箱庭の実験場

俺を捕まえたら、

この世界の秘密を教えてやる――。

それは、

単純なゲームのはずだった。


現実から切り離された地下駐車場。

そこでメイとレオンは、

命を賭けた鬼ごっこに引きずり込まれる。


人の命を奪うことに、

一切の躊躇を持たない男。

その遊戯は、

まだ終わらない。


▼△▼


「次は、

 誰が来る?」


飄々としたパンドラの問いに、

メイとレオンは言葉を失った。


天井の照明が、

ジジッという音とともに、僅かに瞬く。


レオンが再び踏み込もうとした、

その時だった。


「──パンドラ」


メイの声が、

無機質なコンクリートの空間に、

不自然なほどはっきりと響いた。


その瞬間、

パンドラの身体が、彫像のようにぴたりと固まる。


「……っ」


驚きに目を見開いたパンドラが、

ゆっくりと、

信じられないものを見るような目で、

メイを見つめた。


その視線が、

初めて“人”としての体温を帯びて、揺らぐ。


メイは、その隙を逃さず、

一歩、踏み出す。


パンドラの上着の裾を、

そっと、指先でつまんだ。


「……捕まえたわ。

 パンドラ」


パンドラは、

つままれた上着の裾と、

メイの顔を交互に見つめ、

しばらく、何も言わない。


透き通るような鳶色の瞳の奥で、

膨大な何かが、

静かに、決壊していく。


やがて、

彼は自嘲気味に、にっこりと微笑んだ。


「……なるほど。

 名前で呼ばれたら、もう逃げられないな。


 ……俺の負けだ、メイ」


パンドラは、

ゆっくりと顔を上げた。


鳶色の瞳が、

この駐車場の“境界”を見据えている。


「名古屋はね。実験場なんだ。

 ここは――箱の中」


メイの背筋が、冷える。


「実験って…一体何の?」


パンドラは肩をすくめる。


「君たちが

 “送ってる”と思ってるもの」


口元に、薄い笑み。


「現場は、律儀だよな。

 何の疑問もなく、

 冥府省のシステムに従ってる」


その言い方が、

あまりにも軽くて。


メイは、

自分の足元のコンクリートが、

ほんの少し遠のいた気がした。


「……冥府省のシステムに何か問題が……?」


パンドラは、答えない。


代わりに、

指先で空をなぞる。


見えない線を、

確かめるように。


「魂が溢れたのは事故だけど。

 でも――

 俺が“消される”のは、必然だった」


メイは、

反射的に顔を上げる。


「……死霊が溢れるこの街は、

 現実なのか、

 彼岸なのか――

 どっちだと思う?」


その問いは、

メイではなく、

この街そのものに向けられているようだった。


「そのうち、

 こっちが黄泉になったりしてな」


「あいつらも、

 今頃になって後悔してるだろう」


低く、

笑うでもなく。


「俺を、

 消したことを」


パンドラは、

誰に向けるでもなく、

そう呟いた。


沈黙が、

地下駐車場に落ちる。


「私たちが……」


メイは、

その沈黙を破るように、

息を吸った。


「死者を黄泉に送っても、

 街に戻ってくるのは――」


言葉を探す。


「……ここが、

 実験場だからなの?」


パンドラは肩をすくめた。


「……駄目だよ、メイ。

 今日はもう、教えたろ」


「ちょっと待って。

 もう少し――」


メイが踏み出しかけた、そのとき。


レオンが、

一歩だけ前に出る。


何も言わない。


ただ、空気が張りつめる。


パンドラは、その視線に気づいて、

くすりと笑った。


「おいおい。

 そんな顔で睨むなよ」


軽い口調のまま、

パンドラは両手をわずかに上げた。


「……話してるだけだろ?」


レオンは答えない。


沈黙が、

境界に触れる。


「お前とやり合うのは、

 さすがにリスキーなんだよ」


「じゃ、またね。メイ」


その言葉と同時に、

地面の輪郭が、

彼の足元から滲みはじめた。


靴底が沈み、

影が揺らぎ、


次の瞬間――


パンドラの姿は、

境界の向こうへ溶けて消えた。


すると、

張りつめていた境界が、

ほんの少し緩んだ気がした。


「おい、待て!」


バッグの中から、

ぴよ丸が身を乗り出す。


「この気持ちの悪い境界を、

 解いていかんか――」


勢い余って、

その丸い体が前につんのめた。


「危ない!」


メイは反射的に手を伸ばし、

落ちかけたぴよ丸を抱きとめる。


その瞬間。


「ああっ!!」


「メイ?

 どうした!?」


レオンが、

メイの手元を覗き込む。


ぴよ丸の尻の生地が、

ざっくりと裂けていた。


中から、

白い綿がもこりと、はみ出している。


「……破れてる……」


メイは、

喉の奥で息を詰まらせた。


「さっき……

 私を庇ってくれたときに……?」


「うむ」


ぴよ丸は、

少し考えるように間を置いてから言った。


「何だか……やけに

 スースーするとは思っておったが」


そして、

いつも通りの声で続ける。


「メイが無事なら、

 それで良い」


「……ぴよ丸……」


メイは、

裂けた生地からはみ出た綿を押さえるように、

そっと抱き寄せた。


「ありがとう。

 本当に……ありがとう」


「こら、メイよ」


ぴよ丸が、やや困ったように言う。


「嫁入り前の娘が、

 むやみに男に抱きつくものでは――」


「ぬいぐるだから!」


即座に、

メイが言い切った。


「……そうであった」


◆ ◆ ◆


大須観音の境内で、

テツは石段に腰を下ろしていた。


何度目か分からない脱出の試み。

同じ参道、同じ灯籠、同じ闇。


三人の顔には、

はっきりと疲労が浮かんでいる。


そのときだった。


張りつめていた空気が、

ふっと緩む。


屋根の上にびっしりとあった

黒い塊の“視線”が、

いつの間にか消えていた。


「……あれ?」


カイが、息を吐くように呟く。


「今……

 境界、緩んだ?」


シノは周囲を見回し、

無意識にスマホを握りしめる。


画面が、点灯した。


表示された名前に、

胸の奥がほどける。


「……メイからだ」


通話ボタンを押す。


「メイ?

 そっちは……無事?」


声には、

隠しきれない安堵が滲んでいた。


境内は、

相変わらず静かだ。


黒い影も、

視線もない。


テツが、境内から一歩、踏み出した。


何も起こらない。


そのまま数歩歩いてから、振り返る。


境内は、

もう追いかけては来なかった。


「……出られた」


テツは呆然と呟く。


仁王門の上で、

何かが、じっとその様子を見ていた。





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