2
「会談は明日だ」
いつものように部屋にやってきたツェータが言った。床には、昨日の女が脱ぎ捨てた下着が落ちていた。
「会談? 誰と」
俺がそう言うと、ツェータは汚物を見るような目で俺を見た。
「この前言っただろう、隣国の使者との会談だ」
この前?
記憶になかった。何かそんなことを言われただろうか。
「一昨日の朝、お前に言っただろう」
一昨日。
俺はあの違和感を思い出す。
ああ、あのときか。
「聞いてなかったのか」
ツェータはもはや呆れることもしない。
会談、か。
隣国。もう百年以上、正式な国交もない国。その隣国と、どうして今更会談なんて――とは、俺もさすがに言わなかった。緊急事態なのだ。今、隣国では、疫病が未曾有の大流行をしているという。いくら国交がないとはいえ、違う星の話ではない――むしろ隣なのだから、噂くらいはいくらでも入ってくる。そう、例えばあの本のように。無論、その噂を伝える他の国も疫病には無関係ではないようだったが、特に隣国では、流行が著しいらしい。
――疫病、隣国。
そう言われれば、この国の民はみな複雑な顔をするだろう。
この国は、百年前疫病に襲われた。国民が次々と命を落とす中――当時の両国の王は、国交を断絶する決断をした。
恐らく、さまざまな理由があったのだろう。もともと二つの国は、あまりの気質の違いから非常に仲が悪かった。
毎日神に祈りをかかさず捧げ、厳格な生活を営む隣国。
彼らが、俺たちの国をこう呼んでいたのは有名だった。
――『堕落した国』。
享楽的で、快楽的。即物的で気持ちいいことが大好きで、同性間でも異性間でもセックスするのが当たり前。そんな我々を、彼らは嫌悪していた。
同じ言葉を使う二つの国。
そこに存在する、『しるし』という明確な違い。
彼らは『しるし』を堕落の証と捉えていた。
だからきっと、当時の疫病の流行を、我々に下った罰だと思っていたに違いない。
そして、彼らは切り捨てた。
二つの国の間に、『扉』が建設された。大きな壁と、その真ん中にある大きな扉。無論、それは本当に、絶対に往来が不可能になるものではない。その壁にも果てはあって、そこを超えれば行き来は可能だ。だが、その扉が国王二人の見守る前でしっかりと閉ざされた時――二つの国は国交を完全に絶った。
そしてこの国は深刻なダメージを受けた。
それでも、この国はそれを乗り越えた。
そして隣国で、今疫病が流行っている。
「そうか、隣の国と……」
独り言のように呟く。
「会談には俺も参加する」
ツェータが言う。
「そうか――ありがとう」
「仕事だからな」
なんでもないことだという顔をするツェータ。この旧友の、こういうところが頼もしいと俺は思っている。
「そうだな」
もちろん、そんなことは口には出さない。
「そのことについて国王から話があるそうだ。執務室へ向かってくれ」
話?
一体なんだ。
俺は言われた通り、親父の――国王の部屋へと向かった。
「よろしいですか」
重厚な扉を三度ノックし、中へと呼びかけた。声が聞こえる。
「ルーか。入れ」
「失礼いたします」
扉を押し開け、中に入る。
静謐な空気。張り詰めているようだ。いつ来ても、ここは落ち着かない。
俺は将来、こんなところにいることになるのだろうか。目の前の国王を見る。ここで、このように働くのだろうか。
国王は、何か書類に目を通しているところだった。
「どうした」
視線を落としたまま、国王が俺に問いかける。
「明日のことについてです」
俺がそう言っても、国王は視線を下ろしたままだ。俺は続けた。
「私は明日、隣国の使者と会談いたします」
「そうだな、そう伝えてもらった。来訪するのは、彼の国の皇子だ」
「皇子が?」
「ああ、かの国の第二皇子だ。お前にはその歓待をし、この国の代表として会談をしてほしい」
言い終わった国王に、俺は問いかける。
「議題は、疫病についてですね?」
「そうだ」
「隣国は、我々の国に救いを求めようとしている。そのための会談ですね?」
「あっている」
「わかりました。私はこの王国の代表として、王のご判断をしっかり伝達いたします」
いつものように言うと、国王が言った。
「今回の判断はお前に任せる」
俺の眉間に、自然に皺が寄った。
「判断を、私に?」
「そうだ。全面的にお前に任せようと思っている」
「それは――その、隣国の要望に応じるか、拒否するかということ含め、すべて?」
「その通りだ」
そこでようやく、国王は書類から目を上げた。両手を顔の前で組み、こちらをじっと見る。威厳。威圧。荘厳。さまざまな言葉が俺の脳裏に浮かんだ。
俺は、しばらく何を言えば良いのかわからなかった。
「それは、その」
大仕事だった。
何せ、百年国交がなく、もはやこじれるような関係さえない隣国との会談だ。向こうでは疫病が猛威を振るっていて、しかし昔の話があり、だから――。
俺は、ただの伝書鳩をするのだと高を括っていた。
国王が言った。
「お前も、そろそろ決断することを学ばなければならない。この国を背負う王となるために、決断をしなければならない」
決断という言葉が脳裏に重く響いた。
国王の後ろに、国旗が掲げられている。
歴史という言葉が不意に俺の頭に浮かんだ。
その時何かを理解した。
俺は今まで、歴史というのは、過去という意味だと思っていた。
違う。
歴史は、今も作り出されている。数多の決断と、行動によって。
この国と隣国の間の歴史――俺が、それを。
「それが今回のお前の仕事だ。何、難しいことじゃない。ただ決めるだけだ(傍点)」
国王が言った。
決める、だけ。
俺は、国王と目を合わせたまま動けなかった。しかし、そのとき俺にできることは何もなかった。
俺の仕事はたった一つ。
決めるだけなのだ。
なんとか、喉の奥から声を絞り出す。
「わか――りました」
そう言い、体を翻した。
「頼んだぞ」
扉を閉める俺の背後に、そんな声が聞こえた。
「どうしたんだルー、沈んだ顔して」
廊下を歩く俺に話しかけたのは、近衛隊の隊長カーツだった。
「あんたか」
カーツは今日は任務のない日なのか、普段の甲冑を装備していなかった。大きな肉体が、服の上からでもしっかりわかる。鍛えられた肉体。太い首の上に乗った顔は、男らしいはっきりした顔つき。短く切った栗色の髪。
「元気ないな」
俺は、その筋肉の膨らみのある胸を見た。
カーツの『しるし』は、その胸元にあるらしい。彼は、まるで剣で斬られたように斜めに走るその『しるし』を誇っていた。自分は前世から闘士なのだと、これはその証明なのだと。
「どうした? ん? そんなに俺を見つめて。改めて惚れちまったか? いいだろう、俺が相手してやる。一発出せばスッキリするぞ」
快活に笑いながら、そんな冗談を飛ばしてくる。いや、もしかするとまんざらでもないのかもしれない。
この男は、相手が男でも女でも、それこそ男相手だとしたらどちらでも(傍点)こなすのだと言われていた――というか、本人が自分でよく豪語していた。
「なんてな、ははは」
幼い頃から近くにいるのもあり、この距離感は不快ではない。この男は、俺に気を使わなくて良い関係を作ってくれた。意外と、些細な気配りのできる男なのだと思っている。悪意みたいなものが一切なくて――そこがきっと、居心地がいいのだろう。きっと今だって、俺の様子を心配して敢えて軽口を叩いているのだ。
黙っていると、カーツが続けた。
「どうした、本当に大丈夫か?」
「ああ、……大丈夫だよ」
「ならいいが。オウジサマに元気がないと、国民も心配だからな」
「それは、そうだな」
「そうだ! 久しぶりに手合わせでもするか? 腕はなまっちゃないだろう?」
ぐるぐると腕を回しながらカーツは言った。
「ああ、……」
手合わせか。鍛錬は欠かしていないが、カーツ相手に今の俺がどこまで喰らいつけるか。そんなことを想像したら、少し気がまぎれた。
しかし。
俺は思い出す。
俺には仕事があった。
「ありがとう、だけど少し先になるかもしれない。重要な会談があるんだ」
「あぁ。明日来るっていう隣国の皇子とか?」
さすがにその事情も知っているらしい。というか、俺が聞いていなかっただけだ。
「そうだ」
「そうかあ、オウジサマは大変だ」
俺は思わず、少し笑った。
「まあ、あんたなら大丈夫だろ」
俺の事情を知ってが知らずか、そんなことを言うカーツ。
「終わったら手合わせだ、約束だぞ」
そう言って、俺に笑いかけた。
夜、俺は大広間の椅子に一人座っていた。
もうすぐ明日がやってくる。この国に、百年ぶりに隣国の使いがやってきて、ここで俺と会談する。蝋燭もつけていないので、部屋は月明かりで青白く照らされているだけだ。
俺の目の前には、先日買ってきた隣国の本が置かれていた。
ここに、何かのヒントが載っているのかもしれない。
しかし、本を開く気になれない。
装飾のない、飾り気のない表紙。見慣れた文字でタイトルが書かれている。
『向こう側に』
椅子に座って、表紙をずっと睨みつけていた。そうしていれば、中身が透けて見えればいいのに。そんな馬鹿なことを考えていると、
「ルー、どうした。眠れないのか?」
そう、声が聞こえた。開いた扉から光が差し込んで、一人の影がそこに立っている。
「兄さん」
そこにいたのは、俺の兄、タスクだった。タスクは部屋に入り、俺の隣の椅子に座った。
「何かあったのか?」
「いや、何も――」
ないよ、そう言いかけて、立ち止まる。
「なぁ」呼びかけた俺に、
「ん?」微笑みかける兄。
兄の顔は綺麗だった。美しく整っているという意味だけでなく、物理的に(傍点)綺麗だった。
――『しるし』のない顔。
いや、顔だけでない。兄の体には、どこにも『しるし』がないのだ。
俺の何倍も、いや何十倍も聡明で、気遣いができ、国民のことを常に考えている兄。
俺の顔がぴくっと引き攣った。まるで『しるし』が疼いているみたいに。
俺に、
俺にこんなものがなければ、
兄が――。
「いや、なんでもないよ」そう呟いた俺に、兄は、
「そうか」
それだけ言った。本当はなんでもないことなんてないとわかっているはずだけれど、兄はそれ以上踏み込んでこなかった。
しばらくの沈黙。兄は俺が何かを語るのを待っているのかもしれない。
「この本は?」
「ああ、それは市場で――」
言いかけたとき、再び扉が開いた。
「タスクさん、いらっしゃいますか?」
そして声がかかった。兄の妻だった。
「ああ、いるよ」
兄が答える。彼女は隣の俺に気がついて、
「ああ、ルーさん。どうしたんですか」
そう言いながらゆっくりと部屋に入ってくる。その腹部は大きく膨らんでいる。新たな命を宿しているのだ。
「そちらこそ。こんな時間に起きていると、お体に障りますよ」
俺が言うと、
「ふふ、ルーさんは優しいですね」
そう微笑む。
兄は明らかに俺のことが気になる様子だったが、仕方ないと立ち上がり、彼女の方へと向かった。兄は羽織っていた服を脱ぎ、自然に彼女にかけた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
二人は言う。
「おやすみなさい」
俺は答え、扉が閉まるまで二人を見送った。
そして、ようやく眠気が訪れてくる。重たくなるまぶたを持ち上げ、俺は部屋に向かうべく手元の本を持って立ち上がった。
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