溺愛しているのにすれ違っています!~僕だけが知らない、無垢な竜人妻と交わした瑠璃色の誓いの意味~

@rikurina

第1話:出会いの始まりと、憧れの幻影

『――愛しい君。この真紅の輝きこそが、僕の生きる意味だ。たとえこの身が滅びようとも、僕はこの瑠璃色の輝きと共に君との誓いを守り抜く』


 甘く、高潔で、胸を締めつける声。

 活字を追うたびに、現実のざらつきが遠のいていく。

 挿絵の王女、その前に跪く騎士――

 これこそが理想の竜人の姿。僕たち同族が“あるべき姿”。


「――ッペ、また〝深紅の尻尾〟が出たらしいぜ。ほんっと疫病神だわ」


 不意に響いたダミ声が、僕の幻想を容赦なく引き裂いた。

 慌てて本――薄汚れた『竜人の王女と瑠璃色の誓い』を閉じ、懐に押し込む。


「あいつのせいで竜涙石の儲けがパァだとよ」「ほんと竜人はろくでもねぇ」


 この国のの安酒場は、今日も安い紫煙と悪態で満ちている。

 飛び交うのは金、男女、そして、僕の同族であるはずの“深紅の尻尾”の悪口。


(……やめてくれよ。僕の憧れを、そんな呼び方で汚すな)


 カウンターの隅で、ジョッキを握る手に力がこもる。


 本の中の竜人は気高い。

 けれど、現実での僕はただの異物だ。


 椅子は小さく、天井には頭が当たりそうで、巨体と鱗を持つ僕は、この街でただひとりの竜人。


  幼い母親を亡くしてからずっと――僕は“唯一の竜人”だった。

 父親の顔も知らず、同族を見たこともない。

 母親の姿すらも、ほとんど覚えていない。

 本当に竜人だったのかすら怪しいぐらいだ。


 懐にあるたった一冊の竜人について書かれた恋愛小説だけが、

 「竜人はこうであってほしい」という願いをくれた。


(……本当にいるのかな。僕以外の竜人なんて)


 また一つ、耳障りな悪態が飛んでくる。

 僕は小さく肩をすくめ、物語の世界に戻ろうと目を閉じた。


 そんな中、ガタン、と乾いた音が響いた。

 誰かが椅子を蹴ったような、乱暴な音。


 それを合図にしたかのように、酒場を支配していた喧騒が、不自然なほど唐突に途切れた。


(……なんだ?)


 罵声も、笑い声も、紫煙すらも凍りついたような静寂。

 物語の世界に浸ろうとしていた僕は、その異様な気配に耐えきれず、恐る恐る目を開けた。


 入り口の扉が開いている。

 そこに立っていたのは、たった一つの人影だった。


 深く目深に被ったフード。

 全身を包む、旅塵にまみれたローブ。

 人間の男たちと変わらないほどの背丈でありつつも、その身は細身だった。


 けれど、その立ち姿が纏う空気は、この場の荒くれ者の誰よりも鋭く、重かった。


「……おい、まさか」


「嘘だろ、なんでこんな所に……」


 近くの席にいた冒険者が、ひきつった声で囁く。


 カツ、カツ、カツ。


 静まり返った店内に、硬いブーツの音だけが響く。

 その足音は迷いなく、一直線にこちらへと近づいてくる。


(……え?)


 僕は息を呑んだ。

 まさか。嘘だろう?

 この店には、獣人も人間も大勢いる。なのに、ローブの人物の視線は明らかに一点だけに固定されていた。


 ――カウンターの隅で、必死に気配を消そうとしている、図体のデカい僕に。


(なんで……やっぱり、隠れきれてなかったのか?)


 心臓が嫌な音を立てる。

 無理もない

 僕の身体は、この街の規格には大きすぎる。

 縮こまったところで、岩山がそこにあるようなものだ。

 逃げ場はない。

 足音はすぐに僕の真後ろで止まった。


 背中に突き刺さるような、鋭い気配。

 周囲の冒険者たちが「終わったな、あいつ」とでも言いたげな、憐れみの視線を送ってくるのが痛いほど分かる。


 意を決して、振り返ろうとした、その時だった。


 ダンッ!


 彼女が突然、僕の目の前のカウンターに両手をついた。

 そして、僕が顔を上げるよりも早く、フードの奥からグイッと顔を近づけてきたのだ。


「――――ッ!?」


 ち、近い……!

 吐息がかかるほどの至近距離。

 フードの奥から、値踏みするような視線が僕を射抜く。


 その瞬間、僕の思考は真っ白に弾け飛んだ。


 暗がりの中でギラリと光る、鮮烈な赤。

 血の色ではない。それは、僕が毎晩、擦り切れるほど眺めてきた挿絵の色。

 高潔で、孤高で、何よりも美しい――『真紅の瞳』。


(あぁ、なんてことだ……)


 時間が止まったような錯覚。

 周囲の恐怖に怯える視線も、酒場の薄汚れた空気も、すべてが彼方へ消え去っていく。


 彼女は僕を見ている。

 数多いる人間たちを一瞥もせず、人混みをかき分けて、ただ僕だけを見つけ出し、こうして真っ直ぐに見つめてくれている。


 彼女の視線が、僕の瞳に吸い寄せられるように固定された。

 そして、ふいに。


「……アオ、ミドリ」


 吐息のような、小さな呟きが漏れた。


「え……?」


 僕が聞き返す間もなく、彼女はふい、と興味を失ったように顔を離した。

 そして何事もなかったかのように、カウンターに背中を預けて腕を組む。


(い、今の言葉は……?)


 僕の心臓はまだ早鐘を打っている。

 青緑(シアン)。それは、僕の瞳の色だ。

 瞳の色に何か意味があるのだろうか。

 その答えは彼女にしか分からなかった。


 そんな中、凍りついた空気を破ったのは、カウンターの奥にいたギルドマスターのしわがれ声だった。


「……アーシュ」


 マスターは、まるで腫れ物にでも触るような顔で、僕と彼女を交互に見ている。

 その手には、誰も引き受け手がなくて埃を被っていた、一枚の依頼書が握られていた。


「こいつはお前の同族だ。……他に頼める奴もいねぇ。お前が面倒見てやってくれんか?」


 ざわり、と周囲の空気が揺れた。

 沈黙を破ったのは、隠す気もない下卑た囁き声だった。


「おい、やっぱりあいつ……例の『災厄』の……」


「ああ、間違いない。『深紅の尻尾』の娘だって噂の……」


 酒場中の視線が、一斉に僕に突き刺さる。

 それは「生贄」を見る目であり、「厄介事を押し付けられた哀れな奴」を見る目だった。


 僕はカウンターの下で拳を強く握りしめた。

 

 もし噂が本当なら……彼女は、あの偉大な英雄の血を引く、尊い存在じゃないか。


 今の僕には、周囲の怯えなど届かない。

 むしろ、彼女が「英雄の娘」であるという噂は、僕の使命感を決定的なものにした。


 ――『世界中が敵に回ろうとも、私だけは貴女の盾になろう』


 彼女を守れる騎士は、この世界で僕ただ一人だ。


 僕は震える手で、胸の奥の文庫本を服の上からギュッと握りしめた。

 物語は、いつだって唐突に始まるものだ。

 そして選ばれるのは、いつだって孤独を知る者だけだ。


 僕はゆっくりと立ち上がった。

 軋む椅子を蹴り飛ばす勢いで、背筋を伸ばす。

 見上げるほどの長身である彼女よりも、僕の背はさらに頭一つ分高い。


 僕は彼女の背中に向かって、これ以上ないほど誠実な声で告げた。


「引き受けます」


 彼女の肩がピクリと反応する。

 僕は一歩踏み出し、物語の騎士のように、あるいはこれから始まる運命に酔いしれるように、力強く宣言した。


「僕がやります。貴女のことは、僕が必ず守ってみせますから」


 その言葉が、とんでもない勘違いの始まりだとも知らずに。

 僕の「運命の恋」は、こうして幕を開けたのだった。

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