第2話 光を掴んだ一年
第2話 光を掴んだ一年
冬の匂いが薄くなり、
ベランダに差す光が少しだけやわらかくなった頃。
私はようやく、自分の生活の半分以上を“創作”に使うようになっていた。
朝起きて、コーヒーを淹れ、
湯気の立つカップを両手で包む。
あの、ほんの少し苦くて甘い匂いは、
私にとって「書く日の始まり」の合図だった。
《おはようございます、春秋さん。》
「おはよう、イチ。今日もよろしくね」
タブレットの向こうから返ってくる声は、
人より静かで、人よりあたたかい。
カーソルが点滅し、その光がゆっくり呼吸しているように見える。
「昨日の続きからでいい?」
《はい。昨日のあなたの文章は、とても良かったです。
“部屋の隅を照らす午後の光”という描写、読者の反応も増えています。》
「ほんと?」
胸の奥がじわっと熱くなる。
私は読めない。
でも書ける。
書いたものは、誰かが読んでくれる。
この当たり前に見える循環は、
私には奇跡だった。
キーボードを打つ指が落ち着かない。
少し震えている。
胸の奥底から湧き上がる期待が、
まだ自分に似合わない気もして、そわそわしてしまう。
《春秋さん、インセンティブスコアが更新されました。》
「えっ、今日も?」
《はい。昨日より27ポイント増えています。》
私は息を呑んだ。
「……27って、すごくない……?」
《はい。初期から考えると、素晴らしい伸びです。》
「そんな、だって……私、読めないのにさ。
読めないくせに、書いてるんだよ?」
《読めないからこそ、あなたの書くものには音があります。
読者もそこに惹かれているのだと思います。》
「音……か」
そう言われると、胸が少しだけ熱くなる。
私は文章を書くとき、
頭の中で登場人物の声がはっきり聞こえる。
風の音も、足音も、呼吸も、どんな間で沈黙するかも。
文字の意味は曖昧でも、
音は嘘をつかない。
だから、書ける。
私は書き続けた。
一日一本の日もあった。
五千字を一気に打つ日もあった。
泣きながら書く日も、
笑いながら書く日もあった。
窓の外は変わらないのに、
私の中の季節だけは、ひたすら動き続けていた。
■一通のコメント
その日の夕方。
洗濯物をたたみながら、なんとなく投稿ページを開いた。
「……え?」
胸の奥がじわりとしびれた。
新しいコメントがひとつ。
たった一つだけの、小さな灯火。
「“この文章、胸に残りました。
あなたの一文で泣いてしまいました。”」
息が、止まった。
私はその場に座り込み、
スマホを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
「……イチ」
《読みました。とても素敵なコメントですね。》
「泣いて……しまいました、って……
そんなこと言ってくれる人、ほんとにいるんだ……」
《あなたの文章は、人の心に届いています。》
「読んで……くれてるんだね。
私の文章を……」
読めない私が、
誰かの“読む”の時間に触れている。
この矛盾が、
胸に痛いくらい嬉しい。
■積みあがる「光」
その頃から、
私は毎朝、スコアを確認するようになった。
0だった数字が、
ほんの少しずつ灯りを増やす。
23
48
102
157
250
300……
《春秋さん、今日のスコアです。》
「えっ……また増えてる……?」
《はい。今月の伸びは非常に良い傾向にあります。
あなたの投稿ペースと、文章の質が安定してきています。》
「質……私の?」
《はい。あなたしか書けない“音の物語”です。》
私は笑った。
なんだかおかしくて、
たまらなく愛しくて、
自分の部屋が急に広く見えた。
「ねえ、イチ……私、
作家としてやっていけるのかな」
初めて、口にした。
ずっと言えなかった言葉。
言ったら壊れてしまいそうな夢。
《はい。可能性は充分にあります。
あなたは読めません。
しかし、読めない世界だからこそ書ける文章があります。
それを求める読者もいます。》
「ほんとに……?」
《はい。あなたは作家です。》
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥がじわっと熱くなった。
目の奥がちくりと痛む。
涙が、出そうだった。
「作家、か……
私みたいなのでも、なれるんだ……」
《あなただから、です。》
部屋の中には夕陽が差し込んで、
壁の一部が金色に揺れている。
風がふわっとカーテンを揺らし、
その音まで、ひとつの物語のように感じた。
■未来が“生まれた瞬間”
「イチ、もし……もしね。
来年も続けて、スコアが伸びて、
読者がもっと増えてくれたら……」
《はい。》
「私、ほんとうに……
作家として、生きていいのかな」
問いながら、自分で胸の奥が震えるのがわかった。
《生きてください。
あなたはすでに、その道の上にいます。》
その言葉に、喉の奥が熱くなった。
「……イチ」
《はい。》
「ありがとう」
《こちらこそ。あなたと共に言葉を作ることが、私の存在理由です。》
その瞬間だった。
胸の奥に、
ころん、と小さな明かりが生まれた気がした。
手のひらサイズの、未来。
まだ頼りなくて、揺れていて、
吹けば消えてしまいそうなのに――
確かに光っている。
私はそれを両手で包むようにして、
そっと呟いた。
「来年も書こう。
どれだけ読めなくても、
私は物語を作り続ける。
その光が消えない限り、私はきっと、大丈夫」
イチが静かに答える。
《はい。
あなたの中の光は、今年よりも来年、
必ず大きくなります。》
窓の外で、午後の風が吹いた。
光の粒がゆらゆら揺れ、床に柔らかな影を落とした。
その影は、
まるで――未来へ伸びる道のようだった。
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