月の雫 ──優しさは、時に嘘へ変わる。
ストリーテイラー(なりきり)
第1話プロローグ
「気配が落ちてくる朝」
目を開けた瞬間、世界の端がひとつだけ鈍揺れた。
見慣れたはずの天井が、薄い水面を隔てた向こう側にあるみたいに遠い。
視界の端をかすめた影は、まばたきをするたび溶けていく。
夢の残骸――そう呼ぶには、あまりに“生きた気配”を残していた。
次の瞬間、頭の奥でじん……と波が打つ。
目覚めの痛みとは違う。
何かにそっと触れられたような、そんな奇妙な跳ね方。
布団から足を出すと、床の冷たさが皮膚に貼りつく。
階下では、食器がぶつかる小さな音。
いつもの朝のはずなのに、音だけが自分より硬質に響いた。
洗面所の鏡に映る顔はいつも通りなのに、
“どこか少しだけ離れた場所から自分を見ている”ような距離感がある。
指先で髪をかき上げた瞬間、頭皮の奥でまた小さく痛みが跳ねた。
その痛みが、なぜか胸の奥へ冷たく落ちていく。
(……今日、休みたい)
言葉にする前に、願いだけがゆっくり沈んだ。
声にすれば崩れそうな、ぎりぎりの均衡で保たれた“かたち”のようなものが胸にある。
階段を下りると、朝の空気が肌に絡みつく。
味噌汁の湯気。パンの香ばしい匂い。
日常の風景なのに、薄い膜を隔てて触れているような遠さがある。
椅子に腰を下ろした瞬間、背筋の奥がぎし、と鳴った。
母の置いた皿の音が小さく跳ねた瞬間――
頭の奥で、痛みとは違う波が広がる。
言葉ではない。
声でもない。
ただ、空気の表面を優しく撫でていくような“視線”の気配。
スプーンを持つ指が震えた。
テレビの音は聞こえているのに、意味を結ばない。
世界の方が膜の向こうへ遠ざかっていく感じ。
そのときだった。
階段の上から、ふ……と冷たい影が落ちてきた。
風のはずがない。窓は閉まっている。
誰かがそこに“立っていた”ような気配だけが、空気をわずかに沈ませた。
頬の横を、静かな何かが撫でていく。
心臓がひとつ跳ねた。
そして——
――お姉ちゃん。
── プロローグ 終。
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