異世界ギルドの総務課長 ~戦闘力ゼロの俺が、社畜スキルで業務改革したら、いつの間にか救世主になっていた~

雨崎ツバリ

第1章 安全管理編

プロローグ:出向辞令、行き先は異世界?

 剣も魔法も使えない。


 俺が持っていたのは、日本のブラック企業で『総務課長代理』としてり切れるほど使い古した、『事務屋のサガ』と『組織運営のノウハウ』だ。


 これは、社畜だった俺が、異世界の冒険者ギルドという『さらにブラックな職場』を、ホワイト企業へと改革するまでの、業務日報である。


 ――なんて、報告書風にまとめられれば格好もつくのだが。


 事の始まりは何だったか。


 ――そうだ、あの魔女ガキだ。


---


 時刻は、平日の16時を回っている。

 10月半ばの空は高く、傾きかけた陽射しは弱々しい。巨大なビルの谷間にへばりつくような小さな公園に、長い影が落ちていた。


 塗装の剥げたベンチに深く腰掛け、俺は秋風に冷やされた首元を緩めるようにネクタイを弄りながら、肺の中の淀んだ空気をすべて吐き出すような深いため息をついた。

 おそらく建築基準法の緑化率をクリアするためだけに作られた、形式だけの空間だ。足元には、カサカサと音を立てて枯れ葉が舞っている。


 本来であれば、空調の効いた快適なデスクで、それなりに人心地ついているはずの時間帯だ。

 だが、午前中に発生した建設現場近隣からの騒音クレーム対応で呼び出され、菓子折りを持って一軒一軒頭を下げ続け、ようやく解放されたのが今だ。「洗濯物が汚れた」と怒鳴られ、寒空の玄関先で30分立ち尽くすのは、精神衛生上あまりよろしくない。


 俺は毒々しい配色の缶に入ったエナジードリンクを、一気に胃の中へと流し込んだ。

 舌が痺れるような化学的な味だが、背に腹は代えられない。現代の錬金術が生み出したこの液体燃料だけが、今の俺を動かす唯一の動力源なのだ。


 かじかみ始めた指でスマートフォンの画面をタップし、午後のスケジュールを確認する。

 16時半から定例会議。18時から資材業者との価格交渉。その後は終電まで決算資料の作成になりそうだ。

 液晶画面に並ぶ無機質な文字列を眺めただけで、胃の底が『警告色レッド』に染まるような錯覚を覚える。

 長年の社畜生活が脳の髄まで刻み込んだ、『条件付き書式』による自動反応だ。


 だが、止まっている暇はない。 時間は無慈悲に過ぎていく。ここで立ち止まれば、そのしわ寄せは数時間後の自分に降りかかるだけだ。

 スーツについたシワを伸ばし、革靴のつま先を見る。

 さて、オフィス様へ戻るとするか。剣も魔法も飛んでこない代わりに、会議と交渉と残業がじわじわと正気を削っていく、あの戦場へ。


 ――その時だった。

 アスファルトの地面が、唐突に脈動したかのようにカッと光り出したのは。


「……は?」


 眩しさに目を細めて下を見る。

 そこには、幾何学模様きかがくもようとしか形容できない図形が描かれていた。

 複雑怪奇な幾重もの円環。まるで、アニメやゲームで見る魔法陣のような光の図形が、俺の足元を中心に展開されている。

 舞い散る枯れ葉が、光の奔流に煽られて舞い上がる。燐光のような輝きは、明らかに自然現象ではない。


 見間違いか?

 疲労による幻覚か?

 それとも新手のプロジェクションマッピングによる悪質なドッキリか?


 だが、考える暇など一秒も与えられなかった。

 世界がぐるりと反転するような、強烈な浮遊感。鼓膜を内側から圧迫するような重低音。


 視界が白一色に染め上げられ、意識が寸断されるその瞬間。

 俺の脳裏を過ったのは、走馬灯ですらない、情けない現実だった。


 ――明日の会議資料、まだ作りかけだぞ。


 それは社畜として骨の髄まで刷り込まれた、条件反射的な焦燥だったのだろうか。

 悲しいことに、俺の精神構造は、世界が崩壊するような超常現象を目の当たりにしてもなお、業務の進行を憂慮するよう、残酷なまでに最適化されてしまっているらしい。


 ――まったく――我ながら涙ぐましい職業病だ――。


---


 光が収束し、世界が色彩を取り戻す。

 次に目を開けた時、俺は見知らぬ薄暗い部屋に立っていた。


 ひんやりとした冷気が肌を刺す。埃とカビの混じった古臭い臭い。

 石造りの壁には松明が揺らめき、高い位置にある鉄格子の窓からは、微かな光が差し込んでいる。どうやら、照明設備という文明の利器は存在しないらしい。


 そして目の前には、一人の少女がいた。

 自分の体ほどもある大きな漆黒の帽子を目深に被り、同じ色合いの仕立ての良いローブをまとっている。

 そこから覗く、鮮やかな紫色の髪。

 絵本から飛び出してきたような、典型的な『魔女』の姿をした少女だ。


 彼女は身の丈に合わない立派な杖を両手で握りしめたまま、呆然と俺を見上げていた。

 視線が、俺の顔と、スーツの間を何度も往復する。

 やがて、その瞳が大きく見開かれた。


「……えっ、人間!?」

「……あの、すみません。ここは……」

「どわぁああ! 失敗したぁああ!」


 次の瞬間、彼女は脱兎のごとく駆け出した。

 重厚な木の扉に体当たりするように押し開け、そのまま廊下へと消えていく。


「あ、ちょっと! 待ってください!」


 呼び止めようと手を伸ばしたが、虚しく空を切った。

 開け放たれた扉の向こうには、ただ薄暗い廊下が続いているだけ。

 後に残されたのは、俺と、揺れる松明の炎。

 実にシュールな光景だ。


 取り残された俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 何が起きた? ここはどこだ?

 視線を落とすと、石の床には、さっき公園で見たのと同じような複雑な模様が、焼き焦げたように刻まれていた。


 ふと、部屋の隅に姿見があるのが目に入った。

 古ぼけた鏡だ。

 亡霊でも見るような覚束ない足取りで近づき、覗き込む。

 そこには、見慣れた――いや、ひどく顔色の悪い自分の姿が映っていた。スーツにネクタイ。くたびれた中年予備軍のアラサー男。


「……夢、じゃないよな」


 鏡に手を伸ばした時、自分の変化に気づいた。

 左手の甲だ。

 そこには、黒いタトゥーのような刻印が刻まれていた。鎖と、何かの紋章を組み合わせたような不気味なデザイン。

 指先で触れると、皮膚の下に異物が埋め込まれたような、気味の悪い熱を感じる。

 右手でこすってみる。取れない。爪でカリカリと削ってみる。痛みがあるだけで、皮膚そのものに染み込んでいるようだ。


「……冗談だろ?」


 心臓の鼓動が早鐘を打つ。

 嫌な汗が背中を伝い、ワイシャツを肌に貼り付かせる。

 ここにいてはいけない。本能が警鐘を鳴らしていた。

 俺は弾かれたように部屋を出て、外へと飛び出した。


 そこには、俺の知る『日本』は欠片も存在しなかった。


 石畳の道がどこまでも続き、両脇には重厚なレンガの建物がずらりと並んでいる。ガス灯のようなオレンジ色の頼りない明かり。

 見かけたことがない服を着て腰に剣を下げた男たちや、子供のように背が低いのに立派な髭を蓄えた男たちが、肩を怒らせて歩いている。犬や猫のような耳を生やした連中が、荷車を引いて通り過ぎていく。

 見上げれば、空には大小三つの月が浮かんでいる。


 俺は近くにあった店の看板を見上げた。

 奇妙な記号が連続して書かれている。

 見たこともない文字だ。英語でも、中国語でも、アラビア語でもない。


 ――なのに、読める。


 『武具修繕』『鉄の牙商会』『ゴブリンの剣、高価買取中』……文字の形を認識した瞬間、その意味が脳内に直接流れ込んでくる。翻訳機を通したような、奇妙な感覚。


「……はは。なんだ、これ」


 口から漏れたのは、乾いた笑いだった。

 夢じゃない。ドッキリでもない。

 看板の文字が読めることへの違和感と、ゴブリンなどというふざけたファンタジー用語。ここが絶対に見知った世界ではないという確信が、じわじわと俺の理性を蝕んでいく。


 異世界に転移した?

 俺はあの魔女っ子に召喚されたのだろうか?

 あの漫画とかアニメでよくある話の、異世界転移に俺が?


 現実的な焦りが、津波のように押し寄せてきた。

 俺は必死にポケットからスマホを取り出すが、画面上部の『圏外』の表示が、無慈悲に現実を告げていた。

 通りを歩く。誰かに声をかけようとするが、喉が張り付いて声が出ない。

 俺は異物だ。完全に場違いだ。いや、もう異物とかいうレベルじゃない。


 どれくらい歩いただろうか。

 夜のとばりが下りた見知らぬ街並みを、亡霊のように彷徨い歩いた。

 疲労、そして先行きの見えない絶望で、足取りは鉛のように重い。

 路地裏に入り込んだ俺は、古びたベンチを見つけ、吸い寄せられるように倒れ込んだ。


 寒い。スーツ一枚では、この世界の夜気は骨まで染みる。

 だが、それ以上に眠気が強かった。

 限界を超えた脳が、強制的にシャットダウンを求めている。

 ここで寝たら死ぬかもしれない。そんな生物としての基本的な警鐘すらも、深い泥のような疲労の中に沈んでいく。


 ――会議とか、もう、どうでもいいな――。


 限界を迎えた意識の糸が、プツリと音を立てて切れた。

 泥のように重い体が傾き、冷たい石畳へと沈んでいく。雨粒が頬を打つが、その冷たさすら、もう他人事のように遠く感じられた。


「……あのっ、大丈夫ですか?」


 世界が闇に溶ける寸前。

 降り注ぐ雨音に混じって、鈴を転がすような凛とした声が聞こえた気がした。

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