第2話 俺の妹は気が利きすぎている

 夕暮れを過ぎ、夜が深まる頃合い、山田春樹やまだ/はるきは駅前のロータリーで、今日初めてちゃんと話したクラス委員長――夏目祈里なつめ/いのりに軽く手を振った。


 祈里も笑顔で手を振りかえす。その拍子に、制服の上からでもはっきりわかる豊かな胸が、ふわりと揺れた。

 サイズなんて測ったこともなく、サイズを聞いた事もないが、視界を埋め尽くすような存在感は、男の子の目にはどうしても強く焼きついてしまう。


「また明日も、アニメとかの話しようね」

「うん、俺も楽しみにしてるよ」

「じゃあ、また明日ね!」

「う、うん、また明日!」


 祈里はくるりと背を向け、駅中の方へ小走りで消えていったのだ。

彼女の家は駅の反対側にあるらしく、いつも駅中を通って帰宅するらしい。その方が近道であり、駅中にはお店もあって、そこで少し何かを購入してから帰るのがいつもパターンのようだ。


 春樹は一人になった今、小さく息をはいて、バス乗り場へと足を向けた。


「……なんか、夏目さんのお陰でちょっとだけ楽になったかもな……」


 八か月交際が続いた小森百花こもり/ももかとの別れが、まだ胸の奥に鉛のように沈んでいたはずだが、今はほんの少しだけ軽くなっていた。

 祈里のさりげない気遣いと、共通の趣味の話で笑い合えた時間が、傷口にそっと絆創膏を貼ってくれたような気がしたのだ。


 春樹はスーツを着た人や別の高校の人がいる停留所前に立ち、やってきたバスに乗車した。


 春樹は窓際の席に腰を下ろす。ガラスに映る自分の顔は、疲れているくせに、どこか浮ついていた。


 祈里の声が耳に残ってるのか、それともあの胸の揺れが忘れられないのか。

 どちらにしても、頬が緩むのを止められなかった。まだ恋人でもなんでもない。でも、明日の放課後も一緒に過ごせると思うだけで、心臓が跳ねる。


 今日、ちゃんと会話した最初の日だったなんて信じられない。それほどに親しい間柄になっていた。

 去年の文化祭でちょっとだけ顔を合わせたことはあったが、あれはほんの一瞬だった。




 バスが隣の街に入り、住宅街の灯りが近づいてくる。

 アナウンスが流れて、春樹は降車ボタンを押した。


 住宅街近くの停留所で下車する。夜の空気が冷たくて気持ちいい。街灯がまばらに続く道を歩き出す。

 沢山の家がある道の角を曲がったところで――


「お兄ちゃん!」


 弾んだ声と同時に、小さな影が駆け寄ってきた。

 私服姿の少女――妹の山田未空やまだ/みくだ。

 長い髪を高い位置でお団子にまとめ、スーパーの袋を片手に抱えている。


「遅いよー! もう真っ暗だよ? もしかして、街中のアニメショップに行ってきたとか?」

「まあ、まあ、そうだな。そんなところだな」


 春樹は妹に対し、本当の事を言い出せず、軽く笑って誤魔化す。


「悪い悪い。ちょっと寄り道してた」


 春樹の返答に、未空はにこにこと笑って、春樹の隣にぴったり並んだ。

 袋からほのかに漂うのは、甘辛いタレの香り。


「今日は生姜焼き弁当だよ。お兄ちゃんの大好物でしょ?」

「おお、マジか。助かるな」

「えへへ、当たり前じゃん。私、お兄ちゃんのことならなんでもお見通しなんだから」


 得意げに胸を張る未空に、春樹は苦笑いを漏らした。

 確かにこの妹は、昔から自分の好みを完璧に把握している。

 誕生日プレゼントも、好きな食べ物も、苦手な野菜まで全部。


 気が利きすぎて、たまになんでそこまで知ってるのと背筋が寒くなることもあるけれど。でも、疲れて帰ってきたときに黙って隣にいてくれたり、笑顔で迎えてくれたりする優しさは、本当にありがたい。


 距離が近いのは、きっと妹なりの愛情表現なんだろう。


「今日ね、美術の時間にイラスト描いたんだ」

「おお、未空の絵って相変わらず上手いよな」

「うん! それでね、先生に褒められちゃったの!」

「ならイラスト部とかに入ればいいんじゃないか?」

「うーん、今は趣味でいいの。本気でやったら、嫌いになっちゃうかもしれないし」


 他愛もない会話をしながら、二人は並んで家路を辿る。


 家に着くと、未空は買い物袋をダイニングテーブルに置いて、すぐにキッチンへと向かうのだった。


「お兄ちゃん、味噌汁どうする? わかめ? ネギ? それとも豆腐?」


 キッチンに向かった妹は、キッチンの方から顔だけを出して問いかけてきた。


「じゃあ、ネギで」

「りょーかい!」


 しばらくして、炊飯器がピピッと鳴り、部屋中に味噌のいい香りが広がった。

 春樹がスーパーの袋から取り出した弁当をテーブルに並べていると、未空がトレイを抱えて戻ってきたのだ。


「はい、お兄ちゃん特製ネギたっぷりの味噌汁! 冷蔵庫の残りも全部入れちゃった」

「ありがと……でも、入れすぎじゃないか?」

「そうかな? でも、ネギを食べたら健康的になれるしいいんじゃない? あと、ご飯も炊いといたよ。弁当だけじゃ足りないでしょ?」

「あ、ありがと……ほんと、俺のことわかってるな」


 未空は当然のように春樹のすぐ隣に座った。

 この家では、向かいに座るなんて選択肢は存在しない。

 肩が触れ合う距離で、妹は満足げに笑っている。


「いただきます」


 春樹が小さな声で手を合わせると、未空も元気よく続いた。

 二人は箸を動かす。

 豚肉に絡んだ甘辛いタレが口いっぱいに広がって、疲れた体に染み渡る。


 隣では未空が小さく鼻歌を歌いながら、ご飯を頬張っている。

 ふと、今日一日のことが頭をよぎった。

 百花との別れの痛みと、祈里の柔らかな笑顔だ。

 そして、今ここにいる、変わらない妹の温もりである。


「……どうしたの、お兄ちゃん?」

「ん? いや、なんでもない」


 未空は首を傾げたが、すぐにまたにこっと笑った。


「そうだ、おかわりいる?」

「まだ半分も食べてないだろ」

「あはは、ごめんごめん」


 少しせっかちなところも、全部含めて未空だ。

 兄と妹。ただそれだけの関係なのに、こんなにも安心できる夕食の時間がある。

 今日失ったものもあったけれど、確かにここに、ずっとここにあるものもある。


 祈里との新しい出会いもあって、明日はきっと少しだけ明るい。

 失ったことばかり数えるのは、もうやめよう。


 ネギの効いた味噌汁の湯気がゆらゆらと立ち上る。

 二人は、楽しくも明るい夕食の時間を過ごすのだった。

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