価値なしと捨てられたオメガの僕が、こっそり作ったお菓子を狼獣人の当主様に見つかったら、なぜか溺愛されています

藤宮かすみ

第1話「灰色の世界と金色の瞳」

 鉄の錆びた匂いと、大勢の汗、そして絶望が混じり合った空気が、じっとりと肌にまとわりつく。

 薄汚れた麻布の隙間から差し込む光は頼りなく、僕のいる檻の中は薄暗い。もう何日も、まともな食事も水も与えられていなかった。喉はカラカラに渇き、お腹はとっくに空腹を通り越して、ただ鈍く痛むだけだった。


『カイは本当に出来損ないね』


『お前みたいなオメガ、なんの価値もないんだよ』


 遠い日の記憶。僕をここに売り払った親戚の言葉が、耳鳴りのように繰り返される。

 その通りだ。僕は出来損ないで、価値のないオメガ。だから、こうして家畜みたいに売られるんだ。

 もう、何も期待なんてしていなかった。誰かに買われたとしても、待っているのは、今よりもっと酷い地獄なだけ。それならいっそ、このままここで、静かに朽ちていけたらいい。


 そんなことを考えていたから、檻の前に大きな影が落ちた時も、僕は顔を上げなかった。

 いくつもの足音が、僕の前を通り過ぎていく。品定めするような視線が体に突き刺さるけれど、もう何も感じない。ただ、冷たい石の床に膝を抱えて、自分の体温が奪われていくのを感じているだけだ。

 けれど、その影は動かなかった。


「……」


 無言の圧力が、頭の上から降ってくる。

 嫌でも意識がそちらに向いてしまう。僕はゆっくりと顔を上げて、格子の隙間から影の主を見た。

 最初に目に入ったのは、泥一つない黒革のブーツ。上質な生地で仕立てられた、黒一色の外套。そこに立つだけで、この薄汚い奴隷市場の空気が張り詰めるような、圧倒的な存在感を放っていた。

 そして、目が合った。

 射抜くような、鋭い金色の瞳。まるで獲物を前にした獣のような、獰猛で冷たい光だ。

 長い黒髪の間から覗く、ぴんと立った黒い耳と、揺れる尻尾。狼の獣人。それも、極めて血の濃い、支配階級のアルファだということが、一目でわかった。


 その男は、僕を値踏みするように、頭のてっぺんから足の先まで、じろりと見下ろした。

 その視線に焼かれるような感覚がして、僕は思わず体を縮こませる。

 怖い。ただ、純粋にそう思った。


「こいつにする」


 冬の夜空のように低く、静かな声が響いた。

 その声に、隣にいた奴隷商人が、慌てて駆け寄ってくる。卑屈な笑みを浮かべて、へこへこと頭を下げていた。


「へ、へい!ありがとうございます!ですがお客様、こいつは見ての通り、みすぼらしいオメガでして……もっと上等なのが、あちらに」


「これがいいと言ったんだ」


「は、はひぃ!」


 有無を言わせない声に、奴隷商人は青ざめて黙り込む。

 すぐに檻の鍵が開けられて、僕は乱暴に腕を掴まれ、引きずり出された。ふらつく足ではうまく立てず、無様に地面に膝をつく。

 目の前に、男のブーツのつま先が見えた。


「立てるか」


 感情の読めない声だった。

 僕は震える手で地面を押し、なんとか立ち上がった。痩せこけた体は、自分のものじゃないみたいに重い。

 男はそんな僕をもう一度見下ろすと、奴隷商人へ、銀貨が何枚か入った革袋を投げ渡した。重い金属音が、僕のこれからの運命を告げているようだった。


 男に連れられて歩き出す。

 どこに連れていかれるんだろう。このまま殺されるのかもしれない。それもいいか、とぼんやり思った。もう、生きているのは疲れたから。

 市場の外に出ると、豪華な紋章の入った馬車が停まっていた。黒い狼が牙を剥く意匠。あれは確か……。


「乗れ」


「……え」


「聞こえなかったのか」


 冷たい声に、びくりと肩が跳ねる。僕は慌てて馬車に乗り込んだ。

 中に入ると、外の喧騒が嘘のように静かになる。上質な革張りのシートに、僕のような汚れた人間が座っていいものか迷っていると、男も乗り込んできて、無言で向かいの席に腰を下ろした。

 やがて、馬車が静かに走り出す。

 揺れる車内で、僕はずっと俯いていた。金色の瞳に見つめられているのを感じて、息が詰まりそうだった。


 どれくらいの時間が経っただろう。馬車が停まり、外に出るように促された。

 目の前にあったのは、息をのむほどに大きな屋敷だった。黒狼の紋章が、掲げられた門構え。

 黒狼商会。

 この国で知らぬ者はいない、王国一の大商会だ。どうして、そこの主が、僕なんかを。

 頭が混乱するばかりで、何も考えられない。ただ、言われるがままに、屋敷の中へと入っていった。


 豪華絢爛な調度品が並ぶ廊下を抜け、僕が連れてこられたのは、屋敷の裏手にある厨房だった。

 活気のある場所で、たくさんの料理人たちが、忙しそうに働いている。僕の姿を見ると、皆、いぶかし気な視線を向けてきた。

 男の名はリオード様というらしい。商会の当主である彼が、厨房長らしき体格のいい男性を呼びつけた。


「こいつをここで使え。仕事は……そうだな、皿洗いと掃除でいい」


「は、はあ。しかし当主様、このような者をどこから……」


「俺の気まぐれだ。気にするな」


 それだけ言うと、リオード様は僕に一瞥もくれずに厨房を去って行った。

 嵐のように現れて、嵐のように去っていく人だった。

 僕は、広い厨房の真ん中に、ぽつんと一人取り残された。


 ***


 リオード様が去った後、厨房長は大きなため息をつくと、面倒くさそうに僕を睨みつけた。


「おい、お前。名前は」


「……カイ、です」


「そうか。まあ、当主様のご命令だ。逆らうわけにもいかない。あそこの流し場で皿を洗っていろ。いいか、一枚でも割ったり、汚れを残したりしたら承知しないからな!」


 有無を言わせぬ口調でそう言うと、厨房長も自分の仕事に戻ってしまった。

 僕は言われた通り、山のように積まれた汚れた皿の前に立つ。

 冷たい水に手をつけると、あかぎれだらけの指先がじんじんと痛んだ。それでも、僕は無心で皿を洗い続けた。

 それが、黒狼商会での僕の、最初の日だった。


 気まぐれで買われた奴隷。

 それが、ここでの僕の立場だった。

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