第1話:マスクの下の秘密と、転校生【前編】

第1話:マスクの下の秘密と、転校生【前編】


ストレッチャーは、天井に埋め込まれた蛍光灯を、まるで写真のネガフィルムのように規則正しく切り取りながら滑らかに進んでいく。


白い光が網膜に焼き付くたび、小さな車輪が「ゴトッ、ゴトッ」と微かな振動を繰り返す。七歳になったばかりのなぎは、その振動を数えていた。


白い光と振動。それは、この病院で繰り返される、痛みと恐怖のルーチンを刻むリズムだった。


夏休み。小学校に入学して初めて迎える、太陽の匂いがするはずの長期休暇。


凪の居場所は、友達の笑い声が満ちる公園ではなく、清潔すぎて消毒液の匂いが鼻につく、この冷たい場所だった。


「凪くん、もう少し頑張ろうね。すぐに眠くなるから」


担当の看護師さんの声は驚くほど優しい。


その優しさが、これから始まる「裏切り」を予告しているようで、凪の胸は冷たい恐怖で満ちた。


凪は知っている。この優しい声の後に、いつも意識が遠のくのだ。


凪は、言われるがままに口を開けた。口蓋こうがいの奥。上顎の骨と歯茎の近くに、小さくとも確実に開いた穴がある。瘻孔ろうこう。鼻と口をつなぐ、彼の声の「欠陥」だ。


この穴のせいで、凪は笑うたび、喋るたびに、言葉の息を漏らした。特に「サ」行や「タ」行。


「スーーーッ」


それは、風船の空気が逃げるような、微かな音。凪の声、彼だけは常に、自分の恥として聞き続けてきた。この音を、誰にも知られてはならない。

それが、凪の最も切実な秘密だった。



手術室の光は、廊下のものより遥かに明るく、中央に集中していた。


周囲を取り囲む、緑色の布を被った医師や看護師たち。皆の視線が、凪の小さな体の一点に注がれているように感じた。


「さあ、お顔にマスクを当てますね」


冷たいゴムの感触。そして、マスクの奥から、一気に流れ込んでくる甘ったるい、嫌悪感を催す匂い。

麻酔のガスだ。体が本能的に警報を鳴らすが、手足はすでに手術台に縫い付けられたように動かない。


「大丈夫よ。数を数えてごらんなさい」


凪は目を閉じた。最後に見たのは、無機質な手術室の天井。意識が、濃い霧の中にゆっくりと沈んでいく。


その瞬間、凪は強く願った。


これで、私の声から、あの「逃げる音」が消えるように。これで、私は、みんなと同じ「普通の子」になれるように。


意識は、すぐに深い闇に引きずり込まれた。


◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆


麻酔から覚めた時、凪の体は、ひどく重く、世界は音を立てて腫れ上がっていた。


全身の痛みよりも先に、口の中に硬い異物感が張り付いているのを感じた。


舌を丸めてそっと上顎を探る。

そこには、新しく縫合されたばかりの、熱を持ち、鋭く引きつれた感触があった。

まるで、口の中に、誰かが熱いワイヤーを埋め込んだようだ。


最も苦痛だったのは、渇きだった。


鼻の奥には、手術カ所の保護のために、ガーゼがびっしりと詰め込まれている。


鼻呼吸はできない。口で荒く「ハッ、ハッ」と呼吸を繰り返すたび、喉は砂漠のように乾燥し、焼けるように痛む。


看護師さんがストローで水を運んでくれる。

その一口が、どれほど待ち遠しかったことか。

しかし、水を口に含むと、熱を持った縫合線に電流が走るような「ヒリッ」とした痛みが走る。


飲むことすら、許されない。


凪は、ベッドの横に置かれた点滴スタンドを見た。

チューブが繋がれた左手は、テープで固定され、自由が奪われている。

点滴は命綱。だが、そのチューブが、凪をこの痛みの空間に縛り付けている鎖のように感じられた。


夜。母親が帰宅し、病室には凪一人になった。

痛みは、夜になると一層、存在感を増す。


隣のベッドからは、同じく手術を受けたらしい、小さな女の子のすすり泣きが聞こえる。


「ママ……いたいよ……」と掠れた声。


凪は、唇を噛みしめ、全身に力を込めて痛みに耐える。


声を上げれば、傷が開いてしまうのではないかという恐怖があった。

この痛みは、この「不完全な自分」を完成させるための、試練だ。

凪はそう思い込み、枕に顔を埋めて、声なき涙を流し続けた。


数日後。腫れが引き、容体が落ち着いた頃、凪は恐る恐る病室の洗面所の鏡を見た。


口元はまだ腫れぼったいが、外から見た自分の顔に、劇的な変化はない。

鼻の下から唇へと伸びる、生まれつきの白い傷痕はんこんは、相変わらずそこにある。鼻も、わずかにつぶれたままだ。


「ああ、そうか……」


胸の奥に、深く冷たい失望が広がった。心のどこかで期待していた、魔法のような変化は起こらなかった。

これは、外見を治す手術ではなかったのだ。


しかし、最も重要なのは、声だ。


恐る恐る、静かに、声を出してみる。


「…さ…し…す…せ…そ……」


微かに耳を澄ます。


あの、「スーーーッ」という、空気が逃げていく独特の音は、聞こえない。

口蓋の穴は、確かにふさがれたのだ。


安堵あんどが全身を駆け巡った。これで、あの音から解放される。


だが、その瞬間、鏡の中の自分を見て、凪は新たな真実に気づく。


治ったのではない。隠しただけだ。


傷は、口の奥深くに引っ込んだだけ。そして、顔の白い線は、永遠に残る。

この傷跡、そしてこの入院中に経験した痛みと恐怖の記憶は、凪が「普通ではない」ことの、消えない証拠として、この体に刻み込まれてしまった。


凪は、唇を少し突き出し、人中の白い傷痕はんこんにそっと触れた。その傷跡は、もう彼の人生の一部なのだ。


この顔を持って、この声を持って、凪は明日から、再び「普通の子」という仮面を被らなければならない。


七歳の凪は、鏡の中の自分に向かって、固い決意とともに静かに誓った。


この秘密を、誰にも知られてはならない。


その決意は、新しい縫合線のように、凪の心の奥深くに、しっかりと結びつけられた


◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆


白い不織布のマスクは、水川凪にとって防具であり、沈黙の砦だった。


彼のスタイルは、その防御を徹底するために設計されていた。

髪は、無造作に伸ばされた黒髪で、目元や頬の輪郭を隠すように重く垂れ下がっている。

特に、顔の横幅を狭く見せ、マスクの上部と自然につながるよう、サイドの髪は長めだ。この重い前髪の下で、彼は常に視線を伏せがちだった。


服は、規定の制服ではあるが、誰にも注目されないように、あえて少し大きめのサイズを選んでいる。肩幅や体の線が曖昧になるゆったりとしたシャツは、彼が世界から身を隠すための保護色だった。


そのだぶついた制服のポケットには、愛用のフィルムカメラがいつも収まっていた。


高校二年生の教室。午後の、やや乾燥した空気の中で、凪は机に突っ伏してその時間をやり過ごしていた。


彼の視界に入ってくるのは、机の木目、そして時折、クラスメイトのにぎやかな笑い声の残響だけだ。

声を出さない。笑わない。顔の下半分を見せない。


これが、彼が16年間かけて築き上げた、世界との「平和条約」だった。


凪が最も隠したいものは二つある。


一つは、人中の縦に走るわずかな傷痕はんこん

それは彼が口唇口蓋裂を持って生まれた証であり、幼少期から繰り返された修正手術の「縫い目」だ。


もう一つは、その傷跡の奥に隠された、彼の「声」だった。

口蓋の瘻孔ろうこうはふさがれたものの、特定の音――特にサ行やタ行といった破裂音――を発する際に、わずかに鼻腔びこうへ空気が抜ける独特の「空気漏れ」の音。


その微かな異音こそが、凪にとって、自身が世界から疎外された存在であることを絶えず告げるアラームだった。


だから、彼はほとんど喋らない。喋る必要があるときも、声帯を震わせるだけの、自信のない小さな声で、言葉の端を飲み込むように答える。


昼休み。

凪は席を立たず、愛用のフィルムカメラをそっと撫でた。


言葉にできない感情は、すべてファインダー越しに昇華される。


彼は、雨上がりの水たまりに映る不完全な反転世界や、廃墟の割れたガラス窓が捉える光の歪みを好んだ。歪み、不完全さ、そして沈黙。

それこそが、凪自身の写し鏡だったからだ。


「水川、写真部の活動、真面目にやってるか?」


担任の声に、凪はびくりと肩を震わせた。顔を上げると、教卓の前には、担任と、一人の少女が立っていた。


「……はい」


凪の喉から出たのは、カサカサとした、蚊の鳴くようなか細い音だった。

彼は、教師が聞き返す前に、次の言葉を続けようと反射的に口を開きかけるが、すぐにそれを堪えた。

口蓋に張り付いた喉の奥の違和感が、彼に沈黙を強いる。


担任は、凪の返事の小ささには慣れているように、深く追求せず、隣に立つ少女に視線を移した。


「こちらは転校生の遠野葉月さんだ。遠野は写真に興味があるらしい。水川、おまえ、部長だったな。放課後、一度部室に案内してやれ」


凪は初めて、その転校生をしっかりと見た。


彼女は、まるで光を浴びるために生まれてきたような、眩しい存在だった。


すらりとした体躯に、長くまっすぐな黒髪。制服は真新しいが、まるで以前からこの教室にいたかのように、彼女の存在は周囲の空気と完璧に調和していた。


何よりも目を奪われたのは、その「顔」だった。

マスクをしていない。そして、驚くほど美しかった。


整った目鼻立ち。教師に向かって、わずかにほほ笑んだその顔には、一点の曇りもない。その完璧なほほ笑みは、彼の知る世界には存在し得ない「完成形」に見えた。


そして、彼女の口元。


凪は反射的に、自分と彼女の口元を比較した。

彼の視線は、無意識のうちに、少女の唇の上部、人中と呼ばれる縦の溝を走る。

自分の人中には、幼い頃から修正を重ねてきた縫合線の名残がある。


薄くはなったものの、光の加減や表情の変化でわずかに皮膚の引き攣れが見て取れる。それは、凪にとって、決して消えない「証」だった。


だが、この転校生には――何もない。


完璧。傷ひとつない、無垢なキャンバス。


「東京から転校してきました、遠野葉月です。一年間、よろしくお願いします」


遠野葉月の存在は、教室の空気に一筋の光を差し込んだようだった。

彼女のスタイルは、凪の自己防衛的なスタイルとは対極にある、徹底した洗練と計算された完璧さで構成されていた。

髪型は長くまっすぐな黒髪で、均一に手入れされ、肩甲骨の下まで滑らかに流れていた。


重さや野暮ったさはなく、動くたびに光を反射するその艶は、彼女が細部にまで気を配っていることの証だった。


前髪は目の上ぎりぎりで切り揃えられ、小顔の美しさを際立たせていたが、その奥の瞳は常に静かで、凪には感情を読み取ることが難しかった。


服装は規定の制服を着用しているものの、サイズは身体にぴったりと合っており、清潔感と規律正しさが際立っていた。


スカートの丈は校則通りだが、着こなしに一切の乱れがない。

その立ち姿からは、彼女が「普通であること」、あるいは「優等生であること」を極限まで追求してきた努力の結晶が見て取れた。


凪から見た葉月は、まるで光を浴びるために生まれてきたような、眩しい存在だった。

彼女には、凪が日々マスクで隠し続けるような、一点の曇りもない。


その完璧な美しさと、自信に満ちた立ち振る舞いは、凪にとって、自身の傷と不完全さを容赦なく映し出す「鏡」であり、同時に、絶対に手の届かない「理想の完成形」に他ならなかった。


彼女の声は、澄んでいて、淀みがなく、まるで訓練されたピアニストが奏でる正確な音階のようだった。


教室にいたクラスメイトたちが、一斉に小さなどよめきと好意の視線を葉月に送る。


彼女は、まるで舞台女優のように、堂々と、自信に満ち溢れていた。

凪の胸に、底知れぬ混乱と、激しい敗北感が押し寄せる。


なぜだ。どうしてだ。


彼女は、なぜこんなにも完璧なのだろうか。


凪は、葉月の顔が、一瞬だけ、ほほ笑みで引き攣るのを見た気がした。


次の瞬間、彼女の目は凪の、マスクで覆われた顔の下半分、正確には彼の目の奥を、まるで何かを探すように、強く見つめた。


その視線は、好意とも好奇心とも違う、何か「知っている」というような、冷たい探求心に満ちていた。


そして、葉月は「よろしくお願いします」と深く頭を下げた後、わずかに唇の端を上げた。

その完璧な笑顔が崩れる、ほんの一瞬。


凪の視力が、その時だけ異常なまでに鋭敏になった。


(……待て)


彼の目に映ったのは、彼女の唇の端、口角のわずか外側。


そこに、光を弾いて消える、一本の微かな線。


それは、彼の知る、あまりにも微細で、あまりにも個人的な「縫い目」の記憶と、奇妙に重なっていた。


そして、葉月が再び担任に向き直り、「写真部に興味があります」と、強調するようにサ行を発した瞬間。


(ああ……)


凪の耳に、聴き慣れた、そして最も恐れていた音が、微かに、しかし確かに響いた。


「サ」の音を発するとき、彼女の澄んだ声の奥底に、一瞬だけ混じる「空気漏れ」の音。


それは、幼い頃の凪自身が、鏡の前で発音練習を繰り返していた時に出していた、あの病院の、あのリハビリ室で響いていた「不完全な音」と同じ微細な息の抜け方だった。


凪の心臓が、鼓膜を突き破るかのように激しく脈打った。全身の血が凍り付くような衝撃。


彼は、その完璧な美しさと声を持つ転校生が、自分と同じ「痛み」を抱えていることを、唯一見抜いたのだ。そして同時に、深い混乱と恐怖に襲われた。


なぜ、彼女はそれを隠し、あんなにも太陽の下で笑っていられるのだろうか?


そして、もしかして、彼女は……あの時、いつもプレイルームの隅で静かに絵を描いていた、あの少女なのだろうか――。


つづく

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