深夜のBarで、大学一の美女が俺への恋心を相談してくる

山葵

第1話:Bar『ノクターン』

カラン、と氷が鳴る音が、静寂の中に溶けていく。


まもなく深夜二時。

都市の喧騒が眠りにつき、夜のとばりが最も濃くなる時間帯。

地下にあるこの店、Bar『ノクターン』は、まもなく閉店の時間を迎えようとしていた。


琥珀色の灯りに満たされた店内で、カウンターに突っ伏している美女が一人。


「……ねえ、マスターぁ」


とろんとした瞳が、恨めしげに俺を見上げている。

長い睫毛まつげが震え、頬は桜色に染まっていた。

大学では「キャンパスの華」と謳われる高嶺の花、如月きさらぎ愛華あいか様である。


ただし、今の彼女にその面影はない。

あるのは、アルコールに理性のタガを外され、素の自分を曝け出した一人の「恋する乙女」だけだ。


「なんで……なんで、あの人はあんなに鈍感なのかなぁ」


彼女は空になったグラスを指先でつつきながら、今日何度目かわからない愚痴を零した。


俺は慣れた手つきでステアし、新しい一杯――酔いを醒ますための冷たいチェイサー(水)を差し出す。


「それは、そのお相手が照れ屋なだけでは?」


当たり障りのない相槌を打つ。

これが俺の仕事だ。

バーテンダーとは、客の孤独に寄り添う影であり、決して主役にはならない舞台装置。


しかし、彼女は不服そうに頬を膨らませた。


「違うの。あの子はね、照れてるとかじゃないの。……もっとこう、スルースキルが高すぎるっていうか。私が勇気を出して『おはよう』って言っても、壁のシミに話しかけられたみたいに『あ、どうも』で終わっちゃうの!」


バン、とカウンターを弱々しく叩く。


「私、こんなに頑張ってアピールしてるのに……。全然気づいてくれない……」


涙目で訴えかけてくる彼女を見て、俺は心中で深く溜息をつく。

そして、磨いていたグラスに視線を落とした。


(……いや、如月さん)


俺は、眉間のシワを指で揉みほぐしたい衝動を必死に堪える。


(それ、全部『俺』のことですよね?)


気づいていないのではない。

気づいているからこそ、全力でスルーしているのだ。


彼女が恋焦がれ、悩み、こうして深夜のBarで管を巻いている相手。

その「つれない同級生」の正体が、今目の前でシェイカーを振っているこのバーテンダーだとは、彼女は夢にも思っていないのだった。




なぜ、こんな奇妙なマッチポンプのような事態になったのか。

時計の針を、ことの始まりである四月――三ヶ月前へと巻き戻そう。


四月某日。

心理学科、演習室。


春特有の浮足立った空気と、埃っぽい教室の匂いが充満していた。

窓から射し込む日差しは暖かく、舞い上がるちりをキラキラと照らしている。


「それじゃあ、順番に自己紹介していこうか」


教授の気の抜けた声と共に、三年生から始まるゼミの顔合わせが始まった。


俺、久住くずみみなとは、教室の一番後ろの席で、可能な限り気配を殺していた。

背中を丸め、視線は机の木目へ。

少し伸びた前髪と、野暮ったい銀縁眼鏡で表情を隠す。


これは処世術だ。

大学という華やかな社交場において、俺のような人間は「背景」に徹するのが一番傷つかない。

誰の記憶にも残らず、誰の感情も動かさず、ただ静かに単位だけを回収して去る。それが俺のスタンスだった。


「次は、如月さん」


その名前が呼ばれた瞬間、教室の空気が変わった。

ざわついていた男子学生たちが一斉に姿勢を正し、女子学生たちが憧憬と嫉妬の入り混じった視線を向ける。


「はい」


鈴を転がしたような、涼やかな声。

席を立ったのは、雑誌の切り抜きから抜け出てきたような美少女だった。


艶やかな栗色のロングヘア。

意志の強さを感じさせる大きな瞳。

清楚なブラウスに身を包み、背筋をピンと伸ばして立つ姿は、そこだけ照明が当たっているかのように輝いて見えた。


「如月愛華です。専攻は認知心理学を希望しています。至らない点もあるかと思いますが、皆さんと協力して良い研究ができればと思います。よろしくお願いします」


完璧な挨拶。

完璧な笑顔。

深々としたお辞儀に合わせて、ふわりと甘いフローラルの香りが漂った気がした。


(住む世界が違うな)


俺は心の中で独りごちる。

彼女は舞台の主役。俺は舞台袖の書き割りの木。

同じ空間にいても、交わることのない並行世界なのだ。


拍手が湧き起こる中、彼女が着席する。

ふと、視線が合った気がした。


俺は反射的に目を逸らし、手元のレジュメに視線を落とす。

関わってはいけない。

あんな眩しい存在に関われば、俺の平穏な「モブ生活」は消し飛んでしまう。


その後、俺の番が回ってきたが、記憶に残っている者はいないだろう。

ボソボソと名前を告げ、三秒で着席した。

これこそが「モブ」の正しい振る舞いである。


ゼミ終了後。

「ねえねえ、この後みんなで親睦会行かない?」


調子の良さそうな男子学生が声を上げ、教室がにわかに盛り上がる。

中心にいるのはもちろん、如月さんだ。


「如月さんも行くでしょ?」

「あ、えっと……」


彼女は一瞬、困ったように視線を彷徨わせたが、すぐに完璧な笑顔を張り付けた。


「うん、もちろん。これから同じゼミだもんね、仲良くしたいし」

「やった! じゃあ店予約してくるわ!」


歓声が上がる。

彼女は笑顔のまま、けれどどこか疲れたように小さく息を吐いたのを、俺だけが見ていた気がした。


「そこの、久住くんだっけ? 君もどう?」


不意に話を振られ、俺は愛想笑いを浮かべて首を振る。


「あ、いや……俺、これからバイトなんで。すみません」

「そっかー、残念。じゃあまた今度な!」


あっさりとしたものだ。

俺はそそくさと鞄を抱え、逃げるように教室を出た。


背後から聞こえる華やかな笑い声。

その中に混じる、彼女の作り込まれた「完璧な声」が、妙に耳に残った。


日付が変わって、深夜一時三十分。

Bar『ノクターン』の営業時間は、深夜二時――二十六時までとなっている。


「そろそろラストオーダーか……」


俺は店内の時計を確認し、小さく伸びをした。

平日の深夜。客足は途絶え、今は俺一人だ。


バックバーに並ぶボトルを軽く整える。

俺の姿は、昼間の冴えない学生とは似ても似つかない。

コンタクトレンズを入れ、前髪をアップバングにして額を出し、身体にフィットしたベストを着込んでいる。

猫背だった背筋も、今はピンと伸びていた。


「今日はもう、誰も来ないか」


締め作業の段取りを頭の中で組み立て始めた、その時だった。


カランコロン。


重厚な木の扉が開き、カウベルの乾いた音が響いた。

閉店十五分前の駆け込み客。

俺は瞬時に「マスター」の顔を作り、扉の方を向く。


「いらっしゃいませ」


低く、落ち着いた声で迎える。

入ってきたのは、一人の女性だった。


「……まだ、やってますか」


消え入りそうな声。

その姿を見て、俺は表情筋を維持するのに必死な努力を強いられた。


(……如月、さん?)


そこに立っていたのは、間違いなく大学のアイドル・如月愛華だった。


だが、その姿は昼間の「完璧なヒロイン」とは程遠い。

服装こそ昼間と同じ清楚なブラウスとスカートだが、その雰囲気は疲れ切っている。

コンタクトを外したのか、縁の細い眼鏡をかけており、髪もどこか無造作だ。


何より、あの輝くような笑顔がない。

能面のように表情が抜け落ち、纏っている空気が重い。


「ええ、二十六時まで営業しております。まだ大丈夫ですよ」


俺が動揺を押し殺して答えると、彼女は「よかったぁ……」と深く息を吐き、ふらふらとカウンターへ歩み寄ってきた。

そして、一番端の席にドスンと重たく腰を下ろす。


「お疲れのようですね」


お絞りを差し出すと、彼女はそれを受け取り、顔を埋めるようにして拭いた。

まるで、張り付けた仮面を剥がし取るかのように。


「……疲れました。もう、一歩も動けないくらい」


彼女は眼鏡の位置を指で直しながら、自嘲気味に笑う。

その眼鏡の奥の瞳は、とろんと潤んでおり、既にどこかで飲んできたことが伺えた。

おそらく、あのゼミの親睦会だろう。

一次会、二次会と付き合わされ、ようやく解放されたのがこの時間なのかもしれない。


「ご注文は、いかがなさいますか?」


俺はメニューを差し出さず、穏やかに尋ねる。

今の彼女に、メニュー表の細かい文字を読ませるのは酷だろう。


「……さっぱりしたのがいいです。あと、あんまり甘くないやつ」


「かしこまりました」


俺は一瞬思考し、バックバーからボトルを一本手に取る。

『タンカレー』。ロンドンのドライ・ジンだ。

そして冷蔵庫から冷えたトニックウォーターと、フレッシュなライムを取り出す。


最も有名で、最もオーダーされるカクテル。

だからこそ、バーテンダーの腕と店の質が問われる一杯。


氷を入れたロンググラスに、ジンを注ぐ。

ライムを搾り入れ、最後にトニックウォーターで満たす。

炭酸が逃げないよう、ステアは最小限に。


シュワシュワと泡が弾ける音だけが、静かな店内に響く。


「お待たせいたしました。『ジントニック』です」


コースターの上に、透き通った液体が満たされたグラスを滑らせる。

ライムの爽やかな香りが、ふわりと漂った。


「……おいしそう」


彼女はグラスを持ち上げ、一口飲む。

喉を鳴らす音。

強めの炭酸と、ジンの苦味、ライムの酸味が、疲弊した身体に染み渡っていくのが見て取れた。


「ん……おいしい」


吐息のような感想。

彼女の強張っていた肩から、力が抜けた。


「生き返る……。さっきの居酒屋のお酒、薄くて甘いだけで、全然酔えなくて」


「それは災難でしたね」


「本当ですよ。それに、周りの話に合わせるのも疲れちゃって……」


彼女はグラスを見つめたまま、ポツリポツリと語り始めた。

初対面の、しかも閉店間際のバーテンダー相手だからこそ、口が軽くなっているのだろう。


「『如月さんはすごいね』とか『彼氏はいないの?』とか、そんなのばっかり。……私はただ、普通の学生として勉強したいだけなのに」


彼女は頬杖をつき、氷をカランと鳴らす。


「みんな、私のことなんて見てないんです。見てるのは『大学一の美女』っていうレッテルだけ。……本当の私なんて、誰も興味ない」


その言葉は、痛いほど俺の胸に刺さった。

俺自身、昼間は彼女を「住む世界の違う人」と決めつけ、関わりを避けていたからだ。


「……そうでしょうか」


俺はグラスを磨く手を止めず、静かに言葉を挟む。


「少なくとも、貴女が今、無理をして笑うのをやめて、そうして素直に『疲れた』と言葉にできている。……その姿は、とても人間らしくて、素敵だと思いますよ」


それは、半分は客への慰めであり、半分は俺の本心だった。

昼間の作り物めいた笑顔よりも、今の眼鏡姿で愚痴を零す彼女の方が、ずっと血が通っているように見えた。


彼女はハッとして顔を上げ、俺を見た。

眼鏡の奥の瞳が、少しだけ見開かれる。


「……マスターって、口説くの上手そうですね」

「いえ、事実を申し上げたまでです」

「ふふ、そういうことにしておきます」


彼女は小さく笑った。

それは今日初めて見せた、心からの自然な笑顔だった。


「ここ、いいお店ですね。……また来てもいいですか?」

「ええ、もちろん。いつでもお待ちしております」


時計の針は二十六時を回ろうとしていた。

彼女は最後の一口を飲み干し、名残惜しそうに席を立つ。


「ごちそうさまでした。……おやすみなさい、マスター」

「おやすみなさいませ」


扉が閉まり、カウベルの音が消える。

再び訪れた静寂の中で、俺は彼女が残した空のグラスを見つめた。


これが、俺たちの長い夜の始まりだった。

彼女の逃げ場所となり、彼女の恋の相談相手となり、そして彼女に恋をされることになる、奇妙な二重生活の幕開け。


俺は深く息を吐き、眼鏡を外した彼女の顔を思い出す。

(……とりあえず、明日のゼミで顔を合わせるのが気まずすぎるな)


俺は苦笑しながら、バックバーの灯りを落とした。

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