月の水
月夜
第一章
第1話
大きな執務椅子にどっかりと腰掛けた主に射殺しそうなほど睨みつけられ、マルティス・コールはぐっと詰まる。
主の怒りは充分に理解できたが、だからと言って手にした書状を無かったことにはできず、おずおずと差し出した。
「王宮から、親書が届いております」
主、ガーランド・ゲルス・アルトゥニウス侯爵は、そうやっていれば燃やし尽くせるとでも思っているのかと疑いたくなるような強い眼差しで書状を睨みつけた後、諦めの重い溜息を吐いて、国王からの親書を手に取った。
ゆっくりと開いて、じっくりと読んで、マルティスの顔を睨みつけた後、親書を放って寄越した。
「ど……どうなりましたか……?」
答えなどわかっているが、問いかける。
「そなたの申し出、誠に謙虚なり。だが、遠慮はいらん。快く受け入れよ」
何の感情もなくガーランドはそう言うと、だん、と机を叩いて立ち上がった。
「だぁれがっ謙虚だっ! 遠慮なぞしとらんっ! いらんものは、いらんのだっ!!!」
叫んで椅子を蹴りつけるガーランドをどうにか宥めようと、マルティスは頭を空回りさせる。
「いや、でも、頂いておけば、何かの役には立つかもしれませんよ……?」
「何の役に立つというのだっ!? いまで十分、お荷物なんだぞっ!?」
がっと睨みつけられ、首を竦める。
「いや、誠にごもっとも。……ああ、いや、……ええと……しかしですね、一応、御前会議に参列することが許された方ですし……」
「突っ立っているだけだっ! そんなもの、彫像でもできるっ!」
だん、だん、とガーランドは何度も、両手で机を打ち付ける。
「ああ、そりゃまあ、確かにそうなんですが……。しかし、静かな方ですし、邪魔にはならないかと……」
「あれは静かなんじゃないっ! 頭が足らんだけだっ! これまでの数年間、あいつが声を出したのを、私は聞いたことがないぞっ!」
ガーランドは、頭がよく動く者を好む。
「そ……それは……私も、そうなんですが……」
マルティス自身、黙って俯いて座っている姿か、ぼんやり突っ立っている姿しか見たことがない。
ガーランドではないが、何のためにいるのか、何の役に立っているのか、さっぱりわからないのだ。
マルティスは主を宥めるのはもう諦めて、暴れる主を遠巻きに見ていた。
ガーランドは大股で部屋中を歩き回りながら、置かれた花瓶やら椅子やらを蹴倒していく。厚い絨毯が敷かれているにもかかわらず、高価な花瓶が音を立てて割れた。
「何故に! 私がっ!」
派手な音に驚いたアルトゥニス侯爵家の執事長が入ってくる。老執事長は一瞬息を呑んだが、マルティスと目配せを交わして事情を察し、そっと壁際に寄ってガーランドの暴動を見守る体勢に入った。
さすがは、ガーランドが生まれる遙か前から侯爵家に仕えている者だ。部屋の対角線上でお互い立ったまま、仕方ありませんね、と主の不幸を目だけで苦笑する。
そんな二人が見守る中、ガーランドは両手を握りしめ、ぶるぶると震えながら叫んだ。
「神官なんぞと結婚せねばならんのだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
笑うに笑えないガーランドの慟哭が、由緒ある侯爵家の屋敷を震わせた。
三年後に建国千年を迎えるパルシュ国は海と、7つの国に囲まれた軍事国家であった。
建国当初から軍事国家だったわけではない。今から約300年前に隣国ツゥラの侵攻を受け、それを辛うじて防いだ頃から一気に軍事国家へと傾いた。
そんなパルシュ国のアルトゥニス侯爵家は代々、優秀な軍人を輩出してきた。そして、パルシュ国建国にも深く関わる、由緒ある家柄である。300年前のツゥラ国の侵略を防いだのも、当時のアルトゥニス侯爵が率いる軍隊であった。
そんなアルトゥニス侯爵家始まって以来の逸材と言われるのが、現当主である、ガーランド・ゲルス・アルトゥニス侯爵である。
ガーランドが、先代当主である父を戦場で亡くしたのは13歳の時であった。
母は既になく、兄弟もなく。由緒あるアルトゥニス侯爵家に伸ばされる、親戚と言う名の魔の手はいくつも、いくつもあった。誰が乗っ取るにしても、本当の意味での侯爵家はこれで終わりかと、誰もが思ったのだ。
だが、そんな人々の思惑を文字通り一刀の元に薙ぎ払ったのが、当時13歳のガーランドである。
当時、パルシュ国は隣国の一つ、ルロカ国と国境地を争っていた。その前線に行くことを、僅か13歳のガーランドが自ら強く、希望したのだ。
周りの大人たちには、二種類あった。
止める者と、促す者。
促す者にも二種類あった。
アルトゥニス侯爵家の当主として立派に手柄を上げてこいと期待をかける者と、戦場で命を落としてこいと願う者。
しかしガーランドは、そんな大人たちの思惑を全て覆し、長い戦争で混乱を極める戦場を単騎で駆け抜け、見事、大将の首を獲ったのだ。
その後、総崩れとなったルロカ国軍は自国が主張する国境線を大きく後退し、パルシュ国の国土はさらに広がった。
ガーランドはその後も戦勝を重ね、23歳で大将となる。それは、パルシュ国軍始まって以来の、最年少の大将の誕生であった。
そして34歳となった今でも、ガーランドは先陣を駆け抜け、戦勝を重ねていた。
大将が真っ先に命を落としては困る。ガーランドの副将であるマルティスは何度もそう進言したが、ガーランドは頑として聞き入れない。兵士の命を預かる大将だからこそ、誰よりも真っ先に敵陣を駆け抜けるべきだと。
それがガーランドの信条で、だからこそ、ガーランドが率いる軍隊はどこの軍隊よりも強いのだった。
マルティスが生まれたコール家は常に、アルトゥニス侯爵家と共にあった。
千年前にパルシュ国建国と同時に生まれたアルトゥニス侯爵家。その頃からすでに、侯爵家に仕えたのがコール家だ。アルトゥニス侯爵家が軍人の家であるならば当然、コール家も優秀な軍人を輩出する名家である。
マルティスはガーランドより、数日早く生まれた。マルティスの母はガーランドの乳母でもあり、二人は赤子の頃より共に育った。
幼い二人に主従関係はなく、ガーランドに対してぞんざいな口を聞き、時には取っ組み合いの喧嘩をするマルティスを、父はその度に酷く叱った。
年齢も同じであれば体格に差もなく、喧嘩の勝敗は五分と五分。
ガーランドを殴り飛ばして意気揚々と帰ってくるマルティスを父はいつも、吹っ飛んでしまうほど殴りつけ、家から閉め出した。
当時、マルティスはこのままずっと、アルトゥニス侯爵家の領地で暮らすことが嫌だった。大人になれば絶対に王都へ行き、一旗揚げてやる、とガーランドに豪語していたほどだ。
ガーランドはそんな時いつも、少し哀しそうな目で見てきたが、マルティスはそれに気づかないふりをした。
ガーランドが嫌いだったわけではない。
ただ、生まれたときからずっと、決まっている道を歩き続けることが嫌だったのだ。
もっとも、王都と言ってもそれはアルトゥニス侯爵家の領地の隣で、馬で駆ければ1日もせずに辿り着いてしまうほど近いものだったが。
そんなマルティスの思いを覆したのも、ガーランドだった。
13歳の秋、あの日みたガーランドの目が、今でも忘れられない。
戦場に行く。
ガーランドは短くそう告げると、両手をぐっと握りしめ、マルティスを睨みつけるように見た。
固い決意が感じられて、大丈夫なのか、だとか、止めておけ、だとか、余計な気遣いの全てを撥ね付けるほどの強さがあった。
ガーランドの父と共に、マルティスの父も同じ戦場で亡くなっていた。同じ時に同じ場所で同じように父を亡くしたのにも拘わらず、マルティスはただ、自分の哀しみに震えていただけだった。
こいつには、敵わないと思った。
この男には絶対、敵わない、と。
あの時、マルティスも決意したのだ。
父がしたように自分も、ガーランドに命を懸けて従おう、と。
それからマルティスは、ガーランドに対しての言葉と態度を改め、主従の礼儀を持って仕えている。
ガーランドはマルティスの変化に戸惑っていたが、躊躇したのも一瞬だった。
互いの父を亡くした13歳の秋。
ガーランドもまた、覚ったのだろう。
子供の時代は終わったのだ、と。
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