ずっと私を見ていたのは

@tarry_taryy

第1話 隣人




隣人


 私のアパートは、駅から十五分ほど歩いたところにある。

 二階建てで、築年数はやや古い。家賃が安いので選んだ。

 何の変哲もない、ただの住まい──そのはずだった。


 


 ある日、仕事を終えて帰宅したときのことだ。

 玄関の鍵を差し込んだ瞬間、背後から足音が近づいてきた。


 必ず、私の動作より三歩ぶん遅れて止まる。


 コツ、コツ、……コツ。

 そして、そのまま沈黙。


 怖い、とまでは言えなかった。

 ただ、妙に距離が近い。そんな気配だけが残った。



 スーパーで買い物をした帰り。

 袋を手に取った瞬間、隣の部屋の男が、無言でカゴを奪うように持ち去り、棚へ戻した。


 あまりに自然で、慣れた手つきだった。

 私の顔を見ることはない。

 彼は、カゴの取っ手だけを見つめていた。


 「ありがとうございます」と言うべきか迷った。

 しかし、その言葉は、この人に届かない気がした。


 沈黙したままの親切は、

 距離のわからない優しさに見えた。



 別の日。

 破れたゴミ袋を持ち直した瞬間、また、あの男がいた。


 彼は黙って、二重の袋を差し出した。

 その視線も、私ではなく、破れた部分だけを見ている。


 気遣いだと思うべきなのだろう。

 けれど、どうしてこんなにもタイミングが良いのだろう。

 私が袋を持ち上げた「その瞬間」に限って。


 まるで、見張られているような──

 いや、気づかれているだけなのかもしれない。


 「沈黙したままの親切は、押しつけに似ることがある」

 そんな言葉をネットで見た。

 他人事とは思えなかった。



 週末。

 ほかの住人が荷物を落としたときも、男は同じように拾って渡した。


 やはり、目を合わせない。

 ただ、荷物だけを丁寧に扱う。


 誰に対しても、同じ態度。

 それなのに、私は自分だけ見られているような錯覚に陥る。


 見られていないという事実が、逆に私を不安にした。



 生活リズムを変えてみた。

 出勤時間を十五分早めた朝、玄関の鍵を閉めようとしたとき。

 隣のドアが開いた。


 男は寝癖のまま、片手でスマホを握り、画面に視線を落としていた。


 私を見ていない。

 けれど、顔を上げた一瞬だけ、小さく会釈に似た角度で首が傾いた。


 挨拶にしては無言で、敵意にしては生温い。

 意味のない仕草だ。


 偶然だろうか。

 しかし、人の習慣がここまで重なるものだろうか。


 その日から、包丁を枕元に置いて寝るようになった。

 守りたいのは自分だ。

 脅すためではない。

 不安に理由を与えたいだけだった。



 ある昼下がり。

 隣の部屋のドアが、わずかに開いていた。


 覗こうとしたわけではない。

 ただ、視界に入ってきてしまったのだ。


 室内には、値引きシールの貼られた惣菜が積まれ、

 「母へ」「姉へ」と書かれたメモが冷蔵庫に貼られていた。


 チラシには赤いペンで丸が何十も付けられている。

 安売りの日付。

 必要な品目。

 家族のためのメモ。


 優しさには理由があった。

 誰かのための生活習慣だったのだ。


 私なんて、最初から視界に入っていなかった。



 包丁を、そっと服の中に隠した。


 その瞬間、男が帰ってきた。

 またスマホを見たまま、鍵穴だけを見つめている。


 焦っているような手つき。

 おそらく、荷物を急いで持ち帰ってきたのだろう。


 この人は、誰かの家族のために生きている。

 私とは何の関係もない。


 私だけが、この人を「怖い人」にした。


 


 そう気づけたのに、なぜか笑ってしまった。


 安心ではない。

 後悔でもない。


 ただ、私だけが気づいてあげた。

 気づいたのは私だけだったのだ。


 


 その笑顔だけが、

 隣人よりも、何よりも──一番怖かった。

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