第7話 二刀流アメーバ
駅のホームの時計が、七時十五分を指している。
一月下旬の朝の空気は、冷凍庫の製氷皿の底みたいに冷たくて硬い。
A高校の推薦入試日。
推薦入試当日は、私たち一般入試組は休みなのだが、
「電車に乗るところまで付いてきて」という、小学生みたいなカナのリクエストに渋々応え、今私はここにいる。
カナは、指定のコートの襟を立てて、私の隣でスマホの画面を凝視していた。
「ねえ、人体模型ってさ、いくらくらいすると思う?」
「はあ?」
少なくとも、これから面接を受けに行く受験生が訊くことではない。
「知らないよ。スマホで調べなよ。なんで今その話?」
「いや、イメージトレーニング。筋肉の付き方とか、骨格の構造とか」
カナは画面をスクロールしながら、ふむふむと頷いている。
「面接で『趣味は人体模型の鑑賞です』とか言わないでね。サイコパスだと思われるから」
「医学的探究心と言ってよ」
ことの発端は、冬休み明けだ。
A高校のパンフレットに写真付きで載ってた「卒業生の声」。
カナがようやく真面目にA高のパンフレットを見ているかと思ったら、そこにある女子の卒業生の経歴から、とんでもない情報を発見したのだ。
『東北大学医学部医学科進学(陸上競技部・インターハイ出場)』
その一行を見つけた瞬間、カナの瞳孔が開いたのが分かった。
走る才能と、治す頭脳。
まさに二刀流だ。
天は二物を与えずと言うが、世の中にはその不文律を平気で破る「特異点」みたいな人間が存在するらしい。
そして目の前にいるこのアメーバも、その特異点を目指そうとしている。
「私さ、決めたんだよね」
カナはスマホをポケットに突っ込んで、遠くの線路を見つめた。
「お医者さんになって、人間の限界値を突破する医療技術を身に付ける」
「それ、改造人間じゃないの?仮面ライダーじゃん」
「いいの。要は、カナちゃんは『走れるお医者さん』になるってこと」
彼女の語彙力は相変わらず偏差値五十前後だが、その意志の強度はダイヤモンド並みだ。
A高校に行って、陸上を続けながら、医学部を目指す。
そんなことを、「来週の日曜、イオン行って、映画見てくる」くらいのテンションで言ってのける。
でも、カナなら十分あり得てしまいそうなのが怖い。
電車がホームに滑り込んでくる。
いよいよだ。
私は、手に持っていたお守りをカナに押し付けた。
昨日、神社の階段で息切れしながら買ってきたやつだ。
「これ、貸しとく。合格したら返して」
「え、くれるんじゃないの?」
「貸すの。私のH高の入試の時にも使うんだから。ご利益をチャージして戻して」
「りょーかい。満タンにして返す」
カナはニカっと笑って、お守りをブレザーのポケットに入れた。
プシュー、という音と共にドアが開く。
通勤客に混じって、カナが乗り込む。
その背中は、いつもの猫背じゃなかった。
スタートラインに立つスプリンターのように、芯が通っている。
閉まるドアの向こうで、カナがニヤニヤしながら口パクで何か言う。
私は必死にカナの口元を観察する。
何だ?・・・
ぱ?・・・く・・・ちー?
『パクチー』かよ。
私は笑いながらカナに向かってブーイングのジェスチャーをする。
まあ、あの様子なら、緊張して失敗することはなさそうだ。
カナを乗せた車両が、私の視界から消えていく。
レールが軋む音が、遠ざかっていく。
私は一人、改札の前に残された。
カナを見送りながら、私は強く思った。
私は何が何でも、学校の教師になってやる。
言葉にしなくても、それが二人の約束。
私は、トラクターだ。
デコボコの地面を均し、石を取り除き、そこに種を蒔く。
学校という名の畑で。
いつか、私のクラスから「第二のカナ」みたいな生徒が出てくるかもしれない。
あるいは、走るのが苦手で、勉強も嫌いで、教室の隅で膝を抱えているような子がいるかもしれない。
そんな子たちに、咲き誇れるように声をかけ続ける。
それが私の戦い方だ。
医師がメスで命を救うなら、教師は言葉で人生を耕す。
どちらが上とか下とか、そういう話じゃない。
ただ、役割が違うだけだ。
「……よし」
私は冷え切った両手をパンと叩いた。
乾いた音が、駅の構内に響く。
私は踵を返した。
H高校の入試まであと一カ月。
私の耕作作業は、そこから始まる。
時計を見ると七時四十五分。
さて、帰ってゆっくり朝ご飯を食べよう。
サラダも付けて。
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