お帰りなさいと、ただいま

 玄関のドアの向こうから、キャリーケースを運ぶ音が、だんだんとはっきりしてくる。

 規則正しい車輪の音に、少しだけ弾むような足取りが混じっている。


(……七海ななみちゃん、よね)


 インターフォンを押す前から分かるくらい、その響きは、あまりにも分かりやすい。

 私は待ちきれなくなって、ドアノブに手をかけ、そのまま玄関のドアを開けた。


「――あっ」

 ちょうど手を伸ばしかけていた七海ちゃんが、目を見開く。

 一瞬、驚いたように立ち止まったけれど、その次の瞬間には、ぱっと表情がほどけた。


はるかさんー!」

 キャリーケースの持ち手から手を離し、ためらいもなく、こちらへけてくる。

 そのまま勢いよく、私の胸に飛び込んできた。


「……ちょ、ちょっと」

 思わず両腕で受け止める。

 想像以上の勢いに、身体が少しだけ後ろに揺れた。


「そんな勢いで飛びついてきたら、危ないでしょう」

 支えながら、低く言う。

「それに……ほら、ドアも開いたままで。ご近所さんの目もあるでしょ?」


 七海ちゃんは、私の胸元に顔をうずめたまま、少しだけ顔を上げる。


「でも……」

 少しすねたような声で、七海ちゃんは続ける。

「ずっと、飛びつきたかったんですよう……」


「……もう」

 ため息まじりに、でも、突き放すことはできない。

「とりあえず、荷物を入れて。ドア、閉めましょう」


「……はーい」

 ゆっくりと腕をほどいて、七海ちゃんは一歩下がった。

 キャリーケースのところへ戻り、取っ手をにぎる。


 玄関の中へ、ケースを引き入れたところで、私はドアを閉めた。

 カチリ、と鍵のかかる音がして、ようやく外の気配がさえぎられる。

 その直後、今度はさっきよりずっと控えめに、七海ちゃんが、そっと近づいてくる。

 背中に回された腕が、やさしく、でも確かに私を抱きしめた。


「……」

 私は、一瞬だけ目を伏せてから、静かに声をかける。

「お帰りなさい、七海ちゃん」


 胸元から、少し遅れて返ってくる声。

「た、ただいま……遥さん」


 小さくて、少し照れた響き。

 それでも確かに、帰ってきたっていう声だった。

 私はそのまま、軽く七海ちゃんの背中に手を添える。

 抱き返すほどではない、でも拒まない距離。

 玄関に、ようやく二人分の空気が落ち着く。


(……無事に、戻ってきた)


 それだけで、とりあえずは十分だ。


「とりあえず、靴、脱いで」

 私は七海ちゃんの背中に添えていた手を離して、やさしくうながす。

「それから、テーブルで座って、お話しましょう?」


「えー……」

 七海ちゃんは、離れたくないという様子で、私を見上げる。

「もうちょっと、遥さんを味わいたいです……」


「……」

 私は一瞬だけ考えてから、ため息まじりに言った。

「じゃあ、ソファで抱きついてて、でいいから」


「それなら、だいじょうぶです!」

 即答だった。

 靴を脱ぎ、キャリーケースを壁際に寄せると、二人でリビングへ向かう。


 私がソファに腰を下ろした、その瞬間だった。


「……っ」

 間を置かず、七海ちゃんが横からするりと入り込み、腕ごと私に抱きついてくる。

 胸に頬を押し当てて、安心しきったように小さく息をついた。


「……もう」

 言葉とは裏腹に、突き放す気にはなれない。

 私は視線を前に向けたまま、話を戻す。

「それで? 全部終わったって、どういうこと?」


「はい」

 七海ちゃんは、抱きついたまま、少しだけ顔を上げる。

「だから……今月末で、出てっていいって言われました」


「……誰に?」

「オーナーさん? たぶん」


 たぶん、って。

 私は、思わず眉を寄せる。

「……お金は? お家賃の精算も、あるでしょう?」


「ありますあります」

 七海ちゃんは、なぜか得意げだった。

「今月分は返してくれるし、来月分はいらないそうです」


「……なに、それ」

 思わず、声が低くなる。

「破格すぎない?」


「えっとですね。私が、引っ越し先はもう見つけたって話して」

 私に抱きついたままの七海ちゃんが、少しだけ体を起こして、説明を始める。

「でも、家賃は前払いで……私、まとまったお金はなくて、って言ったら」


「うん」


「今月末までに退去するなら、お金、返してあげるって。それに……その話を聞いてた、ほかの住民の皆さんも」

「え? ほかの人も聞いてたの? その話」


「はい。それで、せんべつ? っていうんですか? みんなが少しずつお金をくれて、一か月分のお家賃と同じくらいのお金、くれました」


「……」

 一瞬、言葉が出なかった。


(みんなどれだけ、この子を追い出したかったのかしら)


 見たこともないオーナーと、顔も知らないほかの住民たちの必死さが、妙に伝わってくる。

 同時に、ちょっとだけ、同情もした。


「……で?」

 私は、深く息を吐いてから続きをうながす。


「それで、引っ越し先のことを聞かれたんで」

 七海ちゃんは、少し照れたように笑う。

「お家賃の取り立てが、すごく厳しいんです、って言ったら、なんか、すごく心配されちゃって、困ったら、すぐ連絡するのよ、とか……」


「……ちょっと」

 私は、思わず声を上げる。

「なんてこと、言うの」


「え?」

 七海ちゃんは、きょとんとする。

「でも、取り立てが厳しいのは事実ですし……ウソ、ついてないですよ?」


「そういう問題じゃなくて……」

 私はこめかみを押さえた。


(そりゃ、そう見えるわよね)


 おとといの木曜の夜、遅くに帰宅して、次の金曜は帰ってこない。

 それで週末の今日、仕事着のスーツのまま朝帰りして、しかも、やけにうれしそう。


(急にができて、その彼氏は……)


 この身体を存分にもてあそぶどころか、金を巻き上げようとする、ろくでもない

 ――ほかの住民たちがそう察しても、無理はない。

 お金をあげてでも出ていってほしい相手だとはいえ、さすがに少し、心配になってしまったのだろう。


「……はぁ」

 私は、長く息をはく。


「でも、ちゃんと、終わりましたよ?」

 七海ちゃんが、少し不安そうに私を見る。

「分からないところは、何回も聞きましたし、書類だって、ほら」


 ごそごそとジャケットの内側から、だいぶくしゃくしゃになった紙を取り出して、私に見せる。

 ――ざっと読む限り、確かに今月分のお金は返すとか、書いてある。


「……そう」

 私は、七海ちゃんの髪に、そっと手を置く。

「まあ、それなら、いいわ」


「……ほんとですか?」

「ええ」


 七海ちゃんは、ほっとしたように、もう一度私に抱きついた。


(……ほんとに)


 いろいろと、振り回される。

 でも、この子は――ちゃんと、自分の足で戻ってきた。


 私はそう思いながら、腕の中の重みを、もう少しだけ受け入れることにした。

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