第3話:再びの来店

「いらっしゃいませ」


反射的に作った営業用の微笑みの奥で、俺は心臓が早鐘を打つのを感じていた。

深夜一時過ぎ。

カウベルの余韻が消えない静寂の中、扉の前に立っていたのは、やはり彼女だった。


如月きさらぎ愛華あいか

大学のアイドルであり、昨夜この店で初めて弱音を吐露した女性客。


だが、今日の彼女は昨夜とは少し装いが違った。

大学で見かける清楚なブラウス姿ではない。

ゆったりとした大きめのグレーのパーカーに、デニムのスキニーパンツ。

頭には黒いキャップを目深に被り、長い髪を後ろで無造作に束ねている。


まるで、世間から身を隠す逃亡者のような出で立ちだ。


「……こんばんは、マスター。また来ちゃいました」


キャップのつばの下から覗く瞳が、悪戯っぽく、けれどどこか不安げに揺れている。


「お待ちしておりましたよ。どうぞ、こちらの席へ」


俺は努めて平静を装い、昨夜と同じカウンターの隅の席を勧める。

彼女はぺこりと小さく頭を下げ、音もなくスツールに腰掛けた。


「あの、ご迷惑じゃなかったですか? こんな連日で……」


「とんでもない。バーテンダーにとって、お客様が戻ってきてくださることほど嬉しいことはありません」


「ふふ、よかった。……家で寝ようと思ったんですけど、どうしても目が冴えちゃって」


彼女は頬杖をつき、パーカーの袖から覗く華奢な指先でカウンターの木目をなぞる。


「親が寝静まるのを待って、こっそり抜け出してきちゃいました」


小声で明かされた秘密に、俺は苦笑を禁じ得なかった。

大学で耳にした噂によれば、彼女の実家はかなり厳格な家庭らしい。門限も厳しいと聞く。

そんな箱入り娘が、深夜に窓から抜け出してBarに来るなんて。

その行動力と、そこまでして求めている「癒やし」の切実さに、胸が少し痛む。


「それは……冒険ですね」

「はい。悪いことしてるみたいで、ちょっとドキドキします」


彼女はそう言って、少しだけ少女のように笑った。

大学での完璧な笑顔とは違う、等身大の二十一歳の表情。

俺はそのギャップに眩暈を覚えながら、静かに尋ねる。


「今夜は、何になさいますか?」


彼女は少し考え込み、俺を見つめた。


「マスターにお任せしてもいいですか? 今の私に合うものを」


バーテンダーにとって、最も試されるオーダーだ。

今の彼女に合うもの。

深夜の脱走。

隠したい素顔。

けれど、芯には強い意志を持っている女性。


俺の脳裏に、一つのカクテルが浮かんだ。


「かしこまりました」


バックバーから、ジンのボトル『タンカレーNo.10』を手に取る。

通常のジンよりもフレッシュな柑橘の香りが特徴的な、プレミアムなジンだ。

それに、ホワイトキュラソーと、レモンジュース。


シェイカーに材料を注ぎ、硬い氷を投入する。

一瞬の静寂。

呼吸を整え、シェイクを始める。


ジャッ、ジャッ、ジャッ。


昨夜よりも少しリズミカルに、空気を多く含ませるように。

鋭い氷の破砕音が、深夜の店内に心地よく響き渡る。

彼女はその音を、じっと耳を澄ませて聴いていた。


「お待たせいたしました。『ホワイト・レディ』です」


カクテルグラスに注がれたのは、雪のように白く濁ったショートカクテル。

液面には細かい氷の粒がキラキラと浮いている。


「白い、貴婦人……?」


「ええ。ベースは度数の強いジンですが、柑橘の甘みと酸味で、口当たりは柔らかく仕上がっています」


彼女はグラスを手に取り、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

そして、一口。


「……ん」


口元についた白い泡を舌先で舐め取り、彼女はほう、と息を吐いた。


「美味しい……。すごくさっぱりしてるのに、奥の方に熱いのがいる感じ」


「その通りです。白いドレスの貴婦人、という意味があります。見た目は清楚ですが、ベースは強いジン……芯の強さを秘めた一杯です」


俺がそう説明すると、彼女はグラスを見つめ、少しだけ自嘲気味に笑った。


「芯が強い、か。……私とは大違いですね」


「そうですか?」


「はい。私は、ただの臆病な見栄っ張りですから」


水を向けると、彼女はポツリポツリと語り始めた。


「大学だと、みんなが期待する『如月愛華』でいなきゃいけない気がして。笑顔で、優しくて、何でもできて……。勝手に押し付けられた理想像に合わせて、仮面を被り続けてるんです」


俺の手が、グラスを拭く動きを一瞬止める。

昼間の光景が蘇る。

教室で囲まれ、笑顔を振りまいていた彼女。

その背中で感じていた疲労。


「本当の私は、朝起きるのが苦手だし、部屋だって散らかってるし、カップラーメンだって大好きだし……」


ぶっちゃけた内容に、俺は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。

大学の男子たちが聞いたら卒倒しそうな情報の羅列だ。


「でも、それを誰にも言えない。言ったら、みんな離れていっちゃう気がして。……だから、息が詰まるんです。窒息しそうで、怖くて」


彼女の声が震えていた。

パーカーの袖をギュッと握りしめる手。


俺は静かにカウンターを出て、彼女の少し手前に新しいお絞りを置いた。


「仮面を被るのは、悪いことではありませんよ」


俺は穏やかなトーンで語りかける。

それは、昼間は「モブ」という仮面を被り続けている自分自身への言い訳でもあった。


「誰しも、社会の中で生きるためには役割を演じています。……ですが、それを脱げる場所が1つあれば、人は生きていけます」


俺は、彼女の前の白いカクテルに視線を落とす。


「ここには、大学の『如月さん』を知る人間はいません。貴女がカップ麺が好きでも、寝坊助でも、誰も幻滅したりしませんよ」


「……マスターも?」


彼女が上目遣いに俺を見る。

その瞳は、すがるように潤んでいた。


「もちろんです。バーテンダーは口が堅いのが商売ですから。……ここでの話は、決して外には漏らしません」


俺が淡々と、しかし真面目に答えると、彼女はようやく声を上げて笑った。


「ふふっ、頼もしいですね。……でも、嬉しい」


彼女は残りのカクテルを飲み干し、空になったグラスを愛おしげに見つめた。


「よかった。……ここに来て、本当によかった」


その言葉は、アルコールの熱と共に俺の胸にじんわりと染み込んだ。

罪悪感がないと言えば嘘になる。

俺は彼女が恐れている「大学の関係者」そのものなのだから。


だが、今この瞬間だけは。

俺はこの空間を守る番人でいよう。

彼女が安心して仮面を外せる、唯一の共犯者として。


「……そろそろ、帰らなきゃ。朝になっちゃう」


彼女は名残惜しそうに席を立つ。

パーカーのフードを被り直し、再び「逃亡者」の姿に戻る。


「お気をつけて。夜道は暗いですから」

「はい。……あの、マスター」


扉に手をかけたところで、彼女が振り返った。


「また、愚痴り来てもいいですか?」

「ええ。いつでも」


「……ありがとうございます。おやすみなさい」


扉が閉まり、静寂が戻る。

俺は彼女が座っていたスツールを見つめ、深く息を吐き出した。


(……やれやれ)


とんでもない爆弾を抱え込んでしまったものだ。

彼女の「素」を知れば知るほど、昼間の大学で彼女を直視できなくなる。

明日のゼミで、俺は一体どんな顔をして彼女の背中を見ればいいのだろう。


シンクに水を流す音だけが、深夜の店内に響いていた。

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