ヴァンパイア・ライフのすゝめ

山崎ももんが

Ⅰ アメコ

強い陽射しが容赦なく地上を照らし続ける中、私は久し振りに上野駅の公園口改札を出た。昨晩の大雨を吸い込んだ木々やアスファルトから蒸発する水分が湿度を高めて、下着が肌に貼りついたまま離れない。長袖の黒いコンプレッションインナーに紺色の半袖のコットンシャツを重ねる組み合わせは、腋の下の汗染みを目立たなくする、私の夏の定番のファッションとなっていた。露出している手の甲には日焼け止めを塗り、黒いベースボールキャップにレイバンのサングラス、そしてスキニーのジーンズにスニーカーだ。肌を守るのには理由がある。市販薬を塗って多少は目立たなくなっているけれど、いつの頃からか長時間陽の光に晒されていると、皮膚の表面に薄いプラスティックのシールでも貼られたかのように肌が硬化し、荒れてしまう体質になっていたのだ。


東京都美術館までの道程みちのりは陽差しを遮るものがほとんど無い。噴水広場を速足で通り過ぎてようやく目的地に辿り着いた。ゲートを通り抜けて入口の自動ドアの前に立つ。私の身体を無視するようにいつまでも扉は動作しない。頭上に取り付けられたセンサーに手を振ってみたけれど、動く気配は全く感じられなかった。後から来た老夫婦が私の隣に並んだ瞬間スイッチが入り、軽い地鳴りを思わせる起動音と共に自動ドアが開く。二人の後を影の如く貼り付いて行き建物の中に入ると、適度な暗さの心地良い照明と空調の冷気に包まれ、溜息混じりの深呼吸で身体に蓄積された熱を放出した。


私は入口近くの展示室で、揺らめき踊る煙の流れを描いた百号の油絵の前で数分間を過ごした後、階段を上り二階のカフェでその作品を描いた友人を探した。窓際の席でアイスコーヒーのストローを咥えている黒いワンピースの女性が美術大学時代の同級生、アメコだった。彼女が籍を置く美術団体が企画した展覧会を観に訪れたのだ。今日は会場にアメコが来ることになっていたので昼食を共にする約束をしていた。


アメコというのは彼女の渾名あだなだ。本名は「響雨子きょうこ」という。同じクラスに同じ読みの「今日子」という生徒がいたので、区別する為に彼女は「アメコ」となった。本人もこの響きを気に入っていた様子で、卒業までの四年間をこの名前で過ごした。アメコはマネキンを思わせる整った目鼻立ちを持つ美人で、それは学生時代から三十二歳となった今でも変わらない。大学へは主に黒を基調としたゴシック・ロリータ・ファッションを着て登校していた為か、神秘的な雰囲気を常に漂わせていたけれど、その黒目勝ちの瞳についてはコンタクトレンズの効果なのだと説明されたことがある。アメコは私と眼が合うと肘を脇腹に密着させたまま掌だけで小さく手を振り、テーブルの場所を合図した。


「モモカ」


「お、ゴスロリじゃないアメコだ」


「当たり前でしょ、もう三十越えてるんだし」


「まだ行けるでしょ」


「知り合いに会わない場所では今も着てるけどね」


「絵、凄く良かった」


「お前、感想それだけか、別に良いけどさ」


二人で同じトマトクリームソースの海鮮パスタを注文して食事を終えた。私はナプキンでオレンジ色に染められた唇を拭い、その紙を小さく捩じって空になった皿の上に置いた。私の前にはランチセットのアイスカフェオレ、アメコの前には追加注文した彼女の服と同じ色のアイスコーヒーがテーブルの上に乗っている。いつまでも続く会話の下で二つのグラスは汗を掻き、いつしか厚紙のコースターは水分を含んでしおれ始めていた。


* * *


「仕事は上手く行ってるのかな、社長さん」


アメコの問いに「まあまあ、だね」と私は答えた。三十歳を機にデザイン事務所を起ち上げてから今年で三期目になる。最初の二年間は赤字で、貯金を切り崩して生活を続けていたのだけれど、今期からは黒字に転じていた。


「しかしまあ、モモカは相変わらず若いね。何か、ちょっと異常なくらいだよね、美容整形でもしてるのかと思うわ、怖いわ」


「してない、してない。朝、洗顔フォームを使ってお湯で顔を洗うじゃない、その後に水でもう一度洗顔フォームで洗うのよね。私、脂性気味だから、そうしないと脂分が落ちないのよね。後は、細かい皺はあるけれど、脂分がその溝に入り込んで埋まるじゃない、で、光の加減で肌が綺麗に見えるんじゃないかな」


私はアメコに告げた言葉とは裏腹に「若さ」という仮面を被り続ける為に、それなりの労力を注いでいた。清涼飲料水や調味料を手に取る度に原材料表示を確認し、老化の原因ともされる果糖ブドウ糖液糖が含まれていれば、躊躇わず棚に戻した。更にはジムのナイト会員に登録して最低でも週に三日は通い続けて汗を流している。ただ、炭水化物に関しては好物のパスタと饂飩うどんだけはどうしても制限できない。空腹で胃が収縮している時には、白い麺に絡むソースやつゆと、その柔らかなグルテンの弾力がもたらす歯応えを思い浮かべるだけで反射的に口内に唾液が溢れ出してしまう。


若く見られることは仕事においても重要な意味を持つ。同じセンスとスキルを備えた二人の女性デザイナーがいたなら、ほぼ確実に若い方が選ばれると私は思っている。大学を卒業してからの十年間、営業の現場で培った経験がその確信を裏づけていた。


去年、アメコと二人で大学の学園祭に遊びに行った際、就職時に世話になった事務室の職員たちに挨拶をすると、私だけが入学パンフレットを手渡され、卒業生であることを改めて説明せざるを得ず、気まずい空気が漂ったことがあった。さらに「お姉さんかと思いました」とアメコに言った職員に彼女は憤慨し、私は自分を忘れていた彼等に対して悲しくなると同時に怒りを覚えてしまったのだけれど、毎年数百人の卒業生の就職を取り扱ってきたのだから無理もないと、私達はほこを収めたのだった。その一方で私はアメコに後ろめたさを覚えながらも、自身の努力が実を結んでいることに密かな満足を抱いていた。


それでも老化の速度が同年代の女性よりも遅いという事実は、単なる努力や偶然の産物だけでは無く、別の理由が潜んでいるように思えてならなかった。私は過去に体験した、ある不可解な出来事を思い出して口を開いた。


「そうだ、老化しなくなった、と言えば心当たりが有ると言えば、有るな」


「へえ」


「十年位前かな、ヨーロッパにアンドラ公国っていう小さい国があってさ、そこへ行ったんだけど、不思議な事があったんだよね」


私はコンプレッションインナーの右の手首の袖をまくり、今は再生して二つの白い小さな斑点と化した、動脈沿いに残されている傷跡を見せて、アメコに語り始めた。

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