拝啓、これから退化してゆく私達へ

@sokorahennnotokoroten

拝啓、これから退化してゆく私達へ

拝啓、これから退化してゆく私達へ。


いつからだろう。

文字を読み解く力が、まるで薄い霧のように、

静かに、しかし確実に私達の間から消えつつあることに気づき始めたのは。


「退化」という言葉は、本来は過去へ逆戻りするという意味ではない。

ダーウィンが語ったのは、

“環境に必要のない機能は、やがて消える”

という、ただそれだけの自然な原理だった。


必要とされなくなる。

使われなくなる。

そして、気づけば失われる。

それが退化だ。


その原理を思う時、私はふと、

私達の顔の上に何千年も寄り添ってきた「顔ダニ(ニキビダニ)」のことを思い出す。


彼らはもともと、もっと多くの能力を持っていたと言われる。

光を感じる力も、外界を探る能力も。

しかし、人間の皮膚という安定した環境の中で暮らすうちに、

彼らは“自分で判断する必要”を失い、

目も、複雑な筋肉も、行動パターンも次第に衰えていった。


人間という巨大な環境にすべてを委ねた結果、

使わない機能は、進化の流れの中で削ぎ落とされていったのだ。


現代の子どもたちは、読まなくても要約が出てきて、

書かなくても変換が予測してくれて、

考えなくても検索が教えてくれる世界に生きている。


もしかすると、私達が“識字力の低下”と呼んでいる現象は、

ダーウィン的には次のように描写できるのかもしれない。


必要性の消失に伴う、自然な機能の縮退。


数学の文章題が読めない子がいる、

長い文章を理解できないまま学年が進む、

辞書を引く習慣自体が文化ごと消えつつある。


これを単に「怠け」や「質の低下」で語っても、

問題の本質には触れていない。

顔ダニが怠けたのではないように、

これは“環境があまりに快適になりすぎたゆえの自然現象”だ。


学びが、努力ではなく機能依存へ移っていく。

それがいまの時代の空気だ。


退化とは、能力がなくなることではなく、

“ある環境に合わせて余分なものを捨てること”でもある。


いまの子どもたちは、

大量の情報から必要なものを選び取る速度や、

映像やデータを使って構造を理解する力、

協働して課題を解く柔軟性など、

従来とは異なる能力を身につけつつある。


暗記の量は減っても、

情報をつなぐ力はむしろ増している。


文章を深く読む時間は減っても、

複数の視点から判断する機会は増えている。


私達が「退化」と呼ぶその変化は、

実は“役割の組み換え”なのかもしれない。


ただ、顔ダニの例が暗示しているのは、

環境が完全に外部依存型になると、

生物は“自分ではできないこと”が増えていくということだ。


もし私達が今の流れを止めないまま進むなら、

読み解く力、

自分の言葉をつくる力、

じっくり考える力は

ますます薄れてゆくだろう。


それは文明としての「後退」ではなく、

環境型進化による何かの“置き換え”だ。


けれど、顔ダニが数万年かけて失った機能は、

もう二度と取り戻せない。


だからこそ、私達は問い直さなければならない。


便利さに寄りかかることで失っていくものと、

その先に得られる新しい能力。

その両方を見ながら、

どの未来を選ぶのか。


退化という言葉は、時に不安を呼ぶ。

けれどそれは絶望ではなく、

“選択のサイン”だ。


顔ダニのように、ゆっくりと、知らぬ間に失われていく前に。

読み、書き、考えるという古くからの能力を、

どれほど残し、どれほど手放し、

どのように新しい力と混ぜ合わせていくべきか。


これは、社会全体が静かに直面している問いなのだろう。


退化は恐れではなく、向き合うべき現象だ。

そして私達は、その方向を選ぶことができる。


敬具

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