「血脈という名の、密室。」

志乃原七海

第1話ここから、すべての惨劇が始まります



***


# 小説『共犯の血脈』


## 第一話「ガラスの呼吸、青白い肖像」


1980年、春。京都。


「僕が、さゆりの夢を支えるよ。君は社会を変える仕事をしてるんだ。家のことは心配しなくていい」


壬生(みぶ)家の、重苦しいほど広い座敷。

庭の桜はあまりに満開すぎて、散りゆく花弁が血の跡のように地面を埋め尽くしている。腐った甘い香りが、湿った空気の中に停滞していた。


縁側で、夫・孝之(たかゆき)はそう言って微笑んだ。

人の良さそうな、少し垂れ目の平凡な男。その笑顔は、どこか張り付いたように動かない。格式ある壬生家への婿養子という重圧で、彼の表情筋はすでに引きつり始めていたのかもしれない。


その横で、生まれたばかりの赤ん坊――千早(ちはや)が、あくびをした。

赤子特有の無垢さはそこになく、どこか冷めた黒い瞳で、虚空をじっと見つめている。


さゆりは、新米の母親というよりは、獲物を前にした獣のような光を目に宿していた。


「ありがとう、孝之さん。私、絶対に手に入れるから。バレーボールの栄光も、報道のエースの座も……全部」


それは誓いではなく、自分自身にかけた呪いの言葉のように響いた。


***


**1983年。**


「ヒュッ……ヒュウウ……キリキリ……」


真夜中の壬生家。

幼い千早の喉の奥から、ガラス片を擦り合わせるような、耳障りな音が響き渡る。

重度の小児喘息。

だが、その音は病気の苦しみというより、この家の古びた柱や壁が軋む音と共鳴し、家全体が呼吸しているかのような不気味さがあった。


「千早、大丈夫か? 水だ、水……」

パジャマ姿の孝之が、震える手で背中をさする。

千早は白目を剥きかけながら、喉をかきむしる。発作のたびに、娘が人間ではない何かに変貌していくような錯覚に、孝之は怯えていた。


襖(ふすま)が音もなく開いた。

「退きなはれ。あんたの手は冷たいんや」


母・茂子(しげこ)だ。暗闇に目が慣れすぎているのか、明かりもつけずに千早の元へ寄る。

「よしよし、千早。おばあちゃんがおるからな。……息、吸うてみ。そや、もっと深く……私の空気を吸いなさい」


吸入器の音と、茂子の呪文のような囁き。

千早の呼吸が落ち着くと、茂子は暗闇の中でギロリと孝之を見た。


「……さゆりは?」

「えっと、東京で……疑獄事件の取材が……」

「またか。あの子は、娘が死にかけてる時に、死にかけた政治家の腐肉を突っつき回しとるんか」


「仕事ですから……彼女の欲望(ゆめ)ですから」

孝之は言い訳をするが、言葉尻は自信なさげに消えた。


茂子は口の端を歪めて笑った。

「欲望、結構。あの子は昔からそうや。欲しいものは何を踏み潰してでも手に入れる。……あんたも、千早も、その踏み台の一つに過ぎんのやで」


孝之は何も言えなかった。娘の背中を撫でる茂子の手が、まるで所有物に焼き印を押すかのように強く食い込んでいるのを見て、背筋が凍ったからだ。


***


**1984年、冬。**


東京、六本木。テレビ局の編集室。

紫煙と怒号が渦巻く男たちの巣窟で、さゆりは受話器を握りしめていた。

目は充血し、化粧は崩れ、しかしその表情は恍惚としていた。


『……さゆりか。千早が熱出した。今すぐ帰れんか。今回は悪い』

茂子の声は、いつになく低い。


「お母ちゃん、無理や。今、特ダネの裏取り中なんよ。これが決まれば、私はメインキャスターの座に……」

『あんた、自分の娘がどうなってもええんか』


さゆりは一瞬、言葉に詰まる。しかし、視界の端に映る編集中のモニター――自分が映るリハーサル映像――を見た瞬間、迷いは消えた。

モニターの中の自分は、美しく、自信に満ちて輝いている。それが「本当の自分」だ。


「千早には、お母ちゃんがおるやんか。頼むわ。あの子によろしく言うて! ママは偉い仕事をしてるんやって!」

ガチャン。


一方的な通話。

さゆりは受話器を置くと、ふう、と息を吐き、そして笑った。

(邪魔しないでよ。家族ごっこなんて、暇な人間のすることや)

罪悪感? そんなものは、出世の階段を一段登るたびに削ぎ落としてきた。


***


**京都、壬生家。**


電話を切られた茂子は、受話器をゆっくりと置いた。

その顔には、怒りも悲しみもなく、ただ能面のような無機質な静けさがあった。

「……捨てよったな」


居間では、高熱を出した千早が、布団から這い出るようにしてテレビにかじりついていた。

画面には、現場リポートをするさゆりの姿。

ブラウン管の走査線越しに見る母の顔は、照明の加減で青白く発光し、まるで死人のようだ。


「……ママ」

千早がうわ言のように呟く。


「千早、消すで」

茂子がリモコンに手を伸ばすが、千早はその手をパシリと払いのけた。

熱のある子供とは思えない、強い力だった。


「消さないで……ママ、綺麗やから。そこにいるママだけが、綺麗やから」


千早は小さな手で、冷たいブラウン管の表面を愛おしそうに撫でた。

静電気のパチパチという音が、指先と画面の間で弾ける。


「千早も……画面の中に入りたい。こっち側は、寒くて、暗いから」


その異様な姿を見た瞬間、茂子は口元を歪めた。恐怖ではない。満足感に似た笑みだった。

(この子は、もう壊れてる。母親のぬくもりより、電気信号の光を選びよった。……これなら、壬生の家を継げる)


部屋の隅で膝を抱えていた孝之は、その光景を見て嘔吐感をこらえていた。

妻も、義母も、そして娘さえも。

誰も「人間」をしていない。ここは、化け物の巣だ。


***


**そして、決定的な断絶。**


ある週末。さゆりが久しぶりに帰宅した。

手には東京土産の高級なリボン。その赤色が、陰鬱な日本家屋にはあまりに毒々しい。


「ただいま! 千早、元気にしてた?」


玄関の引き戸を開けると、冷気が足元を這った。

生活音がない。

居間に進むと、茂子と孝之が座卓を挟んで対峙していた。

テーブルの上には、緑色の紙。離婚届。


「……え?」

さゆりの笑顔が、瞬時に不機嫌な仮面へと変わる。


「さゆり」

孝之が顔を上げた。その目は落ち窪み、数日で十年老け込んだように見えた。

「もう、限界だ。君を応援するとか、そういう次元じゃない」


「何言うてんの? ちょっと忙しかっただけやんか」


「千早を見たか?」

孝之が震える指で、奥の部屋を指差した。

「あの子はもう、僕の声も聞こえてない。一日中、砂嵐のテレビを見つめて笑ってるんだ。君が映っていなくても、『ママがいる』って言って……!」


「……」


「君は、仕事という宗教に家族を生贄にしたんだ! 僕も千早も、君の『経歴書』を飾るためのアクセサリーじゃない!」


さゆりは鼻で笑った。

「アクセサリー? 何を卑屈なこと言うてんの。あんたが弱すぎるだけや。私が稼いで、私が有名になって、何が悪いの?」


「……化け物め」

孝之は立ち上がった。恐怖に突き動かされるように。


「出て行く。今すぐ、この家から逃げ出す」


「待ちなさいよ! 千早は!? 千早を置いていく気!?」


「連れて行けるわけがないだろう!!」

孝之は絶叫した。

「あの子はもう、君と義母さんの作品だ! 僕があの子を見ても、もう娘だとは思えないんだよ……目が、君と同じ目をしているんだ!」


茂子は黙って、湯呑みをすすっていた。

その姿は、まるでこの崩壊劇を特等席で楽しむ観客のようだった。

「さっさと行きなはれ、孝之さん。この家に、あんたの居場所は最初からなかったんや」


孝之は転がるように去った。逃げるように、一度も振り返らずに。

さゆりは彼を追おうともせず、苛立ちを隠せない様子でリボンを床に叩きつけた。


ふと、奥の襖が開いた。

千早が立っている。

熱は下がったはずだが、顔色は蝋人形のように白い。


千早は、去っていった父親のことなど気にも留めず、床に落ちた赤いリボンを拾い上げた。

そして、さゆりを見上げた。


「ママ……おかえり」


千早は笑っていた。

口角だけを不自然に吊り上げた、完璧な笑顔。

それは、さゆりがテレビカメラの前で見せる「作った笑顔」と、寸分違わぬものだった。


その瞬間、さゆりの背筋に冷たいものが走った。

鏡を見ているようだ。

愛おしさなど微塵も湧かない。ただ、自分の醜悪な内面が具現化して、目の前に立っているような生理的な嫌悪感。


(この子は、私の子供やない。私の『業(ごう)』そのものや)


「……ただいま、千早」


さゆりは引きつった顔で返した。

抱きしめようとはしなかった。

薄暗い廊下で、母と娘は触れ合うこともなく、互いに完璧な笑顔を張り付けたまま、ただ見つめ合っていた。


ガラスのように冷たい呼吸音だけが、静寂を埋めていた。

この血脈は、いずれ現代の東京で、さらなる悲劇を生むことになる。


(第一話 完)

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