償いはその命と人生で
@jamaikan
第1話:雨と靴底と灰色の朝
6月の雨は、空から降るというより、大気そのものが腐って液状化したような粘着質を帯びていた。
自動改札を抜けるサラリーマンたちの群れからは、生乾きの衣類と疲労の臭いが立ち上っている。鬼堂蓮(きどう れん)は、量販店で買った安物のスーツが、汗と湿気で背中に張り付く不快感を無表情で受け止めていた。
傘の先が、前の男の鞄に当たる。
「チッ、うぜえな」
男が振り返り様に放った舌打ちが、湿った空気を震わせて蓮の鼓膜を叩く。
(……殺すのは、簡単だ)
その思考は、蓮の意志とは無関係に、脳髄の奥底から泡のように浮き上がってくる。
蓮の視界が、一瞬だけノイズ走ったブラウン管のように歪んだ。
灰色に沈んだ駅の構内。無数に行き交う人間たちが、薄皮一枚で血肉を包んだだけの『脆い袋』に見える。指先一つで弾け飛ぶ、赤い液体詰まった風船。
ドクン、と心臓の奥で「鬼」の血が脈打つ。
蓮は吊革を握る手に力を込め、その衝動をねじ伏せた。
『力は、守るために使いなさい』
亡き祖父の遺言。それは蓮を人間社会に繋ぎ止める鎖であり、同時に彼を縛り付ける呪いでもあった。
蓮は深く息を吐き出し、どす黒い殺意を胃の腑へと落とし込む。大丈夫だ。今日も僕は、無力で愚鈍な社畜を演じられる。
オフィスビルの冷房は、外気との温度差で肌が粟立つほど強く設定されていた。
蛍光灯の寒々しい光が降り注ぐ営業部フロア。
「おはようございます」
蓮が頭を下げて入室しても、返ってくるのはキーボードを叩く乾いた打鍵音だけだ。
自分の席へと向かう。違和感はすぐに判明した。
あるはずのものが、ない。
蓮のデスクの前には、ぽっかりと不自然な空白があった。椅子だけが消えている。
「あれェ? ないなァ」
静寂を破ったのは、窓際の席でコーヒーを啜っていた課長の剛田だった。
わざとらしいほど大きな独り言。しかし、その視線はパソコンの画面に向けられたままだ。
「おっかしいなァ。昨日はあったのになァ。なぁ、ミキちゃん、知らない?」
話を振られた女性社員、ミキが、プッと噴き出すのを堪えるように口元を押さえて答える。
「知りませんよぉ。でもぉ、鬼堂さんの席、ちょっと加齢臭キツかったから、椅子も嫌になって家出したんじゃないですかぁ?」
どっ、とフロアの一部から嘲笑が湧く。
大の大人たちが、まるで小学生のような悪意を共有し、連帯感を深めている。
蓮は、彼らの視線がこちらを盗み見ているのを感じていた。
怒ってはいけない。ここで机を拳で叩き割れば、全てが終わる。
蓮は表情筋を死んだように固定し、淡々と言った。
「……倉庫から、予備を持ってきます」
「おー、そうしてくれ。仕事の邪魔だから、なるべく静かにな」
剛田は興味なさげに手を振った。その態度が、蓮を虫けらほどにも思っていないことの証明だった。
蓮はきつく拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、滲んだ血の鉄錆の匂いが鼻腔をかすめた。痛みだけが、理性を保つ錨だった。
数分後、パイプ椅子を抱えて戻ってきた蓮を、剛田の声が呼び止める。
「おい鬼堂。先月の日報、まだ出てないだろ。持ってこい」
「……はい」
蓮はデスクに資料を置き、剛田の席へと歩み寄る。
その瞬間だった。
剛田の革靴が、デスクの下から音もなく滑り出てきた。
蓮の動体視力にとって、それはあまりにも緩慢な動作だった。
茶色のイタリア製革靴が、蓮の進行方向を塞ぐように突き出される軌道。
避けることは造作もない。いや、無意識に足を振り抜けば、剛田の脛の骨を粉砕することさえ可能だ。
だが――避けてはいけない。
蓮は瞬時に「転ぶ」ことを選択した。
(――ああ、今日も、泥を啜るのか)
自ら爪先を剛田の足に引っ掛ける。
世界がスローモーションになった。
重力が消失し、視界が傾いでいく。
驚いたふりをして目を見開く剛田の顔。ニヤつきながらその様子を眺めるミキ。
床の灰色のカーペットが、あきれるほどゆっくりと顔面に迫ってくる。
繊維の一本一本、そこに絡みついた埃の塊までもが鮮明に見えた。
ドサッ。
鈍い音と共に、蓮は床に叩きつけられた。
カーペットの埃っぽい臭いが鼻を突き、頬に擦過傷の熱さが広がる。
見上げると、剛田が彼を見下ろしていた。
「おいおい! 危ねえな!」
剛田は心配するどころか、不快そうに顔を歪めて自分の靴を見た。
「俺の新しい靴が汚れちまったじゃねえか。これ高いんだぞ? ちゃんと前見て歩けよ、ノロマ」
「……すみません」
蓮は床に手をついたまま、頭を下げた。
屈辱で視界が赤く明滅する。それでも、謝罪の言葉を吐き出す。これが処世術だ。これが「普通」だ。
蓮が身体を起こそうとした、その時だ。
剛田の手が伸びてきた。
助け起こしてくれるのではない。剛田の太い指が、蓮の右耳を鷲掴みにしたのだ。
「――っ!?」
ギリリ、と軟骨が悲鳴を上げる音が、頭蓋骨を通じて脳に直接響いた。
子供の悪戯レベルではない。大人の力で、耳を引きちぎるかのような勢いでねじり上げられる。
激痛が側頭部を走り、蓮は思わず顔をしかめた。
剛田はそのまま蓮の顔を無理やり引き寄せ、至近距離で睨みつけた。
コーヒーとタバコの入り混じった、腐ったドブのような口臭が蓮の鼻を犯す。
「お前さぁ、口先だけで謝ってんのがバレバレなんだよ」
剛田は囁くように、しかし周囲には聞こえない声量でドスを利かせた。
耳の付け根から、プチ、プチ、と皮膚組織が剥離するような微細な音が聞こえる。
蓮の目から生理的な涙が滲んだ。それを恐怖の涙と解釈した剛田が、サディスティックに口角を吊り上げる。
「今日の指導は長いぞ。たっぷりと、社会人の常識を教えてやるからな」
逃げ場のない宣告。
これから始まる、指導という名の終わりのない拷問の予感が、灰色の朝を黒く塗り潰していった。
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