第9話:雇用条件通知書・拝受
ゴーンゴーンと、重厚な鐘の音が響き渡った。
時刻は18時。
これは『
王都では、この鐘を終業の合図にしている仕事が多いらしく、冒険者ギルドも例外ではない。
その勤怠システムは意外なほどお役所的だった。
10時にオープンするクエスト申請や査定の受付は、17時に問答無用でクローズ。
そこから一時間の締め作業を経て、18時の鐘とともに、職員は一斉に退勤する。
窓口や倉庫の連中は、鐘が鳴り終わるが早いか、潮が引くように帰っていくのだった。
もっとも、これはあくまで職員の話である。
冒険者にとっては、この鐘などどこ吹く風だ。
日の出前に発ってダンジョンへ潜る者もいれば、夜更けにくたびれて戻ってくる者もいる。
彼らの仕事に、定時もへったくれもない。
獲物の都合と自分の腹の具合だけが、彼らのタイムカードなのだ。
鐘が鳴り終わって少しすると、執務室の扉が開いた。
「お疲れさん」
オルガが、現場を見回る施工管理のような足取りで入ってくる。
その手には、リンゴによく似た赤い果実が握られていた。
「ほう、ずいぶん進んだじゃないか」
半分ほどに減った書類の山を、感心したように見ている。
俺もつられて山へ目をやり、再びオルガに視線を戻すと、彼女が手に持っていたリンゴが消えていた。
もしゃもしゃと咀嚼しているので、もう口の中に入れたようだ。
「カツラギ。昨日渡し損ねたんだが、あんたの雇用条件をまとめたもんだ」
咀嚼を終えたオルガの手から、一枚の紙がデスクに置かれる。
「ありがとうございます」
俺は手に取って、内容に目を通した。
就業時間は9時から18時。
休日は月に最大10日まで取得可能。
給与は出勤した日数分が支給され、月末締めで翌月の頭に支払われる。
必ず週に1日は休むこと。
冒険者ギルドは年中無休のため、職員はシフト制で運用されている。
各自の休日は、業務の都合と本人の希望で調整されるらしい。
現代日本の労働制度と比べても、悪くない条件だった。
週一日の休みが必須というのは、労働基準法のようなものがしっかりしているのかもしれない。
気になったのは、残業時間の上限についての記載がなかったことだ。
日本であれば真っ先に確認する項目だが、この世界にはそもそも、残業を前提とした働き方が根付いていないのかもしれない。
それなら、定時になった途端に職員たちが一斉に帰っていくのも当然か。
ここでは、それが普通なのだ。
「明日はルティアが休みを入れている。あんたも明日は休みにしたらどうだ? 王都を見て回る時間も必要だろう」
オルガの提案に、俺は返答に詰まった。
上司から面と向かって『休め』と勧められる。
この、ごく当たり前であるはずの光景に、不覚にも胸が詰まりそうになってしまった。
大げさな表現ではない。
どちらかというと「カツラギ君、土曜日出られる?」みたいな話ばかりだったからな。
完全週休二日制とはなんだったんだ。
「そうですね。明日は、お休みをいただきます」
断る理由はなかった。
ルティアが不在の日に、俺だけが机にかじりついていても効率は上がらない。
彼女の休みに足並みを揃えるのは、業務の観点からも理に適った判断だ。
それに、街を見て回るだけでも、これからこの世界で生きていくための立派な下調べになるからな。
「コーヒーをお淹れしますね」
ルティアの声に、俺は思わず顔を上げた。
彼女は、執務室の隅の小さな棚の前で、ポットのようなものを手に持っている。
コーヒー、と確かに聞こえた。
異世界にもあるのか。
それは、地味だがありがたいニュースだぞ。
数えられないぐらい胃に流し込んできた相棒みたいな飲み物だ。
ここでも飲めるなんて、素晴らしいじゃないか。
まだ一口も飲んでいないのに、胃のあたりが先に安心した気がする。
「カツラギさんがいらっしゃるので、書類の見直しは今年いっぱいで終わりそうですね」
彼女の声には、控えめな安堵が滲んでいる気がした。
その気持ちは俺にはよく分かる。
社畜として最も心を蝕まれるのは、業務量そのものよりも『これがいつまで続くのか』という終わりの見えなさだ。
それに比べれば、たとえ道のりが長くとも、出口の光が見えてさえいれば足取りはずっと軽くなる。
「それはよかった。事務作業に関しては、私のやり方で問題なく回せそうです」
書類処理が滞りなく進んでいるのは、赤く光る能力だけが理由ではない。
これはあくまで、問題の場所を見つけるまでのショートカットにすぎない。
日本の職場で叩き込まれた業務効率化の作法が、この異世界のアナログな現場でそのまま通用していることが理由だ。
一方で、ルティアのやり方を横から見ていると、改善できそうな点がいくつも目についた。
彼女の仕事は実に丁寧だが、その丁寧さがかえって非効率を生んでいる場面がある。
同じ計算を何度も繰り返したり、書類のフォーマットが揃っていなかったり。
これは、本人の能力の問題ではない。
誰も『効率化』という発想を持ち込んでこなかった、それだけのことだろう。
「ああ、本当によくやってくれてるよ、あんたもルティアも。人手さえもう少し増えりゃ、もっと楽になるんだがな」
オルガは漏らすように言った。
実感がこもっている。
「増やすのは、難しいのですか?」
「なかなかな。そもそも、この仕事ができる人間ってのが、そう多くないんだ」
それは、気になる言い方だな。
「読み書きと計算ができれば、務まりそうなものですが」
「その『読み書きと計算ができる』ってのが、そう多くなくてな」
オルガは、腕を組んで話を続けた。
「ちゃんと文字を読めて、帳簿の計算までこなせる人間ってのは限られてる。学のある家の生まれか、商家で叩き込まれた口か、あるいは修道院あたりで仕込まれたとか、そういう連中だ」
「なるほど。そう簡単な話ではないんですね」
「それに、王都には割のいい働き口がいくらでもあるからな。わざわざこんな荒くれ者の多い辺境まで下りてくる物好きは、めったにいやしないんだ」
「では、それ以外の人たちは王都の外ですか?」
「外で畑を耕してるさ。王都の外の領地は農村ばかりだからな。読み書きなんざ知らなくても、種を蒔いて刈り入れるぶんには困らない。この国の人間の大半は、そうやって土とともに生きて、土とともに死んでいく。文字なんてものに、一生縁がないままな」
そういう背景があるなら、こともなげに事務をこなすルティアは得難い人材なんだな。
「だが、それが嫌だって連中もいる。冒険者だな。学がなかろうが後ろ盾がなかろうが、ダンジョンに潜って当てれば一攫千金だ。ハズれりゃ、野垂れ死ぬがな」
「ずいぶんと極端ですね」
「だからこそ夢があるのさ。畑にしがみついてちゃ一生かかっても拝めない大金が、運と腕次第で転がり込む。読み書きができようができまいが、そこは関係ない。腕っぷしと度胸だけがものを言う世界だ。ここにいる連中は、たいていそういう口さ」
あの荒くれ冒険者たちの正体が、ようやく腑に落ちた気がする。
彼らは大地に根を張る安定を捨て、アスファルトの隙間で咲こうとする雑草のように、一生を己の腕に賭けた者たちなのだ。
礼儀作法に欠けるのも道理である。
彼らが叩き上げてきたのは、行儀の良さではなく生き延びるための手段だからだ。
「そういえば、私には彼らの現場である『ダンジョン』というものが、まだピンと来ないですね。実物を見たことがないので」
「あんた、ダンジョンに行ったことがないのか。そりゃそうか、冒険者じゃないからな」
オルガは、腕を組み直して続けた。
「明日の午後から、近場のダンジョンの定期巡回に行くんだが、ついてくるか?」
それは、願ってもない申し出だ。
俺がこの数日、机の上で処理してきた書類は、大半が『ダンジョン』から生まれている。
冒険者が潜り、素材を持ち帰る。
その一連の流れが数字や文字に変換されて、最終的に俺の手元へ流れ着く。
いわばダンジョンは、この事業全体の最上流に位置する『生産現場』なのだ。
その現場を、俺はまだ一度も見ていない。
伝票上の品名と数字だけを相手に、分かった気になっていただけだ。
源流を知らずしてその下流を捌くというのは、どうにも落ち着かないものがある。
「いいんですか。でも、魔物が出るんですよね?」
「ああ。だが、そこの危険度は低いし、アタシがいるから大丈夫だ」
魔物にも興味はあるが、さすがに警戒心のほうが強いな。
なにせ、戦う能力のない身だ。
だが、オルガがそう言うならそのとおりなんだろう。
彼女は普段の何気ない動作の中に、ところどころ常識から外れたものが混じっている。
「私もご一緒していいですか? カツラギさんの護衛をさせていただきます」
湯気の立つカップを乗せたトレーを運びながら、ルティアが申し出た。
「もちろん構わないが、いいのか?」
「はい、午後からでしたら」
デスクに三人分のコーヒーが置かれていく。
「ルティアは、元Bランクパーティの冒険者だからな。頼りにしていい」
「それは、半年前までの話ですから……もう大したことないですよ」
「んなこたぁないさ」
控えめに応じたルティアの背中を、オルガが大きな手で叩いた。
「きゃっ」
その拍子に、彼女の胸元が揺れたので、俺は視線をカップの湯気に逸らした。
目のやり場に困る。
これも労働環境における重大なリスク要因かもしれない。
セクハラ冤罪リスク的な意味で。
「コーヒー、ありがとうございます」
礼を述べて、手に取ったカップを口元に運んだ。
深煎りの香ばしさと、しっかりした苦み。
俺の好みのど真ん中だった。
これが毎日この職場で飲めるなら、福利厚生として申し分ないな。
「明日は、よろしくお願いします」
「ああ。あんたの装備は用意しておく。詳細は朝に詰めよう」
オルガはコーヒーを一気に飲み干すと、執務室を出ていった。
その後ろ姿を、俺はなんとなく目で追う。
雇い入れたばかりの素性も怪しい男に、律儀に労働条件を書面で寄越し、休めと気を回しては明日の装備まで手配してくれる。
労務管理に関しても信頼できる上司だ。
明日のダンジョン巡回でも、頼りになりそうな背中だった。
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