バリアント0.1の断罪
第1話 選別された死
山は、夜になると口を閉じる。鳥も虫も、鳴くべきタイミングを失ったみたいに黙り込み、風さえ谷底で薄く擦れて消えた。車のエンジン音だけが盆地の壁に当たって二度ほど反響し、すぐに吸い取られていく。
久我山家の屋敷は、その沈黙の底に根を張っていた。
本邸は古い木造で、梁は煤け、柱は手垢で黒く艶を帯びている。廊下は長く、歩けば床板が古い獣みたいに小さく鳴った。畳の目は真っすぐで、縁取りはところどころ擦り切れている。掛け軸は季節の花を墨で描いたもので、墨の匂いが乾いた線香の残り香と混ざっていた。障子紙は少し黄ばみ、行灯の灯りは柔らかい。柔らかすぎて輪郭を曖昧にする。人の顔も、言葉も、ぼやけたまま置いておける明るさだ。
その匂いの隣に、異物がある。鼻の奥を刺す消毒液の清潔さ。手袋のゴムのにおい。薬品の甘い揮発臭。古い家の「生きものの匂い」に、白い箱の「無機質な匂い」がねじ込まれている。
本邸の奥、普段は襖で隠される場所から、ガラス張りの連絡廊下が伸びていた。透明な筒のような通路である。外は闇だ。闇の中にガラスだけが薄く反射し、内部の蛍光灯だけが白く浮く。扉は電子ロックで、小さな赤いLEDが呼吸するように点滅していた。指先をかざせば、冷たいガラスが皮膚の体温を奪う。
廊下の床はゴムに近い素材で、足音が吸われる。木造の軋みと対照的に、ここでは人間が歩いているのか、影が滑っているのか分からなくなる。向こうに見える検査棟・研究棟は白い箱の連なりだった。窓のない壁。隙間のないドア。サーバーラックの列から漏れるLEDの点滅。低いファン音が、夜の静けさの上に薄いノイズを敷いている。時おり、機械が吐く熱い息がガラス越しに曇りとなって現れ、すぐに消えた。
本邸の廊下には古い柱時計があり、振り子の刻みが一定の間隔で空気を切っていた。その音は木の家の心臓のようで、ファンのうなりは白い箱の肺のようだった。二つのリズムは噛み合わず、少しずつずれていく。ずれたまま同じ屋根の下にあることが、妙に落ち着かない。
古い血と、新しい科学。
この家ではどちらも同じ重さで居座っていた。だが同居の仕方は、どう見ても不自然だ。掛け軸の横で、指紋認証の小さなガラス板が冷たく光る。襖は紙が擦れる音を立てるのに、ガラス廊下の扉は気配もなく閉まり、ゴムパッキンが空気を切り分ける。木の部屋は音が響く。白い箱は音を飲む。家そのものが、二種類の肺を持っているみたいだった。
漆塗りの欄間に、蛍光灯の白が細く反射し、その白の中に赤いLEDが点のように滲む。古い家の闇は、最新の光を飲み込めない。飲み込めない光は、闇を汚す。
今夜は「年に一度」の夜である。
久我山家の血が一堂に会し、家の形を確認する儀式だ。誰が欠けても、誰が遅れても、家は不機嫌になる――そういう迷信が、迷信ではなく生活のルールとして染みついていた。
玄関先に車が止まり、砂利を踏む音がした。門灯の下でスーツの裾が揺れる。
長男の直紀が先に降りた。四十代前半。仕立てのいいスーツを、わざと「自然」に見えるよう着こなしている。磨かれた靴のつま先が敷石の境目を迷わず選んだ。誰かに見られることを前提に、生き方を整えてきた男の歩幅である。
「寒いな。山は……やけに静かだ」
独り言みたいに言いながら、直紀は屋敷の奥――ガラス廊下の白い光が滲む方向へ目をやった。あの光があると、この家の暗さは「趣」ではなく「選択」に見えてしまう。直紀はすぐ視線を戻し、笑みの下地を作った。
次の車から降りてきたのは絵里子だった。三十代後半。髪は耳にかけ、首元に薄いストールを巻いている。指先が長い。ピアニストだった、と聞けば納得する形だ。しかしその手はストールの端をつまむ動作がわずかにぎこちない。細かな震えが布の端を波立たせる。本人は気づかないふりをするために、いっそう丁寧に笑ってみせた。
「今日は、音がしないですね。山って、こんなに黙るんだ」
冗談の形をしているのに、声は軽くない。直紀は「そうだな」と返し、会話を終わらせる。今夜の会話は、目的のない雑談が許されない夜だ。
遅れて悠人が来た。三十代前半。医師。白衣を脱いだときに残る姿勢の癖だけが整っている。スーツではなく落ち着いた色のジャケット。玄関の上がり框に足をかける瞬間、目が一度、奥のガラス廊下へ滑った。あそこに何があるかを知っている目である。だが見ていないふりをした。
悠人の隣には弥生がいた。地方の山村の出身で、久我山家にとっては「外」から来た女だ。丁寧な所作を覚えようとしているが、身体に馴染みきっていない。敷居をまたぐとき、肩がほんの一瞬だけ強張った。冷たい水が足首に触れたときの反射に似ている。
「……お邪魔します」
弥生は小さく頭を下げた。声も小さい。だが耳はよく働いている。誰がどこで息をしているか、気配の配置を先に覚えようとしていた。
玄関には古い下駄箱と、その上に小さな写真立てが並んでいた。褪せた集合写真の端に、山の神社らしい鳥居が写っている。弥生の目が一瞬だけ止まった。自分の村の鳥居と、何かが似ている気がしたからだ。気づいたことに気づかないふりをして、視線を床へ落とす。
家政婦が出迎え、無言で上がり框にスリッパを揃えた。揃えたスリッパの向きまで、儀式の一部である。廊下を進むにつれて、消毒臭が一度だけ濃くなる地点があった。襖の陰、ガラス廊下の入り口だ。そこだけ空気の温度が違う。冷蔵庫の前を通ったときのような乾いた冷えが肌を撫でる。
「……研究棟、まだ動いてるんだな」
悠人が小さく言った。言葉は情報であり、同時に自分の居場所確認でもある。
直紀がすぐ応じた。「当然だよ。データは夜に回す方が効率がいい。うちの財団は――」と言いかけ、舌先で言葉を切った。自慢は外向きにするものだ。家の内側で自慢すると、剛造に奪われる。
弥生はガラス廊下へ続く襖の前で足を止めかけ、すぐ歩幅を戻した。畳の縁取りを跨ぐとき、足裏がぴたりと吸い付く感触がした。逃げ道のない場所に、身体が先に気づく。
「大丈夫か」
悠人が小声で訊いた。弥生は頷いた。頷き方が速すぎた。肯定が呼吸を追い越している。
広間へ通されたのは、その少し後だ。
その前に、家政婦は一度だけ立ち止まり、盆に小瓶を載せて差し出した。透明な液体が入っている。「失礼します。こちら……」と言い終える前に、消毒臭が立ち上がった。直紀は迷いなく手に取って掌へ落とし、擦り合わせた。乾くときの冷たさに眉ひとつ動かない。悠人も続いた。医療者の癖で、指の間まで丁寧に広げる。絵里子は微笑みながら、ほんの少しだけ量を少なく取った。揮発する匂いが苦手なのだろう。弥生は、瓶に指が触れる直前で一瞬止まり、それから遅れて掌を差し出した。液が肌に広がった瞬間、肩が跳ねた。
「研究棟と行き来がございますので。念のため」
家政婦の説明は事務的だったが、“念のため”という言葉だけが、この家では刃になる。
廊下の突き当たりで襖が開くと、畳の匂いがどっと戻ってきた。木と紙と線香。古い家の肺の空気である。広間は畳敷きで、上座の壁に掛け軸。低い机。座布団は年季の入った藍色で、縁に刺繍がある。角には火鉢が置かれているが、今は灰だけが静かに沈んでいた。火の気がないのに、ここには熱がある。緊張が熱になるからだ。
座布団の脇に、薄い紙片が落ちていた。コンビニの袋から出したような説明書で、端に折り目がある。表紙に「体質チェック」「疾患リスク傾向」などの文字が小さく並び、注意書きが黒い枠で囲われていた。誰かが、ここへ持ち込んだ。わざとではない。無意識に持ち込まれる「世間」の匂いである。
久我山剛造はすでに上座に座っていた。七十代後半。背筋は硬く、座っているだけで部屋の空気が整列する。膝の上には紙束がある。新しい紙のはずなのに、墨の匂いがした。あるいは、この家の匂いが紙に移っただけかもしれない。
剛造は顔を上げずに言った。
「年に一度だ。遅れるなよ」
声は短い。短いが命令の形をしていた。直紀が反射で「はい」と答えた。呼吸より早い返事である。剛造はその「はい」を確認するように、紙束の端を親指で揃えた。
絵里子は座布団に膝をつき、笑った。柔らかい笑いだ。柔らかすぎて、底が見えない。袖の影で指先が小さく震えているのを、自分で隠している。隠すために手を膝の上で重ねた。重ねても震えは止まらない。
「今年も、立派ですね。紙が新しい」
絵里子はあえて紙の話をした。中身の話をすると、血の話になる。剛造は一瞬だけ目を上げ、絵里子の手元を見た。見た、というより測った。
悠人は上座から少し離れた位置に座った。遠すぎない。近すぎない。距離を取っていることが相手に悟られない距離。弥生はその隣、少し後ろに座り、畳の目を見つめた。目線を上げれば、ガラス廊下へ通じる襖が視界に入る。弥生はそれを避けるように、視線をひたすら水平に保った。
剛造は紙束を一枚めくった。紙の音なのに刃物みたいに響いた。
「例年どおり、確認だ」
確認という言葉が宣告の代わりになっている。家族会議は話し合いではない。上から下へ流れる水だ。逆流は許されない。
直紀は姿勢を微調整し、剛造の言葉が落ちてくる場所を先に作った。絵里子は口角を上げたまま、息を浅くする。悠人は一度、口を開きかけた。何か言うためではない。言いそうになる自分を止めるために、口を開いた。弥生は自分の指を見た。爪の先が白くなるほど、手を握っていた。
「新しい遺言の草案を作った」
剛造は読み上げる前に全員の顔を順番に見た。目で値踏みする。言葉より先に、選別がある。
「資産は、血のためにある。家のためにある」
一拍置いて、剛造は続けた。
「家は畑だ。出来の悪い芽に肥やしはやらん」
短い比喩だった。比喩だからこそ、逃げ道がない。絵里子の笑みが、ほんの少しだけ固くなる。指先の震えが一段増したのを、彼女は袖で押さえた。
直紀の口角が上がった。賛同の形を作る。だがその目は、剛造の顔ではなく紙束の行を見ていた。どこに自分の名が出るか。それが彼の関心だ。
「……畑なら、土も選ぶんですか」
絵里子が言った。声は軽い。軽くしなければ重くなる夜だ。剛造は答えない。答えないことが答えである。圧が言葉の代わりに部屋を押した。
剛造は紙をまた一枚めくる。
「遺産分配に関して――検査結果を参照する」
検査結果。
この家での「検査」は体温や血圧の話ではない。血の値札だ。直紀の喉が小さく動いた。息を飲み込んだのか、計算を飲み込んだのか分からない動きである。
弥生の目が一瞬だけ上がった。眩しいものを見たときの反射に似ている。すぐに畳へ戻したが、肩の位置が微かに上がった。息が、胸の上の方で止まった。
悠人が静かに息を吐いた。吐いた息はすぐに畳に吸われる。
「検査が必要なら、どういう項目を想定しているんですか」
悠人が言った。声は穏やかだが目的がある。言葉で線を引こうとしている。医学を盾にするのではなく、剛造の思想に「医学の印鑑」が押されるのを避けるための質問だ。
剛造は眉をわずかに動かした。
「必要なものだ。家にとって」
それだけで終わりにするつもりだったが、直紀が間に挟んだ。
「財団としても、遺伝子のデータはもう……一般の方々もキットで調べる時代ですし。家として整合性を持たせるのは――」
言いながら直紀は、畳の上の紙片に視線を落とした。世間のキットの説明書である。直紀は拾い上げようとしない。拾い上げると「誰が持ち込んだか」の話になる。話が個人に降りるのは危険だ。
弥生の指が、ほんのわずかに動いた。紙片を隠したいのか、触れたくないのか、どちらにも見える曖昧な動きである。結局、触らなかった。
剛造は直紀の言葉を肯定も否定もせず、短く言った。
「病気の芽は、血筋ごと切る」
剪定ばさみの音が聞こえた気がした。誰も笑わない。笑うと、自分の血が笑われる。
「芽って、切ればなくなるんですか」
絵里子は同じ問いを、今度は笑いを混ぜずに言った。声が乾いている。剛造は視線だけを返した。その視線が絵里子の指先に触れた瞬間、彼女の震えが、まるで指先から逃げるように腕へ広がった。絵里子は袖口を直すふりをして、震えを押し込めた。
悠人は弥生を見た。弥生は畳の目を見つめたままだ。だがその目は、畳の目を数えていない。何か別のものを、頭の中で数えている目である。息の数か、距離の数か。
襖の向こう、ガラス廊下の白い箱から、ファンのうなりが一段だけ大きくなった。気のせいかもしれないが、弥生の肩がその音に合わせて僅かに硬直した。
剛造は紙束の角を揃える指先で、話を切った。
「検査は嘘をつかん。嘘をつくのは、いつだって人間の方だ」
直紀は最後に、紙束ではなく畳の紙片へ目を滑らせた。黒枠の注意書きの文字列が、どこかの判決文みたいに整然としている。彼は足で踏まない位置へ、そっと寄せた。拾い上げる勇気はない。
その言葉に妙な説得力があった。剛造は嘘をつかないものを信じている男である。だからこそ、自分が嘘の中心にいることに気づけない。あるいは気づいていて、気づかないふりをしている。
会議は長くなかった。剛造の話は確認であり宣告だ。家族はそれぞれの顔で受け取った。肯定、嘲笑、沈黙、回避。言葉にしないものほど、畳に沈んでいく。
「今日はここまでだ」
剛造は紙束を揃え、膝の上で軽く叩いた。人の人生を紙の厚みで測れると思っている指である。
立ち上がるとき、床板がひときわ大きく鳴った。古い家が主の命令に返事をする。剛造は襖の向こうへ出る前に、振り返らずに言った。
「疲れた。……寝る前に、いつものを」
いつもの。
剛造が寝る前にコーヒーを飲む習慣があることは、この家の者なら誰でも知っている。習慣は家のルールの一部だ。壊すと不快になる。守ると安心する。誰が淹れるかは決まっているようで決まっていなかった。家政婦が入れる夜もある。弥生が「私が」と言う夜もある。悠人が自分で淹れていくこともある。直紀が「父上は砂糖は一つだけ」と口を挟むこともある。
襖が閉まる音が、広間の空気をいったん緩めた。だが緩んだ空気は、すぐに粘る。今夜の言葉が、畳の上で乾かないからだ。
直紀は立ち上がり、軽く咳払いをしてから悠人に言った。
「明日、理事会の資料もある。父上の機嫌が悪いと、外にも響く。……頼むよ」
頼むという言葉は、情報と命令を同時に運ぶ。悠人は「分かってる」と短く返した。その短さが、反発の代わりだ。
絵里子は弥生の方へ目を向け、微笑んだ。
「弥生さん、山は慣れた? 夜は怖くない?」
質問の形をしているが、目的は別だ。弥生の反応を測る。家に馴染んでいるか、馴染ませる価値があるか。絵里子自身が測られてきたからこそ、測り方を知っている。
弥生は笑おうとして、笑みが途中で止まった。
「……怖くは、ないです。ただ、白いところが……眩しくて」
言ってしまってから、弥生は自分の言葉を噛んだ。白いところ――検査棟のことだ。絵里子は「そう」とだけ言い、深く追及しない。追及すると、明日以降の自分が危険になる。家では、優しさも自衛である。
その夜、台所の方で陶器が触れ合う乾いた音がした。カップが棚板に当たる、小さな硬い音。次に、湯が沸く低い唸り。しばらくして、金属がガラスに当たるような、かすかなチリッという音が一度。スプーンか、鍵か、分からない。豆を挽く音はしない。既に粉になったものが使われるのか、別の方法か。
湯の匂いに混じって、砂糖が紙袋を擦るような音が一度だけ聞こえた。スティックか、角砂糖か。続いて、何かを小皿に置く軽い音。カップと同じ白い硬さの音だ。
廊下の角で足音が止まり、また動き出した。木の廊下は「誰が歩いたか」を鳴き声みたいに告げるが、ガラス廊下の手前で音が途切れる。そこから先は、影だけが滑る。白い光の中では、影の輪郭が濃くなる。
弥生は立ち上がり、ふらりと廊下へ出た。目的がある歩き方ではない。逃げるようでもない。だが、歩幅が一定ではない。迷いが足首に出る。
「どこ行く」
悠人が小声で訊いた。
「お茶……いただいてきます」
弥生はそう答え、台所の方へ向かおうとして、途中で足を止めた。ガラス廊下の入り口から、消毒臭がまた流れてきた。誰かがドアを開けたのだろうか。白い光が、襖の隙間から細く伸びる。弥生はその光を避けるように、身体を小さく捻った。絵里子がそれを見ていた。見ていることを悟られない角度で。
剛造の自室は書斎と寝室が続きになっていた。書斎の机の上には家系図の束。古い紙、古い墨。人の名が連なり、線が引かれ、丸が付き、赤い印が付いている。剛造はそれを眺めるのが好きだった。血の流れが見える気がするからだ。線は樹木の枝であり、彼の頭の中では剪定できる。剪定ばさみは遺言であり、金である。
机の端には小さな砂糖壺と、銀色のスプーンが一本置かれていた。いつもそこにある。あるいは「いつもそこにあるべきだ」と剛造が信じている。砂糖壺の蓋は、少しだけずれていた。誰かが触ったのか、空気が乾いて浮いたのか、判別はつかない。剛造は気にしなかった。気にするのは、家の内側で「揃っていないもの」を認めることだからだ。
カップの取っ手には、爪の先ほどの欠けがあった。古い傷だ。剛造はそれを嫌うどころか、いつもそのカップを選ばせた。
「欠けを隠すな。欠けたものは欠けたまま置け」
若い頃にそう言ったのを、家の者は覚えている。欠けを許す言葉に聞こえるが、許されるのは欠けを“役立てられる”ときだけだ。
廊下で、どこかの襖が擦れた。ノックの音だったかもしれない。あるいは床板が鳴っただけかもしれない。扉が開いて、コーヒーの香りが部屋の空気を塗り替えた。苦味と、甘い揮発臭が僅かに混じる。湯気が白い筋になって立ち上がり、行灯の光を透かした。
「置いておけ」
剛造の声は、誰に向けたとも言えない。返事は聞こえなかった。カップがソーサーに置かれる音だけが、確かにあった。陶器が木の机に触れる乾いた音。続いて、スプーンが一度だけ縁に当たって小さく鳴った。金属音はすぐに木の匂いに沈んだ。
カップの数は一つ。だが廊下の暗がりには、もう一つ何か白い影が揺れた気もする。トレイの縁か、制服の襟か。気のせいかもしれない。山の夜は影を増やす。
剛造は椅子に座り、遺言草案の紙束を指で叩いた。満足している。自分が正しいと信じている者の満足である。カップの縁に唇を当てると、熱が伝わった。熱は正しく、ちょうどいい。剛造はそういう「ちょうどいい」を好む。ちょうどいい温度。ちょうどいい配分。ちょうどいい血。
一口目は、いつもの味だった。苦味が舌に広がる。砂糖の甘さは、まだ入っていない。剛造はスプーンに手を伸ばしかけて、やめた。今日は甘くしなくてもいい、と妙な確信があった。あるいは、紙束の満足が舌を鈍らせていた。
二口目を飲んだところで、胸の奥がきゅっと締まった。
最初は、加齢の心臓が言う小さな抗議だと思った。剛造には年齢相応の不整脈があった。医師から注意されるたび、「私は自分の体のことくらい分かっている」と笑ってきた。
だが、締め付けは笑いで散らせる種類ではない。締まるというより、内側から圧をかけられる。息を吸うと胸が痛い。吐くと苦しい。喉の奥が乾き、空気が薄くなる。世界から酸素だけが抜き取られていくみたいだった。
剛造は机に手をついた。指が震えた。微細な震えではない。筋肉が命令を聞かない震えである。彼は自分の指先を見下ろし、眉を寄せた。信じがたいものを見る目だ。
「……なんだ、これは」
机の脇には呼び鈴があった。指を伸ばせば届く距離なのに、距離が伸びた。腕が思うように動かず、指先が空を掴む。遠くで、どこかの廊下が一度だけ軋んだ。誰かが動いたのか、家が寝返りを打ったのか。剛造には判別できなかった。
声は出たが、誰にも届かない。屋敷は広い。古い木は音を響かせるが、壁は距離を作る。ガラス廊下の向こうでファンが唸っている。白い機械は静かに働き続ける。人の苦しみなど関係なく、淡々と。
剛造は立ち上がろうとして、膝が折れた。床に落ちる音は鈍かった。体が畳にぶつかる前に机の角に肩が当たり、カップが揺れた。陶器が小さく鳴り、ソーサーの上で液面がわずかに跳ねた。跳ねた雫が、机の木目に吸い込まれていく。
呼吸が乱れる。吸っても吸っても足りない。胸の奥で何かが詰まっている。心臓が暴れるように打ち、次の瞬間に、ふっと弱くなる。リズムが崩れる。剛造の視界が行灯の光を中心に歪み、掛け軸の墨の線が別の線に見えた。家系図の線だ。彼が支配していると思っていた線。
震えが四肢に広がった。指先が勝手に開閉し、腕が痙攣する。剛造は家系図の紙束を掴もうとして、掴めなかった。紙の端が指から滑り落ちる。血の線が床に散る。線はただの紙切れになり、畳の上でばらばらに広がった。
「誰か……」
声は喉の奥で途切れた。口は開くのに音が出ない。舌が重い。意識が遠のく。剛造は最後まで、自分の死を「選別」できないことを理解できなかった。理解できないまま、理解の必要もなくなっていった。
行灯の灯りが、彼の顔を半分だけ照らした。残り半分は影に沈んだ。影の中で、目が開いたまま固まっていく。呼吸は一度、浅く入った。次に、入らなかった。
屋敷は何事もなかったように静かだった。廊下は軋まない。襖は動かない。検査棟の白い光だけが、ガラス廊下の先で淡々と点滅している。
当初、死因は心臓発作として片づけられるだろう。だが遺体から「説明のつかないもの」が見つかり、この夜の記録は書き換えられるだろう。
遺伝子は黙っているが、人間はそれを静かに証言台に立たせる。
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