第5話 本当の願い

冬香はベンチに深く座り直し、空を見上げた。


「私こそ、おねーさんが羨ましいよ。何不自由ない生活。まともな両親。いつも食べられる美味しいご飯。キラキラした青春時代。私には何もなかった。ただ、私の体目当ての男ばっかり。私の価値は、そのとき手に持ってる金か、男の欲望を満たす体だけ」


金色の髪が、月明かりの下でわずかに揺れる。


「おねーさんは考えたことがある?明日のご飯の心配。今日の寝るとこがどこだかわからない生活。おもちゃみたいに扱われて、いつ捨てられるかわからない今日とか」


夏美は何も言えなかった。


「だから、私は日本に帰ってきたんだ」


ゴクリ。夏美は喉を鳴らして息を飲んだ。


「刺激もスリルもいらない。退屈でもいい。なにも起こらなくていい。普通の生活、夢にまで見た普通の家庭。そんな普通の家族に囲まれて、一人の人間として過ごしたい」


冬香は空を見上げながら手を上げた。まるで天の星を掴む様に。


「おねーさん、普通ってさ、簡単には手に入らないんだよ?かけがいのない宝物さ」


それは、夏美が今、手放しかけている「普通」という名の宝物だった。


夏美は、冬香の言葉の重さを理解した。自分にとっての「退屈」は、冬香にとっての「憧憬」であり、「平和」なのだと。


「きっと、できるよ。冬香さんなら」


夏美は初めて心からの笑顔で冬香を励ました。


冬香は少し寂しそうに笑って、立ち上がった。


「ありがと。おねーさんはさ、今の生活を大事にね。普通って、かけがえのないものだよ。それは、世界中を回って、一番わかったこと」


夏美と冬香は、黙って二人で公園の街灯を眺めていた。相変わらずジジジっと不快な音を立てている。


「じゃ、そろそろ行くね。おねーさんもそろそろ帰んな?」


そう言って、冬香は夜の闇の中に消えていった。


結局自分の名前を言えなかった。どこに住んでいるのかも聞かなかった。もう会うこともないだろう。


夏美は一人、飲みかけのビールの缶を握りしめた。


ぽつり、と夏美の涙が缶に落ちた。


それは、刺激的な人生への憧れを捨てた涙だったのかもしれない。

日常という名の宝物を再発見した涙だったのかもしれない。


夏美は静かに溢れてくる涙を拭いもせず、ただ公園のベンチに座っていた。


<つづく>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る