疑問を抱く、その瞬間までは
人は、自分が「誰なのか」を疑わずに生きている。
それが当たり前である限り、
世界は、何事もなく続いていく。
――疑問を抱く、その瞬間までは。
▼ △ ▼
君は、
正しい場所に立っている――。
エデン社の応接室に、沈黙が落ちた。
口を開きかけたレオンに、ルーチェスは言った。
「今はわからなくても。いずれわかるよ」
それ以上、何も続かなかった。
意味を問い返すことも、
理由を確かめることもできないまま、
レオンは、応接室を出ることになった。
◆ ◆ ◆
その夜、
自室に戻り、
ジャケットを脱ぎ、
レオンは端末を机に置いた。
いつもと同じ動作。
特別なことは、何もない。
画面に手を伸ばした、そのとき、
ふと、指が止まった。
エデン社の社内ポータルのログイン画面。
見慣れた配色。
見慣れた配置。
それなのに、
一瞬だけ、
考えた。
――これを、俺はいつから使っていた?
理由はない。
問いを立てるほどの疑問でもない。
ただ、
その考えが、
不自然なく浮かんだことが、
少しだけ引っかかった。
レオンは、
軽く首を振った。
考えすぎだ。
そう思いながら、
画面を操作する。
確認するつもりはなかった。
探すつもりもなかった。
ただ――
あるはずのものが、
そこにあるかどうか
それを見ただけだ。
社員記録。
所属履歴。
異動ログ。
表示される項目は、
どれも整っている。
整いすぎている、と感じたのは、
そのあとだった。
入社以前の記録が一切、ない。
空白というより、
個人に関する経歴そのものが、存在しない。
推薦人欄に、
一つだけ名前があった。
――ルーチェス。
一瞬、
思考が止まる。
どういう……ことだ。
探す範囲を広げる。
グループ企業。
提携病院。
身元不明者。
意識障害の症例。
似た記録は、いくつもあった。
一致しそうな年齢。
重なる時期。
それでも――
「レオン」という人物だけが、
どこにもいない。
探せば探すほど、
最初から“自分”が存在していなかったような感覚だけが、
静かに積み重なっていく。
存在しているはずだ。
そうでなければ、おかしい。
確かに、
入社以前の記憶はない。
だが――
それは、
記憶が少し曖昧なだけなのかもしれない。
なのに、
どこにも痕跡がない。
呼吸が、短くなる。
心臓の音が、やけに大きい。
いつから、この違和感に
気づいてしまったのか。
思い当たるのは、
パンドラに指摘された、あの時だ。
瞳の奥にある番号。
虹彩に刻まれた、
あの№に疑問を持った瞬間。
あれを
「おかしい」と思った時点で――
自分には、
入社以前の記憶がないという事実も、
同じ場所に並んでしまった。
ずっと、知ってはいた。
だが、
疑ったことはなかった。
番号を疑ったことで、
初めて、
「疑わずにきた」という自分の状態に
気づいてしまったのだ。
胸の奥が、
じわりと冷えた。
そのとき、
隣室から
かすかに物音がした。
メイの足音だ。
たぶん、キッチンだろう。
それだけで、
世界は何事もなかったかのように、
現実を続けていると分かる。
レオンは、
その音に背を向けるようにして、
画面から視線を外した。
ただ――
自分だけが、
ここにいない気がした。
ルーチェスに、
直接、聞いてみようか。
……いや。
それは、だめだ。
今は、まだ。
「正しい場所にいる」
ルーチェスの言葉が、
今になって、
意味を持ちそうで、
持たないまま、胸に沈む。
理解が追いつかない。
それなのに、
どこかで、
納得してしまいそうになる自分が――
いちばん、怖かった。
レオンは、
無意識に両腕を掴んでいた。
◆
自室のキッチンから、メイが顔を出した。
リビングのソファでテレビを観ている
ぴよ丸に向かって、声をかける。
「ねえ。キッチンに、残りの味噌おでんの鍋、置いてあるんだけど」
ぴよ丸は、ちらりとこちらを見た。
「つまみ食いして、お鍋の中に落ちないでね」
「……メイよ。一国の主に向かって、つまみ食いなどと」
ぴよ丸はやれやれと言わんばかりに溜息をつく。
「神仏に誓って、そのような下品な真似はせん」
「……ふーん。の、割にはよく落ちてるけど」
「まあ、いいわ」
それ以上追及もせず、キッチンの奥へ引っ込む。
そのとき、テレビ画面が切り替わった。
――ジャジャーン。
時代劇『天下御免!大暴れ将軍』のタイトルが映し出される。
「おお…」
ぴよ丸の目が、嬉々として輝いた。
思わず、音量を上げようとして、
テレビのリモコンへ手を伸ばす。
そこにあったのは――
すらりとした、若い男の手だった。
「……?」
ぴたり、と動きが止まる。
ぴよ丸は瞬きをし、
もう一度、手元を見た。
だが、そこにはもう、
ふわふわとした、
小さな綿でできた羽根しかない。
「……気のせいか?」
首をかしげた、その瞬間。
――ジャジャーン。
再び、派手な音とともに、
本編が始まった。
ぴよ丸は、思わずそちらに意識を引き戻される。
こうして、違和感は、
意識の外へ押し出された。
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