春の黒髪
春山純
春の黒髪
血が滴る床を、ただ見つめていた。そこに倒れていたのは、結婚して3年目になる隼人だった。2階では生後半年の希が寝ているはずだ。これからは2人で生きていくのだろうか。いや、私は彼女を1人にしてしまうことになるだろう。現実を見つめたとき、急に淋しくなってソファに顔を埋めて泣いた。
高校時代はバレーボール部に所属していた私は、髪型をショートカットにしていた。部の方針でそれは絶対だった。卒業してからは反動で髪をひたすら伸ばした。隼人に出会ったのは、ロングヘアが板についてきた大学2年の頃だった。サークルの友達から紹介された彼は、ロングヘアの女性が大好きだった。
「石原さとみはロングが一番だよな。一時期ショートにしてた時期もあったけど」
「インスタでさ、ひたすらショートカットにしまくる美容師いるじゃん?俺、そいつの動画よく見るのよ。どの女も、元のロングが一番似合ってるのになーって思いながら」
そんなセリフを散々聞いてきた。私は彼のことが好きだったから、ずっとロングヘアの状態を保っていた。彼のどこが好きだったんだろう。阿部寛似の彫りが深い顔立ち?家に遊びに行ったときに作ってくれた麻婆豆腐が美味しかったところ?風で倒れた自転車を、自分が倒したわけでもないのに直していたところ?気づいたら彼のことを好きになっていて、大学3年の頃に彼と付き合った。
「春の髪、すごく綺麗だね」
彼は私の家に遊びに来ては、風呂上がりの私の髪を乾かした。嬉しそうに髪の数を数えていた。私も髪色をコロコロ変えて、自由な髪型と髪色を謳歌していた。大学卒業後は同棲を始めた。私の長い髪を乾かすのが、彼の日課だった。
いつから雲行きが怪しくなったのだろう。どこで間違えたのだろう。一つ覚えているのは、私が結婚願望や子供について話していたときだ。私は子供が欲しかったけど、彼は違うようだった。
「出産すると、ショートカットにする女多いじゃん。それ、嫌なんだよね。やっぱりロングヘアが好きなんだよ」
「でも、髪乾かすの面倒だし、子供の目に入っちゃうかもしれないし」
「乾かすのは俺がやるだろ」
彼は子供の話になるといつも不機嫌そうな顔をしていた。子供についての価値観が合わないのに結婚したのは、バレー一筋で男性と関わりの少ない私に最初に好意を向けてくれたことが、大きかったんだろう。結婚したのは26歳の時で、28歳で子供を産んだ。髪を肩より短くすることは禁じられていた。それは高校時代とはまるっきり反対のようで、髪型を制限すると言う点では共通性のある束縛だった。元を言えば彼が悪いんだ。子供に興味がないのか遅くまで飲み歩き、最近は得意の料理すらしてくれない。髪も前より短くなったのが気に入らないのか、肩より下ではあるものの乾かすのをサボるようになった。育休も取らない彼にささやかではあるが、反抗を企てた私は、ショートカットにした。高校時代の懐かしい感覚が蘇る。これだよ、これ、と叫ぶ声が聞こえた。ロングヘアにはとっくに飽きていた。平日の昼間はショートカットで、彼がいるときはウィッグを被る。そんな生活が半年続いた時だった。私は脱衣所でウィッグを外すので、風呂に入るときは脱衣所の鍵を閉めていた。今日は遅くなると聞いていたから、油断したのがよくなかった。上司と揉めた彼が思いの外早く帰って、洗面台で手を洗おうと脱衣所に入り、ウィッグを見つける。風呂上がりの私を殴り、蹴り、ウィッグを投げ捨てた。このままじゃ死んじゃう。そう思って、彼が殴ってくる瞬間に、思いっきり手にしていたドライヤーで頭を殴った。彼はふらついてテレビの角に頭をぶつける。打ちどころが悪く、ひっくり返った彼は大理石の床に思い切り倒れた。ダラダラと血が流れ、血の池のような地獄絵図が広がる。私がこの人を愛していたんだって、短い髪をさすりながら考えた。髪が、髪が、幸せを繋ぎ止めてたんだ。歪な関係に終わりを告げるように、高かったウィッグをゴミ箱に放り込んだ。自首する用意はできていた。
「春、春」
「俺、春のこと、愛してんだよ」
最後にそう言ったって、もう遅いから。ロングヘアの私が、彼と笑顔で映る結婚式の写真。それをみた途端に急に涙が止まらなくなって、短い髪をかきむしった。
春の黒髪 春山純 @Nisinatoharu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます