第7話:アスファルトの味と、愛の暗証番号
駅前の喧騒からわずか一本外れただけで、世界は腐臭に満ちた別次元へと切り替わった。
薄暗い路地裏。そこは、華やかなビジネス街が排泄した「都市の汚物」が吹き溜まる場所だった。
「おらァッ!」
黒木の怒声と共に、蓮の体はゴミ袋のように宙を舞った。
受け身を取る余裕などない。
ガシャァァン!!
錆び付いたフェンスに背中から激突し、その反動で蓮は地面へと転がり落ちた。
「ぐっ……!」
手のひらが、冷たく濡れた地面に触れる。
そこは、雨水と泥、そして何かの汁が混ざり合って出来た、黒い水たまりだった。
泥水が瞬く間にスーツの繊維に染み込み、肌に張り付く。冷たい。
フェンスの錆が頬を引っ掻いた熱い痛みと、冷たい汚水の感触が同時に脳を揺さぶる。
(臭い……)
鼻先を強烈な悪臭が掠めた。
腐った生ゴミの甘ったるい腐敗臭と、酔っ払いの吐瀉物、そしてアンモニアの刺激臭が煮詰められたような臭気。
これが、この路地裏の「体臭」だ。
遠くから駅のホームのアナウンスや雑踏が聞こえるが、まるで分厚い水槽の外の出来事のように曇って響く。
ここは隔離された世界。法も秩序も届かない、暴力の聖域。
「あーあ、汚ねえとこだな、ここは」
黒木は自分の革靴のつま先についた泥をコンクリートで擦り落としながら、心底退屈そうに吐き捨てた。
「おい蓮、お前もそう思うだろ? こんなゴミ溜めで寝転がって、楽しいかよ?」
「……う、ぐ……やめ……」
蓮は泥水に顔を半分沈めたまま、必死に言葉を絞り出す。
だが、黒木はニヤリと口角を吊り上げた。
「『やめて』じゃねえだろ? あァ? 久しぶりの再会だぞ? 『感動してます』だろ?」
黒木が、右足をゆっくりと引いた。
蓮が反射的に体を起こそうとした、その瞬間だった。
黒木の革靴のつま先が、視界の下から振り子のように迫り上がってくる。
その軌道は、蓮の鳩尾(みぞおち)一点へと吸い込まれるように正確だった。
ドゴォッ!!
鈍く、重い衝撃音が路地に響く。
ただ「蹴られた」という感覚ではない。
硬い革の質感と、その奥にある足の骨の質量そのものが、蓮の腹筋を食い破り、内臓の奥深くまで深々とめり込んでくる感覚。
衝撃が背中まで突き抜ける。
「――ッ、ヒュッ」
蓮の口から、酸素と共に悲鳴にならない空気が強制排出された。
横隔膜が麻痺し、呼吸が止まる。
胃の中で消化されかけていた朝のコーヒーと胃酸が逆流し、食道が焼けつくような熱を持つ。
視界が白く弾けた。
黒木が足を引くと同時に、蓮の体はくの字に折れ、再び汚水の中へと崩れ落ちた。
アスファルトに頬を押し付けられ、口の中に鉄錆と泥の味が広がる。
「みっともねえ声出すなよ。俺はまだ、挨拶しかしてねえぞ」
黒木は蹲る蓮の背中を踏みつけると、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
強引に長財布が引き抜かれる。
蓮の目が、泥の中からそれを見上げる。
(返せ……それは……)
それは今月の生活費だ。ローンの引き落とし分だ。玲奈に渡さなければならない金だ。
脳内では叫んでいるのに、喉からはヒューヒューという壊れた笛のような呼吸音しか出ない。
痛みで神経が焼き切れ、自分の体がボロ雑巾になったような感覚。
思考のリソースが「激痛の処理」だけで手一杯になり、人間としての尊厳を守る余地がない。
黒木は財布を開き、中身を物色した。
「チッ、現金3万? 嘘だろオイ」
黒木は呆れたように鼻を鳴らした。
「親父さんは電話で『息子は東京のエリートだ』って自慢してたぜ? なんだこの薄っぺらい中身は。高校生の財布かよ」
「……かえ、せ……」
「返すわけねえだろ。これは俺たちへの『再会祝い』だ。まあ、これじゃ全然足りねえから、残りはカードで下ろすけどな」
黒木は汚れた指で、財布のカードポケットから一枚の写真を引き抜いた。
蓮と玲奈が写った、唯一の家族写真だ。
黒木はそれをペラペラと弾き、品定めするように目を細めた。
「へえ、いい女じゃん。お前にはもったいねえな。……で? 暗証番号は?」
蓮は唇を噛み締め、沈黙した。
金は奪われても、この最後の砦だけは守らなければならない。
だが、黒木はニヤニヤと笑いながら、蓮の顔を覗き込んだ。
「言わなくてもわかるぜ? お前みたいなつまんねえ男のパスワードなんて、どうせ決まってんだよ」
黒木は写真の玲奈の顔を指で小突いた。
「『女の誕生日』だろ?」
蓮の肩が、ビクリと跳ねた。
その反応を見た黒木が、路地に響く大声で爆笑した。
「ギャハハ! 図星かよ! 傑作だ!」
黒木は腹を抱えて笑う。
「顔に書いてあるぜ。『僕は妻の奴隷です』ってなァ! 自分の金を守る番号すら、女の誕生日に設定してんのか? 金も、心も、全部女に握られて、お前は何のために生きてんだ? 飼い犬以下じゃねえか」
奴隷。
その言葉が、腹への蹴りよりも深く、鋭く、蓮の心臓をえぐり取った。
図星だった。
自分は愛妻家などではない。ただ思考を停止し、玲奈に傅くことでしか自分の価値を見出せない奴隷だ。
それを、こんな下衆な男に一瞬で見透かされた。
精神的な防壁が、音を立てて崩れ落ちていく。
「さて、番号も分かったし、用済みだな」
黒木は財布を自分のポケットにしまうと、再び蓮の顔面に向けて足を振り上げた。
トドメの一撃が来る。
蓮が反射的に目を瞑った、その時だった。
パァァァ……。
路地の入り口の壁に、赤い光が反射した。
サイレンの音はない。静かに回転する、毒々しい赤色の光。
パトカーの巡回だ。
「チッ、マッポかよ。タイミング悪ィな」
黒木が舌打ちをして足を止める。
蓮は腫れ上がった重い瞼を必死に開け、その赤い光を見た。
警察だ。助かるかもしれない。
この地獄から抜け出せるなら、たとえ泥水を啜ってでも縋り付きたい。
蓮は震える手を泥の中から伸ばし、潰れた喉から声を絞り出した。
「……た、すけて……!」
その赤い光は、地獄からの救いか、それとも新たな絶望の予兆か。
路地の奥から、制服を着た男の影が、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。
逆光で顔は見えない。だが、その影は蓮を助け起こすようには見えなかった。
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