鋼(はがね)の空と、琥珀の残像

比絽斗

第1話 プロローグ:重たい静寂と、茶髪の侵入者


東京近郊、築三十年を超える木造アパート。 夕刻、貴一が重い鉄の扉を開けると、そこには「生活の匂い」がなかった。


 父・喜一郎は精密機器の保守点検を請け負う技術職だ。一度トラブルが起きれば数日は帰ってこない。シンクに置かれた、いつのものか分からないコーヒーカップの底で乾いた茶色の輪。それと、換気扇から漏れる湿った埃とオイルの匂いだけが、この家に自分以外の人間が生きている微かな証拠だった。


 貴一は、感情の波を立てないことに慣れていた。 波を立てれば、沈んだ澱(おり)が舞い上がる。それは、十年前に不倫の末に出ていった母の記憶だ。


「瑞希」

その名前は、貴一にとって呪いだった。母の名であり、そして今、目の前で自分の机に勝手に腰掛けている少女の名前でもあった。


「あ、ハセ。おかえり。遅かったじゃん、補習?」


大野瑞希。 クラスでも目立つ派手なグループに属し、茶髪をゆるく巻き、制服の着こなしも奔放な彼女が、このカビ臭い部屋に現れたのは初夏の昼下がりのことだった。


放課後の教室で忘れ物を取りに戻った貴一を、彼女は呼び止めた。

「ねぇ、ハセ。あんたの家、この近くっしょ? ちょっと雨宿りさせてよ」

断る言葉を探す前に、彼女の独特な甘い香水と、強引な腕の力が貴一の逃げ道を塞いだ。


連れてきたアパート。瑞希は狭い玄関を見るなり、

「うわ、技術職の家って感じ。機械っぽい匂いする」と笑った。

父の設計図や工具が並ぶリビングを、彼女は物珍しそうに眺める。 その日を境に、

彼女は「ハセの家、落ち着くんだよね」と、当たり前のように入り浸るようになった。


「……勝手にしろよ。何もないぞ」

そう吐き捨てた貴一の視線の先には、テレビの横に飾られた一枚の写真があった。 母の顔だけが鋭利な刃物で切り抜かれた、歪な家族写真。 それを見つけた瞬間、瑞希の大きな瞳が、一瞬だけガラス玉のように鋭く光ったのを、貴一は見逃さなかった。


 日常の浸食と、コンビニの貢ぎ物

瑞希は週に数回、学校での喧騒を脱ぎ捨てるようにして貴一の部屋へやってくる。 彼女が持ってくるのは、いつも自分の家では口にしないようなものばかりだった。


「はい、ハセの分。これ、新作のアイス。一個四百円もすんだよ、ヤバくない?」 瑞希は貴一の学習机に、コンビニの高級アイスやサラダチキンを並べる。


「……お前、金使いすぎだ。自分の家で食えよ」 「うちは、ほら。今、絶賛修羅場中だからさ」 瑞希はスプーンをくわえたまま、軽快なトーンで言った。その明るすぎる茶髪の裏側に、何か重たいものを隠しているのは明白だったが、貴一はそれを暴く気力もなかった。


「ハセさ、もっと肉つけなよ。172もあるんだから、もったいないじゃん」 「……放っておけ。うちはこれで回ってるんだ」


ある夜、父・喜一郎が珍しく早く帰宅した。 玄関で瑞希と鉢合わせた父は、一瞬、石像のように固まった。 亡霊のように追いかけ続けている「瑞希」という名の響き。それが、息子の部屋から女子高生の姿を借りて現れたことに、父の顔は苦虫を噛み潰したように歪んだ。


「……父さん、クラスメイトの大野だ。雨宿りしてるだけだ」 貴一の言い訳に、父は何も言わず、ただ重い鞄を置いて奥の部屋へ消えた。 その夜、父がボソリと呟いた言葉を、貴一は今も反芻している。


「……あの子は、あいつとは違うな」


その「違い」が何なのか、当時の貴一には分からなかった。


第2章:壊れたスピーカーと、技術者の指先

ある土曜日。湿気を含んだ風が部屋に入り込む中、瑞希は壊れたポータブルスピーカーを持って現れた。 「これさ、お気に入りなんだけど音が出なくなっちゃって。ハセなら直せる?」


「親父ならな。……だが、今寝てる。貸せよ、俺がやる」 貴一は父の背中を見て盗んできた手つきで、精密ドライバーを握った。 瑞希は、貴一の隣で息を潜めていた。 プラスチックの筐体を開け、断線した配線を見つけ出す。ハンダごての熱が、部屋の湿気をチリチリと焼く。


「ハセ……すごい。そういうの、技術者の手って感じがする」 不意に言われた言葉に、貴一の指先がわずかに震えた。 「……ただの修理だ。職人ぶるほどのことじゃない」


通電を確認し、スピーカーから音楽が流れた瞬間。 「やったぁ!」 瑞希が、弾かれたように貴一の腕に抱きついた。 168cmの彼女の体温が、ダイレクトに貴一の体に伝わる。 学校での派手な香水の匂いではない、瑞希自身の生身の、石鹸のような清潔な香りが鼻をくすぐった。


「あ、……ごめん」

慌てて離れる瑞希。茶髪の間から覗く耳たぶが、夕焼けよりも赤くなっているのを、貴一は黙って見つめていた。


 雨の放課後と、決意の拒絶

数日後。 雨が地面を叩きつける放課後、貴一は昇降口の裏で、瑞希が他クラスの男子数人に絡まれているのを見かけた。


「大野、お前最近あの根暗なハセガワとつるんでるだろ? あんなオイル臭い奴のどこがいいんだよ。もっとマシな遊び場あんだろ」


 瑞希の声は、いつもの甘い響きを失っていた。 「ハセのこと悪く言うなら、あんたたちとはもう喋らない。あいつは、あんたたちみたいに他人の時間を奪ったりしない。ずっと、真っ当に生きてるよ」


物陰でそれを聞いていた貴一は、胸の奥が焼けるような熱さを感じた。 自分を縛っていた「瑞希」という名の呪縛。 不実な母の代名詞だったその音が、目の前の少女の毅然とした声によって、少しずつ別の意味に書き換えられていく。


その日の夜、アパートにやってきた彼女は、少しだけ疲れた顔をしていた。 貴一は、夕飯の買い出しに誘った。

「……大野。スーパー、行くか」


まだ、名前では呼べない。 だが、初めて自分から彼女を外の世界へ連れ出そうとした。


  金銭感覚のズレと、隠された母性

夕暮れのスーパー、交わらない価値観

「え、ハセ。本気でこれ買うの?」 スーパーの精肉売り場。瑞希が指差したのは、三割引のシールが貼られた豚こま肉のパックだった。


「……悪いか。これで十分だ」

「ダメだって! 今日はハセが私を誘ってくれた記念日じゃん。ここは奮発してステーキっしょ」


瑞希は迷わず、三千円もする和牛のパックをカゴに放り込んだ。

  貴一は一瞬で血の気が引くのを感じ、即座にそれを棚に戻した。


「ふざけるな。三千円あれば、うちは三日食いつなげる。お前の『普通』をここに持ち込むな」 「……三日って。そんなの、ハセが勝手に我慢してるだけじゃん。たまには自分を甘やかさないと、心までガリガリになっちゃうよ?」


瑞希は冗談めかして言ったが、貴一の瞳には拒絶の色が濃く浮かんでいた。


「……お前には、分からないよ」

貴一の声が、低く震える。

「明日、電気が止まるかもしれない。来月の学費が払えないかもしれない。そんな不安の中で、肉の味なんて分かるわけがないだろう」


 瑞希の動きが止まった。 スーパーの明るすぎるLED照明の下で、彼女の入念に手入れされた茶髪と、高いブランドのバッグが、この生活感溢れる空間で異様に浮いて見えた。


「……分かってるよ」

瑞希の声が、急に小さくなった。

「うちだって、お金はあるけど……『心』は止まってるもん。パパは愛人のところに帰ってこないし、ママはそれを見ないふりしてブランド品を買い漁って、夜中に泣いてる。物が溢れてれば幸せだって、ハセは本気で思ってるの?」


 貴一は、手に持っていた安い豚肉のパックを、指が白くなるほど強く握りしめた。


二人の間にあるのは、単なる金銭感覚のズレではない。

「形はあるが中身がない家」と、

「形すら崩れかけているが必死に保とうとする家」。 鏡合わせのような孤独が、スーパーの通路で音もなくぶつかり合った。


「……悪かった。言い過ぎた」

先に折れたのは貴一だった。

「……いいよ。でも、今日はこれにしよう」


瑞希が差し出したのは、先ほどの和牛でも、安いこま切れでもない。 厚切りの、けれど手の届く価格のトンテキ用の豚肉だった。


「これなら、ハセも許せるでしょ?」


瑞希はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。 その笑顔は、母の面影を完全に追い出し、一人の「大野瑞希」という少女を、貴一の心に深く


 スーパーのレジを終え、袋を提げて歩く道すがら。 瑞希は貴一のカゴに勝手に入れた

「ハーゲンダッツ」を、歩きながら贅沢に開けた。


「……お前、行儀悪いぞ。それに、さっきの肉といい、金使いが荒すぎる」

  貴一が苦々しく言うと、瑞希はスプーンをくわえたまま、不思議そうに首を傾げた。


「え、でもこれくらい普通じゃん。ハセってさ、たまに『明日死ぬ老人』みたいな節約の仕方するよね。もっと今を楽しめばいいのに」

「……楽しむ余裕なんてないんだよ。うちは、親父がいつ仕事で壊れるか分からないし、俺だってバイトを増やさないと……」


「あーもう、暗い暗い! はい、一口」

瑞希が強引にスプーンを貴一の口元に持ってくる。甘いバニラの香りが、排気ガスの匂いが混じる夕暮れの道に不釣り合いに漂った。

「……いらないって」

「いいから! 拒絶ばっかしてると、誰も助けてくれなくなるよ?」


 瑞希の言葉は、時折、貴一の急所を的確に突いてくる。 彼女がなぜ、家賃の安そうな築古アパートに住む自分に執着するのか。

自分を「ハセ」と呼び、懐に飛び込んでくるのか。


 その夜、

アパートで夕食の準備をしている最中、瑞希が貴一の使い古された「裁縫セット」を見つけた。

「うわ、これ小学校の時のやつ? 物持ちよすぎ。……あ、ここ、ボタン取れかかってる」

 瑞希は、貴一が着ていたパーカーのほつれを指差した。

「あとでやる」

「いいよ、私がやる。こう見えて、手芸部だったし」

「……嘘つけ。お前が?」


 意外な言葉に手を止めると、瑞希は茶髪を耳にかけて、慣れた手つきで針に糸を通した。

さっきまで

「和牛を買おう」とはしゃいでいたギャルとは思えない、静かな横顔。


その時、

 貴一は気づく。 彼女がコンビニで買ってくる「高いもの」は、贅沢をしたいからではなく、

「誰かに何かを与えたい、世話を焼きたい」という、彼女なりの歪な愛情表現だったのではないか。


「……瑞希」


不意に口をついて出た名前に、彼女の指先が止まった。 けれど、貴一はまだ、その名前を母のものと切り離せていないことに気づき、言葉を飲み込む。


「……なんでもない。大野、針に気をつけてな」 「……ハセ、今。名前で、呼ぼうとした?」


瑞希が顔を上げ、期待と不安が混じった目で貴一を見る。 この時の沈黙が、今の二人には必要な「距離」だった。




  Maybe it will continue?


▶▶▶▶▶▶▶▶

【作風:方向性思案中】


詠み専からの執筆の若輩者です。

これまで作品の拝読と我流イラスト生成がメインでした。

御意見:感想がの御指摘が閃きやヒントに繋がります。


  宜しくお願いします。 

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