12月14日 二重廻
二重廻
「十二月ってさ、音が違うよね」
マフラーを口元まで引き上げた彼女が言った。吐く息が白くほどけ、すぐに消える。冬の濤が堤防の向こうで低く鳴っている。波は荒れていないのに、腹の底を叩くような音だけが残る。
「音?」
「ほら、靴の下」
彼女が足を止める。刈田に残った土が凍り、靴底がきし、と短く鳴った。乾いた音。枯野を渡る風が、草の名残を撫でていく。
「春はさ、踏んでも許されてる感じがするでしょ」
「……言ってること、よくわかんない」
そう返すと、彼女は笑った。笑い声は水鳥の羽音みたいに軽く、すぐ空に溶けた。
海沿いの道を歩く。日向ぼこができるほどの陽だまりはないけれど、雲の切れ目から落ちる光が、枯園の柵を一瞬だけ金色にする。誰もいない。冬青草が思い出したように緑を残しているのが、かえって目についた。
「ねえ」
「なに」
「今年、戻ってこないと思ってた」
彼女は前を見たまま言った。声が少しだけ低い。
「戻らない理由、あった?」
「ある人にはあるでしょ」
言葉がそこで止まる。代わりに、遠くでかいつぶりが水面に潜る音がした。ぽちゃん、じゃない。吸い込まれるみたいな、小さな音。
「雪、降るかな」
「雪起しは来てるって、ラジオで言ってた」
「来るって言い方、変だよね。起こされるの、誰なんだろ」
海鼠が並ぶ港の小屋の前を通る。箱の中で、海鼠腸の匂いがかすかに漂う。塩と鉄と、冬の湿り気。鼻の奥がつんとする。
「昔さ、これ苦手だった」
「今もでしょ」
「今は……嫌いじゃない」
彼女は手袋を外し、指先で箱の縁をなぞった。冷たい。すぐに手袋を戻す。
「無理しなくていい」
「無理じゃない。確かめてるだけ」
確かめる、という言葉が胸に引っかかる。彼女はよく、そう言う。自分の気持ちを、物みたいに扱う。
小さな神社の前で足を止める。雪はまだない。けれど、空は重い。冬紅葉が数枚、枝に残っている。赤は鈍く、深い。
「かもしか、見たことある?」
「山で一回だけ」
「逃げないんだってね」
「逃げないんじゃなくて、動かないらしい」
「それ、どっちも同じじゃない?」
彼女が振り返る。目が合う。言い返せない。
「……動かないって、怖くない?」
「怖いよ。でも、動いたら壊れることもある」
彼女はそう言って、息を吸う。冷たい空気が、喉を通るのがわかる。
再び歩き出す。港の端、ベンチが一つ。座ると、木が冷たい。マフラーを巻き直す。彼女は膝の上で手を組み、指先をこすり合わせている。
「ねえ」
「うん」
「ここ、二重に廻ってる気がしない?」
「なにが」
「時間。前に来たときと、今日が」
波の音が一つ、大きくなる。冬の濤が、堤防にぶつかって砕ける。
「前は、何も言えなかった」
「今は?」
「今も、全部は言えない」
沈黙。水鳥が空を横切る影。日向ぼこになりそこねた光が、彼女の頬をかすめる。
「でも」
彼女が続ける。
「戻ってきた」
それだけ。理由は言わない。言わなくても、胸の奥がじんとする。冷えた指先が、少しずつ温まっていく感覚。
遠くで雪起しの雷が、腹の底で鳴った気がした。まだ雪は降らない。けれど、十二月は確実に廻っている。私たちの周りを、二重に。
立ち上がる。歩き出す。刈田を抜け、枯野を渡る。音は相変わらず乾いている。でも、さっきより嫌じゃない。
「ね」
「なに」
「また来よう」
「いつ」
「雪のあと」
彼女はそう言って笑った。
その笑い声は、今度は消えずに、冬の空気の中に残った。
二重廻る 過去と今の音 聞き分けて
冬の濤間に 戻りし君と
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