21歳 年末

大学3年の年末、ぼんやりした気分のまま在来線のホームに立っていた。なんだか気分が晴れなかった私は、普通電車に乗り込むと、すぐに入り口付近の椅子に座る。体が固体から液体になるような感じで、どろどろと眠った。どんな夢を見ていたのだろうか、普通電車の揺れは心地よく、疲弊し切った体を癒す。気づけば実家の最寄り駅などとうに通り過ぎていた。見慣れない景色、浜風に揺れる松の木は、私の性根のようにぐにゃぐにゃと曲がっている。青チャートのように重たい体を起こした。暖房が効きすぎて、少し汗ばんでいることに気づく。冬の見るからに冷たい海をぼんやりと眺めていたけど、さすがに降りたほうがいいと思い、次の駅で降りようと決めた。夢ヶ丘という表示が見える。なんだか見覚えがある気がしたけど、疲れた頭はうまく働かない。電車から出ると、冷たい風が首筋を冷やした。浮かない気持ちでホームから出て階段を登る。反対側のホームに行くはずが、気づけば駅を出てしまっていた。そのことに気づいたのは、ICカードをカードリーダーにタッチした瞬間で、ときすでに遅し。空腹を満たすために天丼を食べると、せっかくここまできたんだから、と夢ヶ丘高校に向かう気になっていた。その頃には、仁科選手の母校だということを思い出していたんだと思う。夢ヶ丘高校前というバス停は2つあり、私はどちらが高校に近いのか運転手さんに尋ねた。

「学生さんは、みんな手前の方で降りはるなぁ」

とのことだったので、手前で降りようと決めた。夢ヶ丘高校へ向かうバスの中は、買い物帰りの老人たちで溢れている。高校時代は自転車通学だったので、バスで通っていたらどんな生活だったのか想像してみる。移動中に単語帳でも眺めていればよかったのかな。バスは急な坂を登り、蛇のようにうねうねと進んでいた。丘の上から海に向かって吹く風の音が聞こえる。夢ヶ丘、というアナウンスに慌ててボタンを押して、バスを降りる。斜面にあるバス停からさらに少し坂を上った先に、夢ヶ丘高校があった。年末ということもあり、緑色の低くて軽そうな校門は閉じられ、校内に人の姿は見えない。それにしても長い坂だ。北にそびえる山々を眺めた。坂はまだまだ続いているようだった。次に私は南側を見てみる。急な坂よりも、遠くに広がる海に目が行った。駅の位置はあそこかな、となんとなく推察してみる。景色に気を取られ、坂を駆け上がる足音には気づくのが遅くなっていた。足音は私の近くで止まり、荒い息遣いが聞こえてくる。運動着姿の男性がそこにいた。私はそこで、この高校が仁科選手の母校で、高校時代の彼がこの坂を駆け上がっていたのだと再認識する。その男性はすぐにまた坂を下っていった。この坂は地元の人もトレーニングで使ったりするんだろうか。それとも、まさか仁科選手だったりして。

次に男性が駆け上がってくるまで、ものすごく長く感じられた。坂を駆け上がり、すぐに踵を返そうとする彼に、慌てて声をかける。

なんと声をかけていいのかわからなくて、思わず口を出た言葉は

「いつもこの坂で走られているのですか?」だった。

「いえ、今はこの辺に住んでいないので。帰省したときくらいしか、ここでは走っていないですね」

私は彼の顔を見た。小柄な彼は暗い声をしていて、目尻が垂れているせいで余計に自信がなさそうに見えた。

「何か、」

「何か、スポーツはされているんですか」

「一応、野球をしています」

彼が口を開くたび、息が白くなる。彼の言葉を聞いたとき、自分が目を見開いたのが自分でもわかった。

「もしかして、仁科選手ですか?」

「はい」

もしかしたらそうかもしれないと思っていたが、やっぱり驚きを隠せなかった。ただ実家に帰ろうとしていたはずが、まさかこんなことになるとは。

「父が阪神ファンで、仁科選手が同点タイムリーを打っているのをテレビで見たことがあって」

「そうなんですね」

「移籍してからも、気になってたんです」

暗かったはずの彼の表情が明るくなっている気がしたのは、雲の隙間から太陽がのぞいたからだろうか。

「未だに僕のファンなんかいたんだ」

私が自分より年下だとわかったのか、彼は急にタメ口で言った。彼の自虐的な笑みは切なさをまとっていた。ルーキーのときの笑顔を知っているだけに、余計にそう思う。

「あ、ごめんなさい。トレーニング中でしたよね?」

彼の激走に水を差したことに気づき、慌てて詫びる。彼は全然、と言って顔の前で手を振った。

「応援してくれる人がいるって、やっぱり嬉しいですよ。最近は自分に誰も期待していなんじゃないかな、って思ってましたから」

彼はそう言って会釈をし、坂を下っていった。私と話している間にからだが冷えたのか、冷たい風に肩をすくめる仕草を見せた。私はバス停に向かうために、彼のしばらく後ろを歩く。次のバスがくるまで、彼の激走をただ目に焼き付けていた。

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