま湯が出てきた。この温度じゃ物足りない。もっと、火傷するような熱を。先輩の記憶すら消してしまうほどの熱湯を求めていた。
先輩。新人の私が配属された課にいた、いかにも遊んでいそうな人間。
案の定、優しいふりをして私に近づいてきた。顔も目も笑っているのに、視線だけは私の体を舐めまわしている。いったいどんな手を使ったのか、気の弱い私のメンターをどこかに飛ばして、ちゃっかり自分がその椅子に収まっていた。
先輩はこういう人間にありがちな、遊んでいそうなくせをして、普段は仕事ができ、気配りが上手で、他の社員からも一目置かれる存在だった。どうやらメンター飛ばしも、体調を慮って交代という面倒ごとを引き受けてた、という体になっているらしい。むしろ私の方が先輩に迷惑をかけているなんて噂もあるぐらいだ。
先輩は仕事だけでなく、昼も夜も私を連れまわそうとした。断るのにもいい加減飽きてきた頃、ちょうど大きな仕事がひと段落したことで、いつものように打ち上げに誘われた。
魔が差したらしい。そして今、私はこうしてシャワーを浴びている。
シャワーを浴び終えて部屋に戻る。先輩の姿は無い。
先輩?
先輩の顔がぼやけている。どんな性格だっただろうか。名前は? 服装は?
そうだ、服を着ないといけない。私はこんなところで何をしているんだろう。
見ればソファーに化粧品類やらアクセサリーやらが散乱している。私はそれらを無造作にバッグに押し込んだ。
こんないかがわしい場所からはすぐに出ないといけない。また酔って適当なホテルに入ったらしい。社会人になったのだから、この癖はそろそろ直さなければいけない。
頭の中に「先輩」という単語が明滅している。淡い色の光を放ち、ゆっくりと大きく、そして小さくなる。まるで蛍のようだ。
ふと、小学生の頃の思い出が頭をよぎった。夏のある夜、両親と近くの川瀬に蛍を見に行ったこと。光が線を描き、あるところですっと消える。草葉の影や橋桁の裏には、不規則ながら柔らかなリズムを刻む、淡い光が溢れていた。
友達、店長、後輩、先生、彼氏、君。
私の頭の片隅や、耳の裏、瞼の上にも、いくつもの単語が朧げな光でもって、私を照らしてくれるのだ。
ほわほわ、ほわほわ。
私の前には、また新しい光が揺れている。
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