命の雪、本懐の匂い

命の雪、本懐の匂い

「いよいよ、この時が来たか」


 大石内蔵助は、低く、しかし確かな声で呟いた。その声は、降り積もる雪の吸音効果で、深く、耳の奥に沈んでいく。


 元禄十五年十二月十四日。深夜。江戸の空は、厚い雲に覆われて星一つ見えず、代わりに、すべてを覆い隠すような静かな雪が降り続いていた。白く、冷たく、そして恐ろしいほどに無垢な雪。


 内蔵助は、足元を確かめるように雪を踏んだ。キュッ、キュッという雪を踏みしめる音だけが、この世界の時間の進行を告げているようだ。肌を刺すような寒さの底で、彼の心臓だけが、熱い鉄塊のように脈打っていた。恐怖ではない、研ぎ澄まされた集中力と、積み重ねてきた執念の重みだ。


 彼を取り囲む四十七人の同志たちもまた、無言で呼吸を整えている。全員が黒装束。雪に紛れ、闇に溶け込もうとしている。


 すぐ傍にいた吉田忠左衛門が、震える声を抑えながら囁いた。


「殿、ご覚悟のほどは。この雪が、我らの血を凍らせぬよう祈るばかりでございます」


 内蔵助は、忠左衛門の肩にそっと手を置いた。その手は、凍える外界とは対照的に、妙に熱を持っていた。


「心配するな、忠左衛門。我らの血は、熱い。一年九ヶ月もの間、煮えたぎる思いを抱いてきた。凍るわけがないだろう」


 彼は一度、天を仰いだ。冷たい雪の粒が、彼の目尻を濡らす。これは雪か、それとも――。


「さあ、皆の者。忘れてはならぬ。これは、私怨ではない。亡き主君、浅野内匠頭殿の無念を晴らし、武士の義を立てる戦だ。我らが討ち入るのは、吉良上野介ただ一人。無関係の者には、決して手出し無用!」


 内蔵助の低い声が、静かな夜の空気を通して、彼らの耳に深く響き渡る。その一言一言に込められた重みが、彼らの迷いを断ち切る鋭い刃となった。


🚨 闇夜を裂く太鼓

 本所松坂町。吉良邸の前。


 一団は二手に分かれていた。大石内蔵助率いる表門隊と、大石主税(ちから)率いる裏門隊。


 内蔵助は、深呼吸をした。鼻腔いっぱいに吸い込んだ冷たい空気は、肺の奥を冷やし、頭を冴えさせる。彼の指先が、提灯の炎を合図に、静かに動いた。


「兼ねての通り、合図を」


 組頭の一人、小野寺十内の孫、幸右衛門が、深く頷いた。


 次の瞬間、ドーン!


 低く、地を這うような太鼓の音が、真夜中の静寂を打ち破った。


 そして、それに呼応するかのように、もう一つの太鼓の音、ドーン!


 表門と裏門から同時に鳴らされた太鼓は、彼らの行動開始を告げる、魂の叫びだった。


「突入!」


 内蔵助の号令と共に、彼らは動き出した。


 表門隊は、雪で滑りやすい石段を駆け上がり、門前に備えられた番所の扉に、巨大な破城槌(はじょうつい)を打ち付ける。


「そーれ! やぁっ!」


 木と木がぶつかる、激しい、そして重々しい音。扉が破られ、雪と闇の中に、邸内の木材の匂いと、寝静まった人々の吐く息の匂いが混ざり合った。


 裏門でも、主税が若さあふれる声で叫ぶ。


「父上を信じろ! 我らも負けられぬぞ!」


 彼の隊は、錠前を打ち破り、一気に邸内へと雪崩れ込んだ。


🏚️ 邸内の混沌と炎

 邸内は一瞬で混沌に包まれた。


 「何事だ!」「曲者じゃ!」


 寝静まっていた吉良家の侍たちが、慌てふためきながら刀を手に取る。


 槍を構えた原惣右衛門が、廊下を走る侍に鋭い一撃を見舞った。


「怯むな! 我らは義のために来た! 道を空けろ!」


 彼の声は、怒りではなく、義務感に満ちていた。


 あちこちから、キンッ、キンッと、刀と刀がぶつかり合う、甲高い金属音が響き渡る。その音は、まるで凍った空気を切り裂くガラスの破片のようだ。


 内蔵助は、冷静に指示を飛ばす。


「大石頼母(たのも)、裏手を固めよ! 堀部安兵衛、火付けを食い止めろ!」


 堀部安兵衛は、血に濡れた刀を雪に突き立て、荒々しい息を吐いた。彼の顔には、興奮と、長年の鬱憤が晴れるような高揚感が入り混じっている。


「吉良の家臣ども、よく聞け! これは殿様の仇討ちだ! 道を譲らば、命は助ける! さもなくば、全員、三途の川へ道連れじゃ!」


 その時、誰かが吉良の寝所から逃げ出そうとするのを見た。


「逃がすな!」


 近松勘六が、猛然と追走する。雪でぬかるむ庭に足を取られそうになりながら、彼は相手の背中めがけて、渾身の力を込めて刀を振り下ろした。


「ぐあぁっ!」


 短い悲鳴。血が雪の上にジュッと音を立てて滲む。


 勘六は、その血の匂いを強く感じた。鉄のような、生臭い匂い。その匂いが、彼を正気に引き戻す。これが、彼らが求めた「義」の代償だ。


🍵 決着の匂い

 討ち入り開始から一時間ほどが経った。


 敵の抵抗は激しかったが、訓練され、目的意識の高い浪士たちの勢いの前には、吉良家の家臣たちも次々と倒れていく。


 戦いは、やがて静寂を取り戻し始めた。


 内蔵助は、吉良邸の奥へと進む。彼の足元には、雪と血が混ざり合い、鈍い赤茶色に染まった道ができていた。


「見つからぬな。上野介は、どこだ!」


 彼は焦燥感を覚えた。もし、この雪の中、吉良が屋敷を脱出していたとしたら。すべての努力、すべての犠牲が水泡に帰す。その感情は、彼を突き動かす。


「絶対に逃がさんぞ! くまなく探せ! この屋敷の隅々まで!」


 その時、内蔵助の隊に加わっていた間十次郎と、奥田孫太夫が、台所裏の炭小屋の前で立ち止まった。


 炭小屋は、雪に埋もれ、ほとんど物置小屋のようだった。


「ここだ。間違いねえ。妙に、空気が重い」と、十次郎が囁く。


 そして、十次郎は、小屋の扉に手をかけた。中から、焦げ付いたような、そして老人特有の体臭のような、微かな匂いが漏れてくるのを感じた。


 十次郎は、扉を蹴破った。


「そこにいるのは誰だ!」


 小屋の奥の暗闇から、うめき声がした。


「う、うぐ……」


 孫太夫が提灯をかざす。光が照らした先には、白い寝衣を纏い、震えている老人の姿があった。顔は雪のように蒼白で、歯がガチガチと鳴っている。


「お、おのれらは……」


「大石殿! ここに!」


 十次郎の叫びを聞き、内蔵助が駆けつけた。提灯の光が、老人の顔をはっきりと照らし出す。額には、数年前に内匠頭がつけた刀傷が、まだ薄く残っていた。


「上野介殿……お久しゅうございます」


 内蔵助は、その場に平伏した。深々と頭を下げる。


「赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助でございます。殿のお言葉の通り、尋常に、お覚悟を願います」


 吉良は、震えながら言葉を絞り出した。


「お、お主ら、討ち入りと申すか……武士の、武士の道に外れた……」


 内蔵助は、静かに顔を上げた。その目は、冷たい雪の光を宿していた。


「外れた、と仰せですか。我らが殿は、主君のために命をかけた。それを『無礼』の一言で片付けたのは、殿でございます。我らは、主君の無念を晴らすため、武士の義を通すために、ここに参った。それが、我らの、武士の道でございます」


 彼の言葉には、一点の曇りもなかった。長年の苦渋、嘲笑、そして耐え忍んだすべてが、この一言に集約されていた。


「これを見られよ」


 内蔵助は、懐から内匠頭の**裃(かみしも)**を取り出した。血が乾いて濃い茶色に変色した、あの日のままの衣。


「殿の遺品にございます。上野介殿。この血の重みを、今こそ感じていただきたい」


 吉良は、その裃から目を背けた。


「やめろ、やめろ……儂は、何も……」


「もはや、問答は無用。お一人で、ご自害を。武士として、それが最後の『義』」


 内蔵助は、短刀を床に置いた。切腹のための短刀。


 しかし、吉良は、その短刀に触れることはなかった。恐怖に怯え、ただ声を押し殺して震えるばかりだった。


🌅 本懐

 内蔵助は、静かに立ち上がった。


「残念ながら……武士としての最後の機会も、お捨てになりましたか」


 その声には、怒りよりも、深い悲しみが滲んでいた。


 彼は、短刀を拾い上げた。その柄は、冷たいが、彼の手に吸い付くようだ。


「さらばにございます、上野介殿。我らは、これで、主君の御霊に、面目を施せます」


 内蔵助は、一瞬の躊躇もなく、その短刀を吉良の首元に突き立てた。


ブシュッと、肉を貫く鈍い音。そして、熱い血が内蔵助の手に飛び散った。鉄のような、この上なく生々しい匂いが、狭い炭小屋に充満する。


 吉良の体から力が抜け、ドサリと床に崩れ落ちた。


「討ち取ったぞ!」


 十次郎の叫びが、屋敷の隅々まで響き渡った。


 その声は、屋敷の残党たちを制圧していた他の浪士たちにも伝わった。


「やった!」「やったぞ、仇討ちだ!」


 歓声が、深夜の雪に包まれた空へと吸い込まれていく。彼らの顔は、血と汗と涙でぐしゃぐしゃになりながらも、本懐を遂げた喜びで、誇らしげに輝いていた。


 内蔵助は、吉良の首を静かに切り落とし、それを丁寧に水で清めた。そして、その首を提灯の光に照らし出し、家臣たちに見せた。


「皆の者! 吉良上野介、討ち取ったり!」


 雪は、まだ降り続いていた。しかし、その雪は、もはや恐怖や寒さを運ぶものではない。それは、彼らの血と汗と、そして義の心を清める、聖なる雪のように感じられた。


「さあ、皆。この首を携え、泉岳寺へ。殿の墓前にて、事の顛末を報告するぞ!」


 彼らは、雪の中を静かに、しかし確かな足取りで歩き出した。疲労の極致にあったが、誰もが清々しい感情に満たされていた。彼らの行く道は、すでに夜明けが近づき、闇の中にかすかな光が差し込み始めていた。


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