#2-2
川上家は、都内の外れ、K市の住宅街の一角にある、3LDKのマンションの一室である。
夏希は一人っ子なので、ここに住むのは父の健介と二人。それにしては、やや広すぎるきらいがなくもない。入居した時はまだ母が生きていたのだろう。
健介は既に夕食のカレーの用意をしていたが、夏希はにべもなく、
「お腹減ってないから要らない」
と、さっさと二階の自分の部屋に上がって行ってしまう。
エンマは-当然姿を消しながら-、夏希の後を追いつつ、彼女の背中を寂しそうに目で追う健介の表情に気を配るのだった。
部屋に入り、エンマは再びにゅっと実体を現す。
夏希は淡々と鞄を床に下ろし、部屋着に着替えようとしている。
「うお」
エンマは慌てて透明化し、壁をすり抜けて部屋の外に出る。
夏希はその気配に気付き、ぷぷっ、と吹き出して、ドアの向こうにいるであろうエンマに向かって話し出す。
「一応わきまえてるのね」
「お前こそ、俺をどんな人間や思てるねん」
夏希は、あははは、と笑う。
「でもな、夕飯を食べへんのは良おないと思うよ?」
健介に対する口調よりかは幾分素直だが、やはり口を尖らせる。
「だって本当にお腹減ってないんだもん」
「そういう問題やのうてな」
ん……と口籠るのを察したエンマ。攻め方を変えることにする。
「ずっと気になっとってんけどよ」
夏希はドキっとする。病室にいた時もそうだが、エンマは口調をあからさまに変える。分かりやすいと言えばそうだが、普段とのギャップを感じてしまう。
無論、それはエンマの思うツボなのだが。
「お母さんが死んだことと関係あるんか」
夏希の気配が急に静かになる。エンマは更に畳み掛ける。
「言うたやろ? お前っちゅー人間をもっと知らなアカンのよ。resume期間だけでなく、ほんまに生き返られるためにな」
「……着替え終わったから入っていいよ」
その言葉を受けて、再び部屋の中に入る。夏希はナイキのTに短パン姿になってベッドに腰を下ろし、くだんの黒いカメラを大事そうに両手に抱えている。
「エンマって、結構鋭いね」
結構だけ余計じゃ、と表情を変えずに返される。
「しかも照れ屋だし」
それは事実だった。
「ええ加減にせえ」
また夏希は、あはははは、と笑い飛ばす。
「ねぇエンマ、カメラのこと詳しい?」
「いや全然。もっぱら愛用はちっさいデジカメやったし」
「ふーん」
そのカメラを、夏希は本当に大事そうに見つめている。
「これね」
「ん?」
「ママの形見なんだ」
エンマは、ふぅーっと大きく溜め息を吐く。
「なるほど」
夏希の横にどっかと座る。
「お母さん、写真家やったん?」
目を閉じて首を横に振る。
「若い頃は目指してたらしいけど、親の猛反対にあって、強引に見合い結婚させられたのよ。そん時に、今まで撮って来た写真とかフィルム、ほとんど全部捨てられた」
エンマは苦々しく目を細める。
「なんやそれ」
「それであたしが生まれたんだけどね。それでも使ってたカメラだけは何とか隠し持って来られたのよ。それがコレ。ミノルタCLE」
そう言われて、エンマは改めてそのカメラを見てみる。女の子の小さな手に少し余るような大きさで、ボディに巻いてある人造皮革の色も、クロームメッキも(良く見ると金属ではないようだが)黒で統一されていて、その無骨な印象が、余計に夏希とそぐわないように思える。ボディ前面、左上にやや大きめの字で「MINOLTA」と英文で白く刻まれており、その反対側、レンズの右横あたりに、セルフタイマー用らしき大きな赤いランプがついている。
「これ、フィルムカメラか?」
エンマにそう訊かれて、夏希は小さく頷く。
「今じゃ部品もほとんど手に入らなくって、あのお店ぐらいしか修理してくんなくなっちゃった。でも、なんかこの重さが、ちょうどいいんだよね。重すぎず軽すぎずって感じで」
エンマにはカメラの価値はよく分からないが、夏希の口調と表情だけで、それが物凄い価値のある代物だということは十分分かる。
「デジカメは買えへんのかいな」
夏希は肩を竦める。
「小さいのは中古で買ったけど、ちゃんとしたのは、新品で何十万もするからねぇ」
高っ、と、エンマは思わず口にしてから、話を本筋に戻す。
「お母さんの撮った写真って、見たことないん?」
「それがね」
夏希の目がどんどん輝いて来る。
「小さい頃に一枚だけ残ってたのを見せてもらったことがある」
「どんな写真?」
んー……と夏希は首筋を掻く。微かな記憶を、必死に思い出そうとしているのだ。
「確か、あたしが赤ちゃんの頃の写真だったと思う。スナップ写真じゃなくってね。その時の印象が、凄く強烈だったんだよ」
「強烈?」
「幼心にね、『これ、いいなぁ。好きだなぁ』って思ったの」
「自分の写真に、自分で見蕩れてもうたってワケか」
その言葉に、夏希は過敏に毒を察し、そういうつもりで言ったんじゃないのに、と、口を尖らせる。
「見せてもらった直後はね、それがあたしだって教えてくんなかったのよ、ママ。あとで聞いてびっくりした」
「でも、その写真も今は……」
「お爺ちゃんに見つかって焼かれちゃった」
「ええ……」
エンマは腕を組んで天を仰ぐ。
「だから余計にね、それがどんな写真だったっけ、って思い出したくて今、写真を撮ってるんだと思う」
「へえ」
「ママが見ようとしてたものが見えるかも、なんて思ったりもして。まだまだママには遠いみたいだけどね」
「で、それで何でさぁ」
と、エンマはドアの外を親指で指差す。
「親父さんと仲悪くなるん?」
この人はぐいぐい核心を突いて来る。夏希は独り言つ。
「仲悪いワケじゃないよ。そりゃ、ママが自殺した当初はパパのこと恨んだりもした。『パパと結婚したからママはあんな風になったんだよ!』って面と向かって言ったこともあったし」
それは言うたらあかんやろ、と、エンマは口の端を上げて肩を竦める。
「でも今はその時の事情も分かってるし、パパを責める気持ちもないもん」
「事情?」
ポイントも聞き逃さない、とも夏希は思った。
「んーだからぁ……ママが写真家を目指してたこと、パパはママが死んでから初めて聞かされたのよ。ママの告別式に、親戚からね」
「は?」
「酷い話でしょ?」
俯く夏希に、エンマが身を乗り出して畳み掛ける。
「それやったら、ちゃんと親父さんと仲直りせえよ。こんな関係はあかんやろ」
うん、分かってるけど、と俯く夏希。
「どうもパパの前だと憎まれ口叩いちゃうのよ」
「親父さんも、寂しそうにして……」
と、言った所で、エンマは一瞬口を噤む。夏希のことを知らねばならないとはいえ、あんまり自分が他人の家のことにまで出しゃばるのは賢明ではないと思ったからだ。だから、慌ててこう言い直す。
「……るんとちゃうか?」
幸いながら、エンマの微妙な躊躇に、夏希は気付かなかった模様で、
「うん……」
と、殊勝な表情で
普段強気に切り返して来る人が、急に落ち込んでしまうと気後れしてしまうのが人情である。エンマは忍びなくなって、口調と話題を変えることにする。
「夏希」
未だ落ち込んだ気持ちのまま、夏希が顔を上げると、にこやかな、それでいて何かを企んでいるような、エンマの満面の笑顔がそこにある。
「写真、見してや」
夏希はぎくりとする。
「ママの写真は全部捨てられたって言ったじゃん」
「アホ、お前が撮った写真や」
やっぱり来た。夏希は急に狼狽し始める。
「他人に見せられるような代物じゃないよ」
「んなら、俺が『数少ないひとり』ってことか。光栄です。ぱちぱちぱち」
「勝手に決めんなよ」
そっぽを向く夏希だが、エンマは容赦なく食い下がる。
「あのな、お前っちゅー人間を知らなアカンって言うたやろ? これもその一貫なの」
そう言われると夏希は反論出来ない。
「観念せえって」
憎たらしく微笑みかける。絶対興味本位も混じってるよな、とは分かっているものの、渋々夏希は立ち上がり、カメラを机の上に置くと、本棚の中から分厚い、ピンク色のアルバムを取り出して来て、
「はい」
と、拗ねてるのと恥ずかしいのとが入り交じったような表情で、エンマの鼻先にそれを突き出す。
それをエンマは受け取る。ふふーん、と鼻歌まで飛び出す。
前表紙を開けると、まず1ページ目に飛び込んで来たのは、噴水で遊んでいる二人の男の子の写真だ。
雲一つない夏の晴天の日だったらしい。服がずぶ濡れになっているのにも構わずに、弾けた笑顔で水を掛け合っている二人。噴水が巻き上げる水煙と、二人が巻き上げる水飛沫とが、真夏の日の光で乱反射して、一種神々しい輝きを放っている。
「!」
エンマは目を見開く。全身に電流が走り、次いで鳥肌が立つ。
ページをめくると、次のは2ページで連続写真のようだ。
これは……原宿表参道で撮ったようだ。縦の構図で、幸せそうに手を繋いでいるカップルの全身写真。男の子は髪をビンビンにおっ立てて、小さめのTにリーバイスの古いジーンズを穿いている。女の子は……恐らく地毛はショートなのだろうが、複雑に巻かれたエクステをつけており、原色系の服を何枚も重ね着している。二人とも1枚は澄ましているが、もう1枚は満面の笑顔で、カメラを構える人間-もちろん夏希-に、切り取られる自分達の「今」を委ねている。
「!」
エンマの全身にまた電流が走る。次のページをめくる手も、心無しか震えて来る。
しばし無言で、そしてあまりにも真剣に写真を見ているエンマに、夏希は拍子抜けする。なんやねんこれー、という感じで笑われるもんだとばかり思っていた。それにしては、何か様子が明らかにおかしい。一体どうしたのだろう。
とうとう夏希は、おずおずと口を開いて、
「ど、どお?」
と、エンマに感想を求める。
写真を全て見終わったエンマは、まだ身体が震えている。動悸も激しいままだ。
勢いよくアルバムを閉じて夏希を見据え、一言。
「お前、すごいな」
その声の調子に夏希はまたビクっとする。
「え?」
次のエンマの言葉に、耳を疑った。
「これ、すごいよ! めちゃめちゃいい写真ばっかりやん!」
エンマの口調は興奮と、上手い褒め言葉が見つからない苛立ちとに比例して、どんどん早口になって行く。
「なんちゅーか上手いこと言われへんけど……とにかく、すごい! すごいねん! どれもこれも俺は好き! うん、ほんまに! お前、これで食って行けるって!」
すぐに金の話になってしまうのは大阪人ならでは。
当の夏希は、自分の写真を、ここまで他人に褒められたことがなく、少し嬉しそうな表情を見せているが、予想外の反応にも戸惑っている。
「や、やだ、何言ってんのよ……そんなのダメだよ」
だが、エンマは珍しく熱っぽい口調を止めようとしない。
「や、俺は写真に関してはド素人やから、専門的なことは分からんけど、でもこの写真の良さは素人でも絶対分かるって!」
それでも夏希は、どんどん落ち込んで行く。
「でもダメだよ……」
「何でやねん?」
声を荒げるエンマに、だって、と悲痛な表情で顔を上げる。
「あたしはママの影を追いかけてるだけなんだよ? 本当に写真が好きで、純粋に撮りたいって思ってるんじゃないのかも知れないのに……そんな気持ちじゃ、本気でプロ目指してる人たちに申し訳立たないよ」
さっきの目の輝きからして、そしてこのアルバムの写真のクオリティからして、とてもそうとは思えないのだけれど、とエンマは言いかけたが、止めた。これは俺が言うべきことじゃない、と思ったからだ。
じゃあ、誰が言えばいいのか。
夏希は不意にエンマからアルバムを取り上げる。
「はい、おしまい」
それを本棚の、元あった場所に戻すと、ドアを開けて部屋を出て行こうとする。
「どこ行くねん」
振り向いた夏希の顔。悲痛な色は影をひそめて、少し頬を紅潮させている。
照れ屋はどっちやねん、とエンマは突っ込みたくなる。
「台所で夕飯食べる」
ドアを閉めようとしないことにエンマが疑問を抱いた瞬間、再び夏希の声がする。
「パパ、多分また店に戻ってるはずだから。ついて来て」
エンマが台所にやって来ると、夏希はカレーを温め直すべく、コンロの火を点けている。
日本のほとんどの家がそうであるように、居間と台所はドアがなく続き部屋である。エンマはそこに立ち、ぐるりと中を見回す。
それにしても、父子家庭にしてはきちんと片付いている。食器の洗い残しもなければ、生ゴミ処理し忘れの臭いもない。掃除が行き届いているようだし、部屋の中が散らかってもいない。当然夏希と交代でやっているのだろうが、こいつの父親はマメに家事をする人のようだ。
「あんたも食べる?」
エンマに背中を向けて、冷えた御飯を電子レンジに入れながら夏希が尋ねて来る。
しかし彼は、居間の奥の方に鎮座している、あるものに目を奪われ、それにそろりそろりと歩み寄って行く。
返事がないので、夏樹は声を大きくして再度尋ねる。
「要らないの?」
その代わりに、チーン、というリンを打ち鳴らす音が聞こえて来る。
振り返ると、エンマは、居間にある母親の仏壇の前にちょこんと座り、手を合わせている。そのあまりにも静かな佇まいに、夏希は一瞬ぼんやり見てしまうが、すぐに可笑しくなって来る。
「何してんのよ?」
声に笑いを込めながらそう聞いてみると、エンマは目を開けて、少し殊勝にこう答える。
「これでも一応、聖職者やからな」
ぷぷっ、と、夏希は吹き出してしまう。
「あんたってほんと、変な閻魔大王ね」
そう言われて、エンマもやっといつもの口調に戻りながら、立ち上がって台所に戻って来る。
「それより、とっととカレー
腹減った、なんて言う閻魔大王も変だよな、と思いながら、夏希は鍋の中のカレールゥをゆっくりとかき混ぜるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます