『人の心が読めすぎる僕は、自分の感情を見失っていた——義妹が「それは家族って言うんだよ」と教えてくれた』

マスターボヌール

第1話「理解という暴力」

透が母の異変に気づいたのは、母自身が気づくより3日早かった。


小学2年生の春。朝食の味噌汁を一口飲んだ母が、箸を置いた。ほんの0.5秒、眉間にシワが寄った。そして何事もなかったように食事を続けた。


「お母さん、具合悪いの?」


母は笑った。「大丈夫よ」


でも透には分かった。母の左手が、微かに震えていた。箸を持つ右手に、いつもより力が入っていた。視線が、一点に固まっていた。


「病院、行ったほうがいいよ」


母の笑顔が、固まった。


「……透、どうして?」


「だって、気持ち悪いんでしょ? 顔色が悪いもん」


母は何も言わなかった。ただ、透を見た。その目は——透が今でも覚えている——怯えていた。


3日後、母は病院で妊娠を告げられた。弟の蓮だった。


父は喜んだ。母は笑った。


でも透には分かっていた。母は喜んでいなかった。


---


母が家を出たのは、蓮が生まれて一年後だった。


透が7歳の誕生日の朝。母はいなくなっていた。


置き手紙があった。


『ごめんなさい。もう無理です』


それだけだった。


父は泣いた。祖母は怒った。親戚は噂した。


透は、何も感じなかった。


いや——感じていたのかもしれない。でも、それが何という感情なのか、透には分からなかった。


ただ一つ、確信していたことがあった。


**母が去ったのは、透のせいだ。**


---


中学2年の春。透は図書室で『罪と罰』を読んでいた。


「ねえ、透くん」


声がして、顔を上げた。クラスメイトの美咲だった。目が赤い。泣いていたのだと、すぐに分かった。


「……どうしたの?」


美咲は透の向かいに座った。


「あのさ……相談、いい?」


透は本を閉じた。「うん」


「実は……彼氏と喧嘩しちゃって」


彼氏。田中のことだ。透は知っていた。二人が付き合っていることも、最近ギクシャクしていることも。


「田中くんが、最近冷たいの。LINE も既読スルーばっかりで……私、何か悪いことしたのかな?」


美咲は透を見た。答えを求めている目だった。


透は3秒考えた。


そして、答えた。


「田中くんは、美咲さんに冷めてると思う」


美咲の顔が、凍りついた。


「……え?」


「先週から、田中くんは隣のクラスの佐々木さんと話すようになった。昼休みも一緒にいる。美咲さんへの LINE が既読スルーなのは、返事を考えるのが面倒だからだと思う。つまり——」


「やめて」


美咲が言った。声が震えていた。


「もういい。何も言わないで」


彼女は立ち上がり、図書室を出ていった。


透は本を開いた。


ラスコーリニコフの独白が続いていた。


*「彼は自分の行為を理解しているのか? いや、理解していない。理解することと、感じることは別のものだ」*


透はページを閉じた。


(また、やってしまった。)


---


その日の放課後、透は美咲に呼び出された。


屋上。夕日が校舎を赤く染めていた。


美咲は振り向かなかった。フェンスに背を預け、空を見ていた。


「ねえ、透くん」


「うん」


「あのさ……透くんって、何で人の気持ちが分かるの?」


透は答えられなかった。


「私、田中くんに聞いたの。佐々木さんのこと」


風が吹いた。


「透くんの言った通りだった。田中くん、私のこと、もう好きじゃないって」


美咲は笑った。泣きながら。


「すごいね。透くんは、何でも分かるんだね」


「……ごめん」


「謝らないで」


美咲は透を見た。


「ねえ、透くん。私が今、何を感じてるか、分かる?」


透は答えられなかった。


悲しみ? 怒り? 後悔? 


いや、違う。それは——


「分からないでしょ」


美咲が言った。


「透くんは、人の気持ちが『分かる』んじゃない。人の『状況』が分かるだけ。でも、状況と感情は違うの」


透は何も言えなかった。


「田中くんが私を好きじゃないことは、事実かもしれない。でも——」


美咲は涙を拭いた。


「それを『理解』することと、それを『受け入れる』ことは、全然違うの」


彼女は階段に向かった。


「透くんは優しくない。ただ、正確なだけ」


ドアが閉まった。


透は一人、屋上に残された。


---


夜。家に帰ると、継母の香織がリビングにいた。


「お帰り。ご飯、できてるわよ」


「ありがとう」


透は自分の部屋に向かった。


「透くん」


香織が呼び止めた。


「あのね……光のこと、なんだけど」


光。香織の連れ子。透の義妹。十二歳。


「光、最近元気ないの。学校で何かあったみたいで……」


香織は透を見た。頼るような目だった。


「透くん、光と話してくれない? お兄ちゃんとして」


透は答えた。


「……無理だと思う」


「え?」


「光は、僕のこと嫌いだから」


香織の顔が曇った。


「そんなこと……」


「本当だよ。光が僕を見る時、いつも視線を逸らす。話しかけても最低限の返事しかしない。僕が部屋に入ると、光は出ていく」


香織は何も言えなかった。


「だから、僕じゃなくて、香織さんが話したほうがいい」


透は階段を上った。


部屋に入り、ドアを閉めた。


そして——


胸の奥が、痛んだ。


(これは、何だ?)


悲しみ? 罪悪感? 孤独?


透は本棚から一冊を取り出した。夏目漱石『こころ』。


ページを開く。


*「私はあなたに会った時、すぐにあなたを兄のように思いました」*


透は本を閉じた。


(嘘だ。)


光は透を兄だと思っていない。


そして透も、光を妹だと思っていない。


なぜなら——


僕には、そういう感情がないから。


---


深夜2時。透は眠れずにいた。


胸の痛みが消えない。


これは何だ。この感覚は。


透はスマホを手に取った。検索窓に打ち込む。


『胸が痛い 感情 分からない』


検索結果が表示される。


『失感情症(アレキシサイミア)』

『解離性障害』

『感情鈍麻』


透はページを開いた。読んだ。そして——


どれも違う。


透には感情がないのではない。


透は感情を感じている


ただ、それが何なのか分からないだけだ。


いや——違う。


本当は——


分かりたくないだけだ。


透はスマホを置いた。


7歳のあの朝を思い出した。


母がいなくなった朝。


透は泣かなかった。叫ばなかった。


ただ、母の部屋に入った。


クローゼットを開けた。母の服がなくなっていた。


化粧台を見た。化粧品がなくなっていた。


そして、透は理解した。


母は帰ってこない。


母は透を捨てた。


母は——透が怖かったのだ。


なぜなら、透は母を見すぎたから。


母の疲れを見た。母の苦しみを見た。母の後悔を見た。


そして——7歳の透は、それを言葉にした。


「お母さん、疲れてるんでしょ?」

「お母さん、辛いんでしょ?」

「お母さん、逃げたいんでしょ?」


透は、母を理解していた。


でも——それは母にとって、逃げ場をなくすことだった。


だから母は、透から逃げた。


透はベッドに横になった。


天井を見た。


そして、決めた。


もう、感じない。


感情を持てば、傷つく。


理解すれば、人を傷つける。


だから——


言葉の中に逃げよう。


本の中では、すべてが説明されている。


ラスコーリニコフの苦悩も。こころの先生の孤独も。


すべて、言葉で語られている。


安全な感情。死んだ感情。


それで十分だ。


透は目を閉じた。


でも——


胸の痛みは、消えなかった。


---


次の朝。


透が階段を降りると、光がリビングで泣いていた。


香織が光を抱きしめていた。


「大丈夫よ、光。お母さんがいるから」


光は泣き続けていた。


透は立ち止まった。


助けたい。


その感情が、一瞬、透の胸を貫いた。


でも——


透はその感情を、言葉にしようとした。


これは何だ? 同情? 共感? 責任感? 


言葉を探した瞬間——


感情は、消えた。


透はリビングを素通りした。


玄関で靴を履く。


「透くん」


香織が呼んだ。


「……光のこと、お願い」


透は振り返らなかった。


「無理です」


そしてドアを閉めた。


---


学校への道。


透はイヤホンをして歩いた。音楽は流さなかった。ただ、周囲の音を遮断するために。


これでいい。


感じなければ、傷つかない。


理解しなければ、人を傷つけない。


言葉の中に逃げていれば——


「透!」


声がした。イヤホンを外すと、美咲が走ってきた。


「あのさ、昨日はごめん」


「……え?」


「私、透くんに八つ当たりしちゃった。透くんは悪くないのに」


美咲は笑った。でも目は笑っていなかった。


「田中くんとは別れた。透くんの言う通り、もう無理だったから」


「……そう」


「でもさ、良かったと思ってる。ちゃんと、終われたから」


美咲は透を見た。


「ありがとう。透くんのおかげ」


そして、去っていった。


透は立ち尽くした。


分からない。


美咲は本当に感謝しているのか?


それとも——


もう、どうでもいい。


透は歩き出した。


---


図書室。


透は新しい本を手に取った。


カフカ『変身』。


ページを開く。


*「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、自分がベッドの中で一匹の巨大な虫に変わっているのに気がついた」*


透は読み続けた。


グレゴールは虫になった。家族は彼を拒絶した。グレゴールは孤独の中で死んだ。


これは、僕の物語だ。


透はそう思った。


透も、もう人間ではない。


透は理解する機械だ。


感情のない、ただ観察し、分析し、言語化するだけの——


「透くん」


図書委員の先生が声をかけた。


「また難しい本読んでるね」


「……はい」


「楽しい?」


透は答えた。


「分かりません」


先生は首を傾げた。


「じゃあ、何で読むの?」


透は3秒考えた。


そして、初めて——本当のことを言った。


「逃げるためです」


「逃げる? 何から?」


透は本を閉じた。


「……自分から」


先生は何も言わなかった。


ただ、透の頭に手を置いた。


「透くん。本はね、逃げる場所じゃないよ」


「……じゃあ、何ですか?」


「鏡だよ」


透は先生を見た。


「本は、自分を映す鏡。逃げるために読んでも、結局、自分が映る」


先生は微笑んだ。


「だから、怖がらないで。ちゃんと、自分を見てあげて」


そして、去っていった。


透は一人、残された。


本を開く。


でも——文字が、読めなかった。


なぜだ。


視界が、滲んでいた。


透は自分の頬に触れた。


濡れていた。


これは、何だ?


涙?


僕は——泣いているのか?


でも、なぜ?


悲しいから? 苦しいから? 孤独だから?


訳が分からない。


透は泣き続けた。


理由も分からないまま。


そして——


初めて、理解した。


僕は、ずっと泣きたかったんだ。


7歳のあの朝から。


母がいなくなったあの朝から。


でも——泣けなかった。


なぜなら、泣くことは感じることだから。


そして感じることは——傷つくことだから。


だから透は、感情を言葉に変えた。


言葉にすれば、安全だと思った。


でも——


言葉は、感情を殺すだけだった。


透は本を閉じた。


そして、初めて——


自分自身に問いかけた。


僕は、本当は何を感じているんだ?


---


(第一話 了)

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